米沢 長南の声なき声


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どうして賛成か、反対か―心情から(II)
2006年06月20日

 先月掲載した「どうして賛成か、反対か―心情から」(Ⅰ)の後半(12)から後の部分に訳のわからないところが多々あったので、修正・加筆して、ここの(1)~(5)に掲載した。(6)から後は全く新しい文。

(1)情緒を養う教育

最近のベストセラー「国家の品格」を著した数学者の藤原正彦氏は、論理に対して情緒の重要性を論じている。
 但しそこで云う情緒とは、単なる喜怒哀楽などの感情とは別物だと藤原氏は云っており、それは、単なる「好きだ、嫌いだ」だの、「かっこいい、かっこわるい」「かわいい、かわいくない」「気に入った、気に入らない」だのという気分(感覚的感情)とは別物で、思い(心情・情念)とか美的感受性といった情操的感情(道徳的・宗教的・芸術的な感情)のことを指して云っているように思う。
 私が在職した学校の創設者の言葉に「才智より出でたる行為は軽薄なり、心情より出でたる行為は篤実なり」という言葉がある。それが建学の精神となっていて、この学校では心情教育が重視されてきた。
 評論家の加藤周一氏によれば、「人格の統一性の根源は、理性ではなく、心情の深みにある」という。氏は次のように書いている。
 「私の両親の子供に対する態度はきびしかった。反抗すれば押入れに閉じこめられたり、家の外に閉め出されたりした。父は子供の言うこと為すことについての不合理は許さなかった。母はやさしく、寛大で、何事についても強制するよりは説得しようと努めていた。争いがあれば双方の言い分を聞く。私はそのことに慣れ、学校を含めて家庭の外の社会の習慣が必ずしもそうでないことに強く反発していた。」「私が小学校であったとき、母に抱かれて経験した『愛』は、一般的抽象的な概念を媒介して自覚されていなかったが、母から私への、私から母への、あたたかく、確かで、自発的な、あふれるような感情であった。それはあまりに深い内面的な心情で、それを外面化し、制度化し、公教育に結びつける可能性を、私は想像もしなかった」と。(06,6,22朝日新聞「夕陽妄語」)
 心情など情緒を養う教育という場合、それはどのような方法で行なわれるべきか、それに相応しい方法と、そうでない方法とがあるわけである。
 教育方法には、生徒に対して先生が(知識・技能・作法・思想・信仰等々を)「教え込む」「詰め込む」といった注入法や反復訓練法、それに強制・プレッシャー(競争・評価・罰を科するなど)を加えることによって「叩き込む」とか、(外部から遮断して)「洗脳」するとか、あるいは心理的操作(マインドコントロール)によって呪縛をかけるという方法もある。「叩き込む」などの方法は知識・技能などの場合には、それが有効である場合もあるが、情緒(心情や美的感受性)を養うという場合は、(愛国心にしても、道徳心にしても、惻隠の情にしても、「もののあわれ」を知る真心にしても)それは生徒自身が様々な人・動物・社会・自然と(直かに体験を通じて、あるいは文学・芸術・映画・ビデオなどを通して間接的にでも)触れ合うことによって体感して養われるものであって、強制や洗脳によって植えつけられたり、叩き込まれたりするものではあるまい。(最近の教育基本法改正案の国会審議で、元文科相の町村議員は「愛国心が身につくように」ということで、「教育である以上、教え育てる、どこかでしっかり叩き込むという部分もなければ先に進めない」などと発言し、「叩き込む」という言葉を繰り返したとのことであるが、勘違いも甚だしい。)

(2)論理・合理もだいじ

藤原氏は、「論理で説明できない部分をしっかり教える、というのが、日本の国柄」、「重要なことの多くが、論理では説明できません」「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。ならぬことはならぬ、問答無用、といって頭ごなしに押しつけてよい」などといったことを書いているが、後の二つは、単純に真に受けてはなるまい。
 たしかに、この世には未知の世界は果てしなくあり、いくら解明しても解明し尽くされることはない。しかし、だからといって、或は、どうせ子供には解りっこないのだからといって、論理的説明ぬきにしてもかまわないということにはならず、一見、知ること、論理によって説明することは不可能と思われるような訳の解らないものであっても、解明も説明も、その可能性はあくまであるのであって、可能なかぎり研究解明に努め、論理的説明を最初から放棄してしまったり、無視・軽視してはならないのである。
 「どうして人を殺してはいけないのか」それは、「『ならぬことはならぬ』ことだからだ」と言い放すだけではなく、「自分は殺されたくないだろう。だから人は殺してはならないのだ」と教えればよいのである。また、非科学的ではあるが、神様や仏様をもち出して形而上学的な論理で「神(または仏)の掟だから」式に説明することも可能なわけであり、「閻魔様から恐ろしい罰をうけるからだよ」などといった子ども向きの論理もあるわけである。
 「野に咲くスミレは何故美しいのか」も「モーツアルトの曲は何故美しいのか」も、美学・音楽理論・大脳生理学などで科学的論理的に説明することは(現段階では極めて難しいことだとしても)絶対不可能なことではないのである。
 「問答無用」といって、理由説明(論理)をぬきに無理やり押し付ける強制は、状況によっては緊急を要し、説明は後回しなどといった場合にはあり得るが、強制は、そもそも人に対する支配にほかならない。教育は子どもに対する支配の行為ではなく、愛の行為であって、利他的・愛他的行為である。愛(思いやり・慈しみ)であるからには、優しく、懇切丁寧に教える、というものでなければならず、その方法は、理由を論理的に(理屈で)説明して聞かせるという方法でなければならない。その論理には、科学的な論理は子どもには難しいという場合、「嘘も方便」で、「そうしないと罰があたるから」式にある種の形而上学的論理を用いることもよくあるところであるが、なるべく科学的に事実に基づいた論理であることが望ましい。また、緊急事態に「そんな事はやめなさい!」というような場合、「どうしてか」と聞かれてもゆっくり説明している暇がなくて、ただ「ならぬものはならぬ」と云うしかない、といったような場合もあるわけである。
 「愛のムチ」が許されるのは、例えば、いじめっ子に人の痛みを解らせるためには、頭では(いくら論理で説明しても)相手には解りそうにないという場合に、「身体で解らせる」しかない、などといった場合であろう。しかし、この「愛のムチ」は、ともすると、そこから愛が抜け落ちて、(子どもに言うことを聞かせられず、自分の思い通りにならずにイライラがつのり)怒り・憎悪にまかせた単なる暴力に化してしまいがちであり、その場合はかえって子どもの心に抜きがたい傷を与えてしまう、といった危険性がある。暴力は支配でしかなく、支配は教育ではない。
 尚、「渇を入れる」という場合もある。反復訓練などの場合、とかくダラダラしがちであり、緊張感を取り戻させるために身体に渇を入れる、といったことも教育のなかではよくあること。
 いずれにしても、その子どもへの愛が不可欠であり、あくまでその子どもを大事に思うが故のムチであり渇でなければならないわけである。
 情緒を養うのが教育であって、情緒を害する教育であってはならない。国歌を何が何でも国旗に向かって起立して歌わせようと強制するのは、情緒を養う教育的行為か、それとも情緒を害する非教育的行為か、どちらなのかといえば、答えは云うまでもあるまい。

(3)情緒が戦争を止める

藤原氏は(「論理と合理だけでは戦争を止めることはできない)「日本人の持っている美しい情緒(惻隠の情、戦争を醜悪と思う心、調和する心など)が戦争を阻止する有力な手段となる」としているが、一理ある。
 たしかに、戦争を止めるのは「人を苦しめてはならない」「残酷・無残なことをしてはならない」「可愛そうな思いをさせてはならない」といった「惻隠の情」などの情緒であろう。
 ところが、武力行使に、心情的には反対だといいながら、「靖国を参拝して何がわるい」「悪の枢軸だ、やっちゃえ!やるしかない」といって賛成を云いたてる勢力の武力行使正当化の論理(「制裁のため、予防自衛のため、そして国益のためには、アメリカと組んで戦うのもやむをえない」などというもっともらしい論理)にひきずられて、それならばしかたあるまい、となったりするわけである。その意味では戦争を促すのは論理のほうだといえる。
 それに対して、「親は刃(やいば)をにぎらせて、人を殺せとをしえしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや」(与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」)とか、「教え子を再び戦場に送るな」(日教組のスローガン)とか「刀を捨てたサムライの気概」(私の造語)などといった情緒が非戦の論理構築を動機付け、それ(非戦の論理)が武力行使正当化の論理をくつがえし(論破し)、それによって、武力行使を阻止しなければならないわけである。
 いずれにしても戦争を止めるのは情緒なのだといえる

(4)心の押しつけとマインドコントロール

「人や動物をいじめてはならない」とか、「人から物を盗ってはいけない」とか、行儀やマナーなどは「親や先生が幼いうちから押し付けてよい」という場合、それが肯定されるのは、押し付けられる子ども自身のため(子ども本人がまともな人間となるために必要な道徳心など健全な情緒を身につけるため)だからである。
 しかし、愛国心を国旗・国歌などとともに国や教育行政当局が押しつけるのは間違いである。なぜなら、教育は(子どもを国家の「道具」としてではなく、一人一人かけがえのない個人として認め)子ども自身(の生存と文化的生活)のため、又その子も他の皆もそこで協力して生きる(というよりは、その協力なくして生きられない)社会(の生産と文化の維持・発展)のために行なわれるべきものであって、国家のために行なわれるべきものではないからである。国や教育行政当局が子どもや若者たちに愛国心を押し付けるのは、一方において競争・格差容認政策をとって国民を互いに張り合わせ「上流・下流」「勝ち組・負け組」といった階層分解をもたらしながら、国家の統一・維持を図るためであり、昔のように(教育勅語に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」とし「有事のときにはお国のために喜んで命を捧げる」としたように)国民を国家の命令(動員)に素直に、あるいは進んで応じるように仕向けるためにほかならない。
 愛国心・道徳心・宗教心などの情緒は、儀礼・礼儀・マナーなど形(情緒の表現方法)は押し付けてもよいとして、情緒そのものは押しつけることはできない。また内実(情緒)のともなわない形だけの行為は、空しいものだし、無意味なものだ。(無理やり頭を下げさせても、親愛の情がともなっていなければ、しらじらしく思われるし、どんなに姿勢正しく起立させ大声を張り上げて歌わせても、心がともなっていなければ、歌は空しく聞こえるわけである。)
 ところが、洗脳・マインドコントロール(心理操作)によって、いつのまにかその気にさせることができるのである。それには、国家や企業によって行なわれる大衆操作があり、また宗教カルトが信者に対しておこなうような場合もあるが、教育の場でもそれがおこなわれる。勉強を教える教師や部活動の指導者が行なうような、コントロールする者とされる者の目的が一致している場合には、それが有効で肯定される場合もあるが、国家や宗教カルトがそれを行なう場合は、極めて危険である。
 その方法には、言葉と論理によって、とはいってもコマーシャルのように単純なワンフレーズ(一口論理それに「常識」論・「賛成か、反対か」の二者択一論など)の徹底した繰り返し、あるいはテレビ放送などメディアの徹底利用(戦時中の「大本営発表」のような政府広報化)、そして学校教育に介入して授業や式典行事を利用するなど様々な方法があるわけである。
 かつて大戦争を起こしたドイツでも日本でも、盛んにそれが行なわれ、子どもや若者たちは洗脳され、マインドコントロールされて、熱烈な愛国者にしたてあげられた。
 今の北朝鮮は、それと同じのようである。また9.11で逆上し、アフガン戦争からイラク戦争に突入していったアメリカでも、現代風に洗練された巧妙なテクニックを駆使して、米国民に対するマインドコントロールがそれとなく行なわれている可能性もある。
 我々は、かつての日本のように、また北朝鮮あるいはアメリカのようにならないように気をつけなければなるまい。マスメディアと教育(教育基本法「改正」、愛国心教育)には極力気をつけなければならない。
 自分の心を自分自身で支配しコントロールできるようにならなければならないが、幼い子どものうちは、親や先生(権力側の言いなりにはならず、自らの心の自由を保ち、ただひたすら「生徒のため」だけを思って生徒に接してくれる先生)から「・・・したりしてはいけないものだ」と教え込まれ、我儘な心をコントロールしてもらうのは良いとして、国家の支配者(政治権力者)などから、人々の心が意のままに(それとなく)支配され、コントロールされ(操られ)てしまうようなことになってはならないわけである。資本主義も、競争・格差社会も、天皇制も、「君が代」を歌うのも、日米同盟も、靖国参拝もみんな当たり前(何の疑問も起こらない)。政府や多数党の言うことはなんでも皆賛成となってしまう。そういう傾向がかなり強まっているが、放っておくと大変なことになるだろう。

(5)教育基本法改正案と情緒教育

 今、教育基本法改正案が国会にかかっているが、それは、青少年の犯罪、いじめ、不登校、ニートのはてから「ホリモン」事件や耐震偽装事件にいたるまでみんな教育基本法のせいにし、(社会のルールや市民道徳を教え情緒を養うべき教育に不徹底があり、学校教育・家庭教育に欠陥があることも確かではあるが、だからといって、それはこの教育基本法のせいだというわけではないのであって、むしろ自民党政府が推し進めてきた経済社会政策・教育政策―市場原理主義・競争主義など―の弊害にこそ根本原因があるのに、それを棚に上げて)改憲と連動させてこの教育基本法を改正し(「国を愛する態度を養う」などのことを新たに教育目標に掲げ)、教育に対する国と自治体の介入を強めて愛国心の注入、国旗・国歌の強制を合法化しようというものである。
 このような「教育基本法改正」が通ったら、大変なことになるだろう。かつて(戦争時代)の国家主義教育の二の舞になってしまう。
 そこで養われる情緒はどのようなものかといえば、「日の丸」・皇室が大好きで、「君が代」・靖国を信奉する政治権力者の云うことには素直に従い、「国のためなら、たとえ火の中水の中(をもいとわない)」、たとえアメリカ人には劣っても、はたまた日本人どうしの間では「負け組み」であっても、中国人・朝鮮人には絶対負けない、アメリカに次ぐ世界第二の「勝ち組」国家の一員であることをひたすら誇りに思う、そのような情緒であり、それがたたき込まれるということになるわけである。

(6)憲法と教育基本法に込められた心情

現行憲法と教育基本法に込められたと思われる心情と、自民党の新憲法草案と教育基本法改正案に込められたと思われる心情を引き比べてみてみたい。

[1]現行憲法 
まずは、現行憲法の方。その前文は次のようなものである。
「日本国民は・・・・われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、・・・(中略)・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」(こうして、この文を打ち込んでみると、当時これを書いた人、これを仕上げた人たちの心情が心に伝わってくる思いがして、熱いものが感じられる。)
 この憲法の原案を書いたのは、当時のGHQ民生局員であるアメリカ人ではあるが(一昨年、そのメンバーの一人であるベアテ・シロタ・ゴードン女史の講演を聴いてサインをもらってきたものだ。彼女が担当したのは主として「男女平等」に関する部分で、14条や24条などにそれが生かされている。少女時代10年間は日本に住んでいたという。「悪いものを与えたのなら『押しつけ』になるが、この憲法は、アメリカのものより良いものだった。」それは「日本人をどうするというより、『人類はこうあるべきだ』と思う内容をまとめたものだった」と云っていた)彼らには、それが、単にマッカーサーから命令されて適当に書いた作文ではなく、また、単に余所の国しかも敗戦国に押し付ける憲法に過ぎないといった感覚ではなく、世界戦争が終わって二度と再びそれを繰り返させまいという情熱があったものと思われる。
 9条には、その発案者といわれる時の首相、幣原喜重郎の「何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと・・・・・・」という心情が込められており、この憲法には、草案を審議・修正を加えた議員らの思いも込められている。彼らには、当時の日本国民の心情を代弁する思いがあったものと思う。(草案は、原案を直接書いたGHQ民生局員の頭だけで発想・創作されたものではなく、世界各国の憲法の中から先駆的・先進的なモデルを集めて研究し、さらに日本の鈴木安蔵ら在野の学者を中心とした憲法研究会の試案から多くを取り入れて書かれたものなのである。)

[2]現行教育基本法

その原案をつくったのは、当時わが国の政治・教育・文化・宗教・経済・産業など各界から選ばれた50人から成る教育刷新委員会である。
法文は次のようなものである。(アンダーラインの個所は、改正案では削除)
 「(前文)われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するために、この法律を制定する。」
 「(第1条―教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。

(第2条―教育の方針)教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」
「(第10条―教育行政)1、教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきものである。
2、教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない。」
 教育刷新委員会の委員をはじめこれを制定した人たちは、日本国憲法の制定者たちと同じ心情を共有しており、その信念が表れている。
 ここには、かって教育勅語の命ずるままに軍国少年・少女をつくって、若者を戦場に送った教師たちの痛切な悔恨の思いがこめられているように思われる。
(1952年当時、高知県の教員であった竹本源治氏の詩に、その思いが表されている。 
「戦死せる教え児よ

逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私は持っていた/しかし人の子の師の名において/嗚呼!/『お互いにだまされていた』の言い訳が/なんでできよう/慙愧、悔恨、懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今こそ私は/汚濁の手をすすぎ/涙を払って君の墓標に誓う/『くり返さぬぞ絶対に!』)

[3]自民党の新憲法草案

 その前文は、次のようなものである。
「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。
 象徴天皇制は、これを維持する。また国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。
 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行なう。
 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。」
 現行憲法の格調の高さに比べて、なんともまあ・・・・・。

「自らの意思と決意に基づき・・・ここに新しい憲法を制定する。」としているが、そこには、日本国民のというよりは自民党の政治家たちの、「戦争に敗れたばかりに不本意ながら『押しつけられた』憲法に対して『自主憲法』を制定するのだ」という自民党ナショナリスト政治家たちの心情がにじみでている。 日本国民は・・・国・・・を愛情・・・をもって自ら支え守る責務を共有し」とうたっているが、それは、日本国民たる者は国を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守るべしと、国民に対して説教しているように受け取れる。
 現行憲法の場合は「われら」を主語にして国民の立場で書かれているが、自民党草案の場合はそこがどうも違うようである。そこに込められている心情は国民の心情ではなく、自民党政治家とその支持者たちの心情にほかならないのではないか。現行憲法に込められた日本国民の熱い思いと平和を求める世界諸国民の心情はそこにはない。

[4]教育基本法改正案

 自民党にとっては、教育基本法の「改正」も、改憲と同様に、「結党以来の悲願だった。」という。(森前首相)
その改正案の法文は次のようなものである。(アンダーラインの個所は、現行教基法にはないもので、とりわけ顕著なもの。・・・の個所は現行教基法と同じ字句)
「(前文)我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊な人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法にのっとり、わが国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

(第1条―教育の目的)教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた・・・国民の育成を期して行なわれなければならない。
(第2条―教育の目標)教育は、その目的を実現するために、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行なわれるものとする。

1、幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊な情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
2、(略)
3、(略)
4、(略)
5、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う。」
「(第16条―教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行なわれなければならない。
(以下省略)」
 この改正案は、まず、「公共の精神」を尊ぶ人間の育成を期し、「伝統を継承」しつつ、「国の未来を切り拓く教育」の基本を確立するため、この法律を制定するとして、生徒一人一人のための教育から国家のための教育の方にシフトさせている。
 そして、教育は(「人格の完成を目指す」とはしつつも)「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた・・・国民の育成を期して行なわれなければならない」として、国家と企業などにとって必要な人材育成を教育目的にしている。
 現行法にあった「実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」という教育方針は削除し、教師・生徒の主体性を退けて、国家が目標をあてがうやり方に切り換えている。
 現行法における教育行政の条項では、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきもの」と定めているのに、権力側の政治家や行政当局が介入を強めてくる、それに対して、教員組合に結集した教師たちは抵抗してきた。その教員組合の方を不当ときめつけ、教育は(教師たちが)「国民全体に対し直接に責任を負って行なうべきもの」としていたのを「この法律及び他の法律(その法律には政省令による政府・文科省の裁量行政も含まれる)の定めるところにより行なわれるべきもの」と変えてしまい、権力側の介入を合法化しようというわけである。
 現行教基法には、現行憲法と同様、主語が「われら(国民)」で、国民の側から国・地方公共団体に対し、「・・・しなければならない」(せよ)と命令を下す立場で定められており、その命令(制定)主体である国民の中には教師たちも入っていて、それまで国家の命令に従わせられて教え子を戦場に送ってきたことを悔やみ自主・自律に目覚めた教師たちの心情と責任感がこめられている。それが改正案では、教師は法律に従って文科省や教育委員会から「やらされる」受け身の立場に置かれている。
 教育行政は、教師が「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」となっていたのは取り除いて、条件整備以外の教師の責任範囲であるべき教育内容や指導法にまで介入できるようにしている。

 このような改正案に込められている心情は、多くの教師たち・親たち・子どもたちのものではなく政府与党あるいは民主党などの政治家たちの心情にほかならない。
 森前首相(元文相)は、次のように述べている。
 「教育勅語には人間関係の大事なことを書いてあるが、戦前の教育は全部ダメということになり、昭和23年に衆参両院で廃棄宣言した。
 戦後は教員組合が台頭し、偏向教育を行なった。公の精神は軍国主義に、公に対する奉仕は国家に対する奉仕になるから駄目だ、と。それで、いい結果が出ましたか?お風呂に子どもを沈めたとか高校生が人を殺したとか、今の社会は考えもつかないようなことが起きる。その原因の根底は心の教育にある。
 子どもたちに心の大切さを教えられないことが問題だ。教組は『そういうことは書いていない』と現行法を逆手に取り、教えてこなかった。改正案には『道徳心』や『公共の精神』が盛り込まれた。規範が入ることで、国旗掲揚とか国歌斉唱の時の立ち居振る舞いを含め、先生は・・・教え込んでいけるようになる。」「愛国心だと軍国主義になりますか。日本人は好戦的な民族ではない。日本は民主主義、自由主義、平和主義だ。軍国主義に進むはずがない。」(2006,5,11朝日新聞)
 (たしかに、日本人は、元々は好戦的な民族ではない。しかし、それが教育勅語による愛国心教育によって「天皇陛下のため、御国のため進んで生命を捧げようとする」好戦的心情が叩き込まれた結果、子どもたちの多くは軍国少年に化したのではなかったか。)
 また、安倍晋三氏は、次のように述べている。
「『家族の絆、地域社会の心のふれあい、あるいは祖先を敬う心や日本という国を慈しむ気持。そしてそれらを守るために戦うという覚悟』を学校や家庭教育に『取り戻す』ことが必要だ」と。(『自由民主』05年4,11日合併号)
 これらに、改正派の政治家たちの心情が表れている。要するに、日本は「天皇を中心とする神の国だ」と信じ、昔の教育勅語を肯定。教員組合を「偏向教育を行なってきた」として目の仇。子ども殺しや高校生の殺人などは「心の教育」(教組はそれをしてこなかったとして、そこ)に原因があると。なんとかして日本中の学校に国旗掲揚・国歌斉唱を義務づけ、愛国心教育を義務づけたいものだ。とにかく、教員組合などの教師たちに勝手なことを許さず、国の統制を強めなくてはならぬ、というのが、彼らの心情なのだろう。

(7)刀を捨てたサムライの気概―私の心情

 新渡戸稲造は「武士道」のなかで、「やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはる者。」と書いて、勝海舟(幕末、幕府側にあって「ほとんどのことを、彼一人で決定しうる権限を委ねられていた。そのために再三暗殺の対象に選ばれていた」という人物)の次のような言葉を引用している。
 「私は人を殺すのが大嫌いで、一人でも殺したことはないよ。みんな逃がして、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた。それは河上彦斎が教えてくれた。『あなたは、そう人を殺しなさらぬが、それはいけません。カボチャでもナスでも、あなたは取ってお上んなさるだろう。あいつらはそんなものです』と言った。・・・しかし河上は殺されたよ。私が殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こっちは斬らぬという覚悟だった。」
 この引用文の後に、新渡戸は次のように書いている。「これが、艱難と誇りに燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。・・・『負けるが勝ち』・・・この格言は、真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。また『血を見ない勝利こそ最善の勝利』・・・これらの格言は武士の究極の理想は平和であることを示している。」
 要するに、刀を振りまわさず刀に物を言わせない平和こそが武士道、ということだろう。
 気に入った! 日本国憲法9条に、これら勝海舟や新渡戸の言葉を重ね合わせると、そこに「刀を捨てたサムライの気概」を感じる。それが私の心情なのである。

 尚、日本は、太閤秀吉による「刀狩り」、徳川幕府による鎖国以来、刀は「サムライのシンボル(武士の魂)」として残った以外には、「刀も鉄砲も捨てた国」として長いあいだ太平を保ち、平和的な国民性が培われてきたと思われる。

 それが、欧米列強からの外圧で開国を余儀なくされ、明治政府は諸外国に対抗すべく富国強兵政策を推し進め、四民平等とし、武士階級からは刀を取り上げ、徴兵制をしいて日本を国民皆兵国家にした。その日本はアジア最強の軍事大国にのし上がり、進軍ラッパで「いけいけドンドン」とばかりに戦争を重ねる中で、国民の間には好戦的気分が増長していった。そのあげくが、あの大戦争である。
 この戦争で、日本といえば「軍国主義」とか「カミカゼ」というイメージをもたれてしまった、それを悔いた日本国民は戦後、憲法9条で自国を非軍事・非核の平和国家であると決意し、不再戦を世界とりわけアジアの戦争被害諸国のまえに誓ったのである。
 サムライならば、「武士に二言はない」であり、いまさら、その信義を裏切るような卑怯なまねはできないはず。
 力(超大国アメリカに従う「自衛軍」)に頼らないと身を保てないなどと言う臆病者はサムライではないのである。
 アメリカ人とは異なり、日本人の心底には、そもそも「力まかせに事を解決すること」を好まない心情がある(古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』岩波ブックレット)。その国民性を貫き通さなければならない。
「刀を捨てたサムライの気概」を貫き通す。これこそが日本人というものだ。

(8)現行憲法にこそ私の愛する日本がある

こんな私の心情からすれば、改憲を目指している政治家・論者たちの言説には、とても賛成する気にはなれない。
 但し、彼らの言説には心情的に反発するだけではなく、論理の合理性(道理)から言っても、(押しつけ憲法論・戸締り論・「備えあれば憂いなし」論・抑止論・国家戦略論・パワーポリテックス論・現実主義論など、一見いかにも尤もらしく思えるような巧妙な言い回しや論立て・論理の展開はあっても)どうしても賛成せざるを得ないような、反論の余地のないものはないのである。
 早稲田大学法学部の愛敬教授は、その著書(ちくま新書『改憲問題』)に「改憲派の議論の中には、私が愛する『日本』が見当たらない」と書いているが、私もそう思う。
 尚、憲法愛国主義という言葉がある。アイデンティティーを運命共同体としての国家や伝統などにではなく、憲法(の規範的な価値)に求める、という考え方である。
 我が国の現行憲法は世界でも最も優れているといわれる価値ある憲法である。その憲法にこそ、我々日本人のアイデンティティーがあり、日本人の誇りがあるのではないか。
 私はこの国を愛したい。しかし、現行憲法に不忠実で合憲解釈・事実上違反している今の国家は愛そうにも愛せないし、さらに改憲され、現行憲法が軍事など国家に対して加えている規制が緩和・撤廃されてしまい、現行憲法の規制から完全にはみ出るような国家になるとすれば、そのような国家は到底愛することはできそうにない。そんな国になったら恥ずかしいとさえ思う。
 日本はドイツとともに世界史上未曾有の戦争被害(数千万人もの死者)をもたらし、日本人はそれを悔いて、いさぎよく不再戦・非軍事平和立国を憲法に誓ったのだ。それで世界は日本人を許し、アジアの被害諸国民も許してくれたはずなのだ。にもかかわらず、その憲法・その誓いを放棄して、軍事超大国(アメリカ)に追従して共に世界に武威を張る覇権連合国家になろうとする。なんという卑怯。それがサムライの国か。

これが、改憲に反対する私の心情なのである。


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