個人情報を保護し非公開とするのは当たりまえ。
組織の内部情報(職務上知り得た秘密)をみだりに口外し漏らしてはならない、というのは当たりまえ(公務員などの「守秘義務」。ただしその範囲が広すぎるという問題があるが)。
企業が部外者に対して自社の企業秘密を隠して教えないのは当たりまえ。
警察が犯罪捜査で犯人に捜査上の手の内を明かさないとか情報提供者(協力者)の氏名その他も明かさないのは当たりまえ。
報道機関が取材源を明かさないのは当たりまえ。
戦争やゲームで相手に手の内を明かさないのは当たりまえ。しからば、警察でも「公安警察」など諜報機関が収集した秘密情報はどうか。
公安警察は反体制の「思想犯」「政治犯」等を対象とし、民主主義体制を暴力で覆そうとする過激派やテロリストなどの動静を探る諜報活動(情報収集)を仕事にしているが、民主主義擁護の立場にたち選挙で一定数の国民の支持を得て国会等に議席も有している政党や労組・市民団体などまで調査・監視対象にしているのが問題。
それに、国が外交・防衛その他の或る情報を秘密にして内外の国民に隠すのは当たりまえか?国がアメリカなど外国から提供された秘密情報を内外の国民に隠すのは当たりまえか?
そもそも外交は―国家間の対立する利害(国益のぶつかり合い)の調整で、武力を行使せずに決着(合意)をはかる対話・交渉(説得・取引)のこと。
そこには表の外交(公開外交)と裏の外交(秘密外交)がある。裏(見えないところ)で―裏工作・裏取引・密約など。
交渉を進めるうえで有利・不利を決定づけるもの(バックボーン)としては軍事力・経済力・他国との連合それに倫理的(道義的)な力もあり。
第一次大戦までは秘密外交(謀議・少数者の専断)で、国民はそっちのけ(「知る権利」など、そもそもそのような概念も意識も無かった)というのが当たりまえ。
ところが、大戦中、ロシア革命を起こして政権を握ったレーニンは秘密外交の廃止を宣言した(旧ロシアが結んでいた秘密条約を暴露し、旧ロシアの権益の放棄を宣言)。
大戦の講和会議を前に、アメリカのウイルソン大統領が提唱した14ヵ条平和原則の第一番目は「秘密協定・秘密外交の禁止―公開外交」だった。
第一次大戦までは、戦争は外交政策実現の一手段であり、国際紛争解決の一手段として一般的に合法と見なされたが、大戦後の国際連盟規約・不戦条約(但しそれには条約違反に対する制裁規定がなく、自衛権にもとづく武力行使は禁止の範囲外とし、自衛と称して戦争をおこなう余地を残していた)、それに第二次大戦後の国連憲章などによって、国際紛争の平和的手段による解決を加盟国に義務付け、国際法上、自国への武力攻撃が実際に発生した場合(自衛権の発動は認められるがその場合でも、それを国連に報告し、国連の安全保障理事会が措置をとるまでの間に限られる)を除いて一切の戦争は違法とされ禁止されるようになった。
大戦後、制定された日本国憲法で、日本国民は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようすることを決意し」、「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意し」て、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力行使を永久に放棄する」と宣言した。
しかし、アメリカは国連創設の中心的役割を担いながら、ソ連に対抗し、米ソそれぞれ軍事同盟・軍事ブロックを結成し常時臨戦態勢をとって冷戦を展開した。
また日本も、憲法に戦力不保持・交戦権否認を定めておきながら、朝鮮戦争を契機に日米安保条約を結んでアメリカ軍の基地と駐留を認め、自衛隊をその協力部隊として再軍備へ向かった。
ソ連陣営解体で冷戦は終結したその後もアメリカは圧倒的な軍備を持ち続けたが、対テロ戦争を掲げてアフガン戦争からイラク戦争へと向かい、日本の自衛隊も後方支援協力をおこなったが、アメリカは戦費がかさみ財政悪化に窮しており、日本などへ資金のみならずの軍事作戦でも肩代わりを求めている。
この間、第一次大戦・第二次大戦・冷戦を経て現在にいたるまで、戦争に関係した主要国は熾烈な情報戦(スパイ・通信傍受・暗号解読など)・謀略をも展開してきた(それが互いに猜疑心と相互不信の連鎖を生み、戦争に駆り立て、或いは戦争に引き込む結果となる―日米開戦はまさにそうだった―12月8日放映のNHKスペシャル)。
いま我が国は日米同盟を「深化」させ、両軍一体化した共同作戦(「集団的自衛権」の名目でその行使―その場合、「自衛」といっても「日本本土を守る」ためなら、日米安保条約で既に可能になっているのだから、そのためではなく、むしろアフガニスタンやイラクのような海外での軍事作戦)、それに武器の共同開発も(武器輸出3原則を見直して)可能とし、(核密約で有事に際するアメリカの核持ち込みをも可能としてきた)そのアメリカ側の要請もあって、互いが共有する秘密情報(とりわけアメリカが提供した秘密情報―イラクのありもしない大量破壊兵器などの誤情報も)を保護するための法整備としてこの秘密保護法の制定が行われたものと考えられる。
このような日米同盟体制を是とする立場からは、それに関わる秘密情報の保護は必要だとなる。
しかし、憲法に忠実であろうとする立場からは、そんな秘密情報の保護など必要ないわけである。なぜなら、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持することを決意し」、戦争放棄・戦力不保持を憲法上国是にしている国に、不信と敵視を前提とする軍事機密(兵器や装備・部隊の配備・作戦・暗号などの秘密情報)などあり得ないことだからである。元外務省国際情報局の局長・孫崎亨氏によれば、1970代以降、米ロ中など大国同士の安全保障戦略は「勝つための戦略」ではなく「戦争をしないための戦略」(核均衡抑止による相互確証破壊戦略―大陸間弾道核ミサイルなど発射すれば相手も撃ち返してきて共倒れになるということが分かっているので、互いに攻撃を控える)をとっており、核兵器の配備・核弾頭数など「秘密の保護」(隠しておく)よりも「情報の開示」(互いに、相手に手の内を開示)しておくことのほうが重要視されるようになってきている。つまり情報の「秘匿」よりも「開示」のほうが世界の流れになってきており、「いま世界は、秘密の強化よりも偶発的に戦争が起きないよう、相手国に能力や意図を正確に知らせることが潮流になっている。米国と中国の関係でもそうなのであり、いま日本に必要なのは秘密保護よりも情報開示」なのだ。
総じて言えることは、国が戦争し、諜報機関をもち、情報戦をやり、外交機密・軍事機密をもち情報隠しするのが当たりまえだなどとは言えない、ということである。
尚、石破自民党幹事長が以前、「報道の自由、知る権利というが、我々には知らせない権利がある」と言っていたそうだが、この言い方には権利のはき違えがある。
「権利」というものは国民が持つものであって、権力者や公務員が持つのは「権限」であって「権利」ではあるまい。国民の権利・基本的人権は普遍的な天賦の権利で、憲法で保証されている権利であるが、権力者や公務員の権限は法律によって一定の条件(制約)の下に認められたものにすぎない。
国民には「知る権利」とともに「知られない権利」(プライバシー権)はあっても権力者や公務員に国民に「知らせない権利」など、国民の権利を規制する「権利」などありえないのである。
秘密保護法は権力者・公務員に特定秘密を国民に「知らせない」権限を認め、その権限を拡大・強化しようとするものである。