以下の文中に引用したのは、5月3日の読売・産経の社説と朝日新聞社の世論調査項目中の「改憲が必要」と回答した理由、および百田氏の著書『百田尚樹の日本国憲法』。
●印の部分は当方の対論。
改憲の理由と対論
(1)「古くなったから」?(朝日新聞・世論調査で改憲必要と答えた人で多かったその理由の一つ)という論点に関して。
読売「憲法が制定以来、一切手を加えられていない現状は望ましい姿ではない―憲法制定時には想像も及ばなかった日本社会や国際情勢の変化に70年以上前に制定された憲法が適切に対応するのは困難。現実と憲法の間に乖離が生じ、解釈に無理が生じている。多くの国は時代の変化を踏まえ、条文を改めている」と。
百田「憲法は『聖書』ではない。憲法は変えるのが世界の常識―時代や情勢が変われば、それに合わせて変わるものであり、変えなくてはならない(必要なものを付け加え、不要なものを削除する)もの」だと。
「74年も前につくられた憲法だが、この間、日本の社会は劇的に変化しており、74年前とはまるで違う国になったと言っていいほど」なのだと。
●諸外国では何回も何十過去も憲法改正がおこなわれているのに、我が国では1回も行われておらず、世界で一番「長寿」というのはその通り(過去にはもっと長寿で旧イタリア王国憲法80年というのがあった)。だがそれには「わけ」が―マッケルウェイン東大社会科学研究所教授によれば、「日本国憲法は統治機構や政治制度に関する規定が少ないうえに、大原則(大まかな骨子)だけを定めて、国会議員の定数や選挙制度など具体的なことは、『別に法律で定める』として別途法律に委ねてきた。だから条文の数も少なく(たったの103条)、全体の文章も短い(世界平均の4分の1)。変えるときは、憲法を改正せずに法律の改正で済んできた(公職選挙法は60回近く改正)。これも日本の憲法が『長寿』の原因の一つだろう」ということだ。
尚、憲法改正手続きで国会議員総員の「3分の2」賛成という要件が改正をし難くしているという向きがあるが、実はその方が世界の国々では大勢(78%)で、「2分の1」で済むようにしている国は6%だけ。
(各国憲法の条文の長短を英単語の語数にして比較すれば、我が国憲法は4998語なのに対して、インド憲法は14万6385、ドイツ2万7379、合衆国7762、韓国9059で、日本国憲法の語数の少なさはきわだっている。)
要するに我が国では社会の変化への対応は、憲法を改正しなくても、他の法律改正で事足りてきたからだ、ということ。
そもそも憲法のパターンには世界標準といったものはなく、イギリスなど成文憲法さえなく慣習法を通している国さえあり、国よって固有の事情(国の成り立ちや構成など)に違いがあるからである。アメリカやドイツは連邦制国家であり、アメリカでは戦後に限れば6回、ドイツでは60回以上もの改正がおこなわれているが、両国とも、国民投票はなく、議会の議決だけで行われている。
人よって、国によって憲法観も色々なのだろうが、そもそも憲法とは(民主主義の立場から)国民にとってはどのようなものでなければならないかといえば、当方の考えでは―普通の法律の場合は、国家・社会の秩序ある運営を維持するために、国民が互いに守らなければならないルールであるが、憲法の場合は、国の統治者(為政者・行政官・司法官など公務員)が国民を統治(法律を守らせ、国の秩序を維持)する際に守らなければならないルール(権限とその濫用の禁止や義務)を定めた最高法規。それには⓵統治組織と立法・行政・司法などの担当者の権限が規定され、②人権など国民の権利と国によるその保障が規定され、③統治者・公務員も諸個人も公共の福祉に反し(自分以外の諸個人の権利を侵害し)てはならないこと、④法律の制定・運用に際しても、公共の福祉(諸個人共通の権利確保)のためにやむをえず必要とする以外には国民の人権を制約し侵してはならないこと、などが規定されている。
その核心点は、政治権力者が権力行使(強権発動など)をしやすくするためではなく、国民の人権を政治権力から護るために、それによって権力を縛ることにあるという立憲主義の観点で考えるべきだろう。
このような憲法観の立場から云えば、憲法が、その国の歴史・伝統・文化など「国柄」を自国固有の価値として規定したものでなければならない、などというのは的外れ。(Ⅱ)「アメリカから押し付けられた憲法で、日本の国柄が反映されていない」?(朝日新聞・世論調査で改憲必要と答えた人で多かったその理由の一つ)という論点について。
百田「憲法はその国の国家観・歴史観・死生観、あるいは文化や伝統などを凝縮したもので、『憲法を読めばその国がどういう国かがわかる』というものでなくてはならない。しかし、日本国憲法の場合は、前文はきわめて一般的であり、第1章に『天皇』を定める以外、こうした要素がほとんどない」のだと。
●憲法に天皇制など「国柄」の記述が欠かせないかのようにこだわる、このような憲法観には権威主義を感じる。そのような感覚は、G7で喧伝するような「民主主義など価値観を共有する国」の仲間とはとても言えまい。
「『憲法を読めばその国がどういう国かがわかる』というものでなくてはならない」とか国柄をいうなら、今の憲法には、この国が「民主主義の国であり、人権尊重の国であり、戦争をしない国」であるとして明確に打ち出されている。それは必ずしも他国から「押し付けられた」ものではなく、軍国主義と戦争にこりた国民の心情に基づいているものと云えるのでは。
百田「アメリカ人によって作られた、世界各国の憲法や法律をコピーした世界に恥ずべきコピペ憲法だ」。「当初、マッカーサー連合国総司令官の意を受けて、幣原首相が担当国務大臣松本を委員長とする憲法問題調査委員会を設置し、憲法改正案を作成。それは明治憲法と大きく変わらず、『天皇の統治権』を認める条文もあった。マッカーサーはこれに不快感を示し、GHQ民生局で草案を大急ぎで作るよう命じ、民生局メンバー25人は都内の図書館などで他国の憲法や宣言など資料を集め、たった9日間で草案を作った。それは、そのようにしてできた応急処置的憲法だったのだ。」「GHQ民生局長が吉田茂外相・松本国務相らに対して、民生局が作成した草案を受け入れられれば、天皇の地位は安泰になるだろうと述べたが、それは、つまるところ『これを拒否したら天皇を戦犯にするぞ』という恫喝だ。占領されている以上、GHQの意向には従わざるを得なかった。このような草案をベースに日本国憲法は誕生したのだ」と。
●大急ぎで作られたことは確かであり、「押しつけ」があったと解されることも確か。しかし、アメリカ人が、たった9日間でつくった急ごしらえの憲法であるかのような論じ方だが、その前後には1年間に及ぶ日本政府・議会・諸政党・民間人による試案・草案起草・審議など日本人の主体的な関与があったのも事実だ。(1945年10月下旬、日本政府の憲法問題調査会による試案作成から、46年2月マッカーサーがそれを却下して作らせたGHQ草案作成の9日間を挟んで、それをたたき台として日本政府が作った「憲法改正草案」から成案作成、帝国議会・委員会におけるその修正審議から衆院本会議での修正可決、10月6日貴族院本会議可決、11月3日公布に至るまで。この間の政府・与野党それに憲法学者ら「憲法研究会」の憲法草案起草があり、とりわけ明治の自由民権運動期の憲法思想の研究をもとに作られた鈴木安蔵らの「憲法研究会」案はGHQ案にかなり取り入れられている。)(尚、GHQ民生局のスタッフは草案作成に際して、日比谷図書館や東大など4・5か所を駆け回って他国の憲法や宣言などの資料を集めたというが、その資料とはアメリカ独立宣言・アメリカ憲法・マグナカルタに始まるイギリスの一連の憲法、フランス憲法・ワイマール憲法・ソビエト憲法、スカンジナビア諸国の憲法・・・・。かれらスタッフは9日間、仮眠しながら夜を徹して精力的に取り組んだのだ―塩田純『日本国憲法―知られざる舞台裏』NHK出版)。)
GHQが新憲法制定を急いだ理由は天皇制の存否などをめぐって日本の国内外からの強硬論を恐れたからである。国外―連合国の極東委員会(米・英・仏・ソ・中・豪・印・蘭・カナダ・ニュージーランド・フィリピン・ビルマ・パキスタン各国代表委員)—の中には、ソ連・オーストラリア・ニュージーランドなどは天皇を戦争犯罪人として指名していた。国内には左派勢力に天皇制廃止論があった。
それに対して日本政府はあくまで天皇制存続だけは、他のすべてを犠牲にして「戦争放棄」などを受け入れてでも死守するとの考えだった。マッカーサーはそれに応じ、象徴天皇制のかたちで存続を認めるという新憲法をめざしたわけである。
いずれにしても、この憲法制定の経緯の中には占領軍(GHQ)の強い関与があったことは事実であり、「押し付けられた憲法」といっても間違いではないとしても、それを日本政府が「受け容れ」、日本国民も「受け容れた」というのも事実。当時、国民の多くは憲法の基本的原理の法的意味や歴史的意味を十分理解する段階までに至っていなかったが、1946年4月の毎日新聞の世論調査によれば、「戦争放棄」に賛成70%、象徴天皇制に賛成は85%(廃止は11%)。また日本政府に関しては、1946年10月、極東委員会が「憲法が施行されてから1~2年以内の国民投票などの実施に関する決定」を行い、日本側の自主的な再検討の機会を保障するために「見直し」を促したにもかかわらず、日本政府はこれを拒み、憲法修正の意思なしと言明している(1948年6月芦田内閣から衆院議長に「憲法改正の要否審査」依頼あるも、実施は見送られたし、49年4月吉田首相は衆院外交委員会で「政府においては憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁―辻村みよ子著『比較のなかの改憲論』岩波新書)
百田「文法の誤りすら直せない―前文中『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』の語句中の『に』という助詞は、使い方として間違い。また『諸国民』の諸国とは、憲法作成当時1940年代の世界はほとんどが白人国家とそれを宗主国とした元植民地ばかりだったのだから、『白人様』の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持―要するに『白人様次第』と言っているのに等しい」のだと。
●憲法のこの文章を漢字・カタカナ交じりの文語体草案からひらがな口語体に直して仕上げたのは名作『路傍の石』などの作者・山本有三であり、その彼が間違えたというのだろうか。たとえば「菅首相はバイデン大統領ら各国首脳の公正と信義に信頼してG7の首脳会談に臨んだ」という言い方をしても、別におかしくはあるまい。「そこで菅首相は各国首脳ともオリパラ東京大会の開催にこぞって支持を寄せてくれたこと『に感謝』」というのを、「を感謝」という言い方をしないとだめだ、なんて云うほうがおかしいのと同じだろう。
また、「当時の諸国はほとんどが白人国家ばかりだったから、諸国民とは白人様」などと勝手に解釈している、それこそが間違いだろう。(Ⅲ)「国防の規定が不十分」?(朝日新聞・世論調査で改憲必要と答えた人で最多の理由)という論点について。
●国防とは軍事的安全保障のことで、その十分な規定が必要だということなのだろうが、安全保障にとって、軍事的なやり方は、9条の不戦・非軍事のやり方に比べて、むしろリスクが高く(危うく)、必ずしも(軍事力を十分保持すれば)安全・安心ということにはならない。
理由は次のようなこと。
安全保障の要諦は戦争が起きないようにすることだが、そこで、現行憲法9条の非軍事でいくやり方と、改憲し国防を規定して軍事的安全保障のやり方でやるのとで、どちらのやり方が安全・安心か、次の諸点から考えられる。
(1)現行憲法の9条(非軍事平和主義)でいく場合
核兵器禁止条約(日本も批准)めざす。
非核地帯条約―(東南アジア非核地帯条約などにならい)北東アジア非核地帯条約(構想)の実現をめざす―日・韓・北朝鮮3ヵ国は核開発禁止、米中ロはこの3か国に核攻撃・威嚇を行わないことを約束(日本はアメリカの「核の傘」から離脱)
非軍事的地域集団安全保障―東南アジア友好協力条約(TAK)(「武力による威嚇または行使の放棄」や「紛争の平和的手段による解決」を明記―ASEAN諸国のほか中国・ロシア・オーストラリア・インド等とともに日本も加入)にならってTAKの北東アジア版(北東アジア友好協力条約)を目指す。
メリット(利点)
⓵戦争を回避でき、戦争に巻き込まれない。
⓶軍事費が掛からない。
⓷諸国民に安心・信頼感―敵をつくらず、敵対せずに、平和外交と国際平和貢献の積極的推進・イニシャチブ発揮が可能に。
リスク(デメリット)
⓵外敵の侵略・侵害に対して防備・安全保障に不安(危険)―「力の空白」(軍事的空白)(防備が手薄)に乗じて強引に踏み込んで来られる恐れ.
ただし、防備は全く無防備というわけではなく、領域警備に限定した警備隊(然るべき装備を持つ国土警備隊など)は保持―災害救助業務を行う災害救助隊などとともに
(2)改憲・国防(軍事的安全保障)規定でいく場合
世界の屈指の軍事力保有(今でもランキングは、1位アメリカ、2位ロシア、3位中国、4位インドについで日本は5位で、6位フランス、7位イギリス、8位韓国より上回り、19位北朝鮮よりもはるかに上回っている)
軍事同盟―日米安保条約、オーストラリアも準同盟国
メリット(利点)
⓵自衛隊と同盟国アメリカ軍の軍事力は、いかなる脅威(どの国、どこの外敵)に対しても対応でき、相手を攻撃・撃破、或いは相手の攻撃を阻止・抑止することもできる能力を持つ。
リスク(デメリット)
⓵敵を想定すなわち敵をつくる(それらの国を敵視し、敵対する)。
⓶軍事衝突から戦争への危険、あるいは戦争に巻き込まれる危険―台湾有 事(中国の台湾統一戦争への米軍の介入)や米軍の朝鮮戦争再開などに際して。
⓷相手国も対抗し、それがエスカレートして、双方とも軍備増強(軍拡)―
中国の場合、アメリカ(世界最強の核軍事力をもち、かつては中国・太平洋で日本軍と戦い、戦後は朝鮮・ベトナム・中東で戦争)や日本(かつてアジアで最強の軍事大国で中国・太平洋で戦争)に対抗し、軍事力を増強して南シナ海や東シナ海に進出。北朝鮮は休戦中の対米・朝鮮戦争再開に備えて核・ミサイル開発・保有など。
危険な兵器開発―AI兵器(自律型致死兵器システム、無人攻撃機・「殺人ロボット」)―味方の人的犠牲を回避でき、兵士が人を殺す精神的苦痛を負わずに済み、戦争へのハードルが下がる(攻撃しやすくなって、戦争しやすくなる)。AIによる判断の誤りや誤作動(暴走)の危険が伴う。
⓸これら軍拡競争による軍事費の膨張―(アメリカからの兵器購入負担とともに)米軍基地提供に関わる経費負担や住民被害。
⓹軍事依存―軍事に頼りがちとなり、平和外交への取り組み・努力が疎かになりがちとなる―米軍の核軍事力(核の傘)に頼り、核兵器禁止条約を拒否。(1)の「非軍事」と(2)の「軍事」とで、我が国の安全保障にとっては(中国や北朝鮮あるいはロシアなどに対して)、それぞれの効用・リスクを比較衡量すれば、どちらが、リスクが少なくて有利か、を考えた場合、(Ⅰ)の非軍事のやり方でいった方がベターだろう。
姫路独協大学の吉田稔教授によれば、中米で軍備放棄し永世中立政策を採っているコスタリカ憲法の規範と現実の意義について「⓵対外的侵略を誘発する或いは他国の戦争に巻き込まれることを防止することである。コスタリカや日本は紛争が多発する世界にあって、限界はあったにしても基本的には侵略を受けたことはなく、国民を戦争に駆り立てることもなかった。“武装すれば侵略されないというのは神話”であって、武装した国の間で侵略があり、戦闘が行われる可能性は高い。②もし紛争が国に及んだ場合に、軍隊を持たないことが被害の拡大を防ぎ被害を少なくすることができる。核兵器・兵器の高度化・精密化が進んだ現状にあって、戦闘行為は大量殺戮を発生させるし、その被害は世代を越えて受けるであろう。“軍隊の存在は被害を拡大する”であって、防止したり少なくはしない。③軍隊の創設・維持・増強には金がかかる。それで儲けている、利権を得ている企業や人がいる。名誉や地位や支配欲を満足させている国や人がいる。すなわち、“戦争や軍隊で得をする輩がいる”のである。そして他方で軍事費は国の予算を食い、圧迫する。軍隊を廃止すれば、その軍事費を人類の環境問題の解決、飢餓に苦しむ人々、国民の生活向上に使うことができる。」(前田朗『軍隊のない国家』日本評論社)
読売「中国や北朝鮮が東アジアの平和と安定を脅かすなか、日本の安全保障を担う自衛隊の存在を、はっきりと憲法に位置付ける」べきだと。
国民民主党(憲法調査会がまとめた『憲法改正に向けた論点整理』に、9条について一案として、1・2項に、3・4項を次のように追加して)「③前二項の規定にかかわらず、個別的自衛権又は限定された集団的自衛権の範囲内に限り、武力行使を行うことができる。④第二項の規定にかかわらず、前項の武力行使のために必要最小限度の戦力を保持することができ、また、当該武力行使に必要な限度内において交戦権の行使に当たる措置をとることができる」と。
産経「日本の平和を守っているのは、憲法9条ではなく、自衛隊と日米安保条約に基づく抑止力」だと。
●中国や北朝鮮あるいはロシアが脅威だという場合、はたして攻撃される危険(軍事的脅威)があるか否かの判断基準は、攻撃する能力と必要な理由と意思(意図)があるのかどうかであり、核保有や軍事力増強など能力だけ認められても、理由と意思が認められなければ、必ずしも「脅威」とは決めつけられない。
中国などこれらの国が日本に攻め込んでこないのは、日本に攻め込まなければならない理由(必要性、あるいはリスクを冒してまでも得られるメリット)がないからであって、必ずしも自衛隊と日米安保とで抑止されているからだとは限るまい。また、これらの国が日本に攻撃を仕掛けてくるとすれば、それは日本が9条で制約されていて防備が手薄だからではなく、これらの国がアメリカとの戦争(台湾をめぐる米中戦争や朝鮮戦争の再開など)に際して、日本に置かれている米軍基地と米軍の作戦を支援する自衛隊を攻撃せざるを得ないからだろう。
産経「9条1・2項を維持しつつ自衛隊の保持を明記するというのは改正の途中段階なのであって、2項を削除して自衛隊を『軍』(現在の自衛隊のような『やってもいいこと』だけを定めるポジティブリスト方式ではなく、『やってはいけないこと』だけを定めて、それ以外は何でもできるというネガティブリスト方式で、世界標準の軍)として位置付けて保持することを認めることを9条改正のゴールとして目指すべきだ」と。
百田「矛盾と問題だらけの第九条―日本の憲法学者たちは、『戦争の放棄』を謳っても、『自衛権はあるから自衛のための戦いなら許される』との解釈をしている。また『自衛権は自然権だ』と主張する人もいるが、『国の交戦権は認めない』と書いてあるのだから、明らかに矛盾している」と。
●どの国にも自衛権はあるのだからというので自衛隊を創ったのだが、9条2項に「戦力は保持しない、国の交戦権は認めない」と書いてあるので、自衛隊が保持しているのは「自衛力」であって、「戦力」ではないし、「戦争」する軍隊ではないのだから、矛盾はしていないというのが政府解釈だ。
それで、世界の軍隊はネガティブリスト方式を採用しているが、自衛隊は軍隊ではないので、警察などと同様にポジティブリスト方式の方を採用しているのだろう。
百田「世界の軍隊はネガティブリスト方式を採用しているため、PKO派遣先でゲリラに襲われた場合、民間人への攻撃などの禁止事項さえ守れば、あとは自由に戦うことができる。ところが、自衛隊はポジティブリスト(やってもいいことだけを定めた規則)に則って任務に当たらなければならず、威嚇射撃をしてもいいのか、近くにいる民間人を護衛してもいいのか、攻撃を受けたら反撃してもいいのか、ナイフを持った敵に対して銃で応戦していいのか、銃で攻撃してくる相手に機関銃を撃っていいのか、あるいは大砲を5発撃たれて10発撃ち返せるのか等々、いちいちやってもいいことを確認しながら対処しなければならない。これでは、迅速に対応できるはずがない。」「さらに自衛隊は軍隊でないために国内法に縛られている。たとえば、国際紛争となった時、自衛隊員が日本の民間人を守るために敵を撃ち殺したら、日本の国内法で殺人罪が適用されてしまう。」だから軍隊を禁じている9条は不合理だというわけ。
●このような(ポジティブリスト方式の)自衛隊は、軍事的合理性の観点から見れば、臨機応変で迅速な対応を必要とする戦争には向かないというのも確かだろう。しかし、戦争をしないことを建前としている国の自衛隊であって軍隊ではないとなっている以上、他国の軍隊を相手に戦闘・戦争を交えることのないように、不戦・非軍事(領域警備や災害救助など)に徹しなければならないのであって、他国軍と激突・勝負しても(軍事作戦で)十分戦えて負けない「自衛軍」とか「国防軍」でなければならないというわけではあるまい。
たとえば海上保安庁の巡視艇を援護して、相手国の沿岸警備隊や国境警備隊に対応する分には戦争にならない。その場合、相手が攻撃を仕掛けてきた場合は(仮に尖閣諸島海域の日本領海に、中国の海警局の艦艇が侵入してきた場合、警告射撃をも無視して島に接近・上陸するという事態になった時は、それを阻止すべく、海警船の前に船を寄せて立ちはだかり、それに対して体当たりしてきたり、機関砲などの発砲があれば)、正当防衛として応戦するのは当然のこと。ただし、武器対等の原則と必要最小限度という原則を超えて過剰防衛にならないようにする。しかし、相手国の海軍に対して海上自衛「軍」が、両軍ともネガティブリスト方式(原則無制限)で対応すれば海上での戦闘(局地戦)に留まらず、エスカレートして、かつての日中戦争~太平洋戦争の時と同様に全面戦争に発展しかねないことになるわけである。そんなことになってはならないというのが9条なのでは。
産経「9条はむしろ弊害―(日英関係や日・米・豪・印4国の『クアッド』を同盟に発展させる道が封じられ)他国と幅広く守り合う約束ができない」(アメリカ以外の国々とも、もっと幅広く守り合えるようにすべき)だと。
百田「非武装中立がいかに危険かは、歴史を見れば明らか。(第1次大戦前、非武装中立国だったのが、2度とも大戦中に侵略され、戦後、武装に転じてNATOの設立メンバーになったルクセンブルク、永世中立国でも徴兵制・武装を堅持しているスイスの事例も)」
百田「軍隊がない国は例外であり、代わりに他国に国防をゆだねているか、軍事同盟を結んでいる。コスタリカは憲法で軍の廃止を定めているが、交戦権までは廃止しておらず、いざという時に戦う権利は放棄していない。」
●軍隊のない国は国連加盟国190余のうち27ヵ国もある。コスタリカは緊急時に軍隊の編成を認めているが、恒久制度としての常備軍は保有してはおらず、中立を宣言して非武装中立国となっている。
百田「日本と似た国の末路―ウクライナ―2014年、自国の領土であるクリミア半島をロシアに占領された。その最大の原因は、NATOに加盟していなかったことだ」と。
●NATOは、世界196ヵ国の中で加盟国29ヵ国。その他の軍事同盟は日米・米韓・米豪いずれもアメリカとの同盟で3つだけ。全同盟加盟国は32ヵ国。それに対して非加盟国は120ヵ国だが、どこも占領されたりはしていない。
百田「9条を掲げて不戦を唱えていれば平和は続くという9条教の信者には、『今の国際社会でもし日本が他国に攻め込まれたら世界が黙っていない』という主張があるが、ウクライナがクリミア半島を奪われた時、世界はロシアを非難しても、実効的な行動(軍事行動)は起こさない。中国はチベット・東トルキスタン・南モンゴルを侵略している。歴史的に見て、これらの国々が中国の領土だったことはないのに、世界は今まで放置してきた。世界は誰も他の国の人たちなど助けてくれないのだ。自分の国は自分で守らなくてはならないのだ」と。
●確かに国連の集団安全保障に頼ろうにも、常任理事国(米・中・ロなど)の不一致で当てにできないし、また同盟国アメリカの軍事力に頼りきるのも賢明ではないことは確かだが、かといって自国の軍事力に頼るというのも危険(軍事対決が攻撃を招き戦争を誘発する危険)。むしろ非軍事に徹して、信頼に基づいた外交努力に徹する方が賢明。
ウクライナについては、ロシアと隣接し、歴史的に統合・分離を繰り返し、ロシア帝国時代~ソ連時代の間ウクライナにもクリミアにもロシア人が移り住んできたが、ソ連の崩壊でウクライナが独立。そのウクライナが近年NATO加盟などをめぐって、加盟に反対するロシアおよびウクライナ東部に多く住んでいるロシア系住民との対立が激化するにおよんで、西部と東部の間で内戦が起き、ロシア系住民が大半を占めるクリミア半島がロシアに併合されることになった、というふうにウクライナとロシアの間には複雑なからみがあるのだ。
またチベット・東トルキスタン(ウイグル)・南モンゴル(内モンゴル)については、中国の長い歴史の中で興亡し、中国王朝に対して勢力を張ったり服属したりしてきた民族(唐王朝に対してはチベット―吐蕃やウイグルが勢力を張ったし、元はモンゴルによる征服王朝であり、清朝は満州人による征服王朝でチベット・ウイグル・モンゴルその他いくつもの少数民族とともに圧倒的多数の漢人を服属させた)。清朝を倒して漢人が興した中華民国とそれに替わった現在の中華人民共和国は、清朝が服属させた諸民族の領域を引き継いだ56もの多民族国家なのである。したがって「チベット・東トルキスタン・南モンゴルが中国の領土だったことはなかった」、それが「中国から侵略された」というのは正しくない。漢人と少数民族は建てまえ上は平等で、そのうちのチベット・ウイグル・内モンゴルなどには、彼らが住む地方(民族自治区)の政府に自治権が認められている(とはいっても、そこには漢人が進出してきて多数住みつき実権が彼らによって握られという問題がることも事実だろう)。ウイグル・チベット・内モンゴルなどでは民族の独立運動やその動きはあるものの、これらの辺境地帯は中国政府にとっては「国防線」なのであって、台湾や香港などとともに分離独立されては困る、何としても繋ぎ止めておかなければと必死なわけである。とくにウイグルの「東トルキスタン独立運動」にはイスラム原理主義のテロ組織がからみ、それらに対する強硬弾圧とともに、香港などでも人権弾圧がおこなわれ、人権弾圧には国際社会から批判があるのは事実。
ウクライナやクリミヤ、またチベットやウイグルなどを引き合いに出して、単純に「9条なんかを守っていたら、日本もあんなふうになってしまう」かのような論じ方は不適切だろう。
百田「平和主義者は鍵をかけない⁉―防衛を強化することは、各家が泥棒の侵入に備えて家の鍵を堅固なものするということだ」と。
●軍備を正当化する所謂「戸締り論」だが、それは盗難防止対策に家に鍵をかけるのはいいとしても、各家に銃や刀を備え持ち、用心棒を雇ったりはしないだろう。(家に鍵をかけるのと国が軍備を持つのとは違うだろう。「銃社会」のアメリカは別だが。)
百田「北朝鮮による拉致事件―今もなお日本人が—ならば武力をもって取り返すのが道理なのに、第9条で『武力の行使は、国際紛争をする手段としては、永久に放棄』しているため、何もできない状況だ」と。
●「武力をもって」奪還ということは特殊部隊を送り込んで?それは映画やなんかで描かれる話で、現実には、そんなやり方で拉致被害者を無事救出するのは非常に危険であり(被害者本人の命を危険にさらすだけでなく、戦争になって両国民まで命を危険にさらすことにもなるわけであり)、無謀きわまる暴論だろう。
百田「イージス・アショア—それで敵のミサイルを完全に迎撃できるわけではないが、まったく迎撃しないとなると、100%の確率で数十万の国民が犠牲になる。それは部品が民家に落下する被害とは比べものにならない」のだと。(だから配備しないよりは、する方がましだというわけ。)
「敵基地攻撃―最も確実なミサイル防衛とは、日本列島に照準を合わせてミサイルを発射させようとしている敵基地に攻撃を加え、ミサイルを発射させないようにすることであって、それは防衛の範囲内といえるはず」だと。
●軍事的合理性からいえば、その通り。それは先制攻撃も辞さないということだが、相手がそうするなら、こちらもそうするということだから、先に撃ちこんだ方が勝ち、ということだ。相手より先に撃つ、撃たないとやられる、ということで、「先手必勝」とか「決闘での早打ち」のようなもの。軍備を持つと「早い者勝ち」で、兵器の開発・増強と使用の素早さを競い、軍拡と戦闘・戦争に走りがちとなる。だから軍備は「抑止力」といっても、軍拡と軍事衝突→戦争を誘発しやすい危うさが伴うということだ。
百田「9条を墨守し、アメリカとの安保条約のみに頼るのは危険(日本が他国から攻撃を受けた場合、はたしてアメリカ軍は守ってくれるか、大いに疑問。なぜならアメリカがその国と戦争になるからだ)。憲法を改正しなければ、本当にこの国が危ない」のだと。
●アメリカとの安保条約に頼るのは危険だというのは、そのとおりだ。(たとえば、尖閣諸島など無人島の日中争奪戦のために、日本側が米国大統領の信義に信頼して米軍の参戦をあてこんだとしても、そんなことにアメリカ兵が血を流すことを米国民がどう思うかとためらう米国議会がOK(同意)しなければ参戦できないわけである。)だからといって日本が独力で戦えるように、憲法を改正して自衛隊を軍として位置付け、敵基地攻撃能力はおろか、核兵器さえも保持することを認めるというのは、この国をもっと危うくするだろう。Ⅲ「憲法に緊急事態条項が、どうしても必要」?
読売「大災害・感染症あるいはテロなど緊急事態に際し、憲法に規定がないために政府の対応が、平時の法制や手続きにこだわって後手に回る―緊急事態における政府の責務や権限(緊急政令の発動など)を明記しておく必要があること。その際、私権を無原則に制限しないように歯止めを設けることも。」
産経「政治家や官僚に緊急事態への心構えや国民を救う果断な行動をとろうという問題意識を植え付けたい」
百田「他国の憲法では、戦争や災害が起きた時の行動規定がきちんと定められており、他国の侵略や大災害が起こった際に政府が超法規的な措置によって果断に対処できるように『緊急事態条項』を明記しておく必要があるのに、日本の現行憲法にはそれがない。」「災害が起こるたびに、政府の対応が後手に回るということが繰り返されている。」「緊急時に政府がスムーズに指令を出し、自衛隊や救援隊がきちんと任務にあたれる仕 組みを作るべきだ。」「新型コロナウイルスの対応においても、緊急事態条項がないことが政府の足を引っ張った。」「緊急事態条項を設けることに反対する勢力は、憲法にそのような条項があると『時の政権が独裁者のように振る舞えることになるから危険だ』と主張し、首相に大きな権限が与えられることで、恣意的に使われるようになると危惧している。この緊急事態条項は平時には適用されない、にもかかわらず、時の首相の頭がおかしくなり、いきなり緊急事態宣言を発令して、他国と戦争でもするというのだろうか」だと。
「日本人の潜在的な心理―最悪の事態は起こってほしくないし、縁起の悪いことは考えたくない(「言霊主義」)。それが日本国憲法に緊急事態条項がなく、またその状態が放置された理由の一つだ」と。
●「緊急事態に際し、政府の対応が後手に回る」など政府の対応の遅さ、まずさ(無為無策・ご都合主義・場当たり的・責任逃れなど)は政府自身の問題なのであって、必ずしも憲法のせいではあるまい。
百田氏は「憲法に緊急事態条項を設けないのは、日本伝統の言霊主義(起こってほしくない最悪の事態のことを言葉にしたりすると、それが現実に起こってしまうから、「縁起が悪い」ことは言うまい、という意識)のせいだ」と。そこで「大東亜戦争において、作戦が計画通りいかなかった場合や失敗した場合を全く想定していなかった」ことなども指摘している。しかし、それを言うなら、菅首相や与党政治家たちが、安倍前首相が招致したオリンピックは何が何でもやり遂げなければならないのだという、唯々「開催ありき」の一念で、コロナ感染など、いくらパンデミックといえども、まさかこの日本で、せっかく引き受けたオリンピックを中止せざるを得ないほど状況が悪化して「最悪の事態」に立ち至るなんて「あり得ない、考えられない(だから専門家の提言など聞きたくない)」というその「言霊主義」こそが、政府の感染症対策失態の原因なのではないか。
また、他国の憲法では、緊急事態条項はきちんと定められているかのように云うが、アメリカ憲法やドイツ憲法は、緊急時に、通常とは異なる立法手続きをとることを認めているが、政府に立法権を直接与えているわけではない。フランスや韓国の憲法には、大統領に一時的な立法権限を認めた措置をとれるとする規定はあるが、その発動要件はかなり厳格で、その権限を行使できる場面は極めて限定されていて、そうそう使えるものではなく、ほとんど使われてもいないのだという(2012年の自民党改憲草案のような、内閣独裁権を認めるような緊急事態条項を採用している国はないのだ、とのこと―木村草太・首都大学教授。)米・仏・独やニュージーランドなどで行われているロックダウン(「都市封鎖」)も、憲法上の緊急事態条項に基づいた強権を使ってやっているわけではなく、法律だけでやっているのだとのこと。(一口で「都市封鎖」といっても、外出・移動の禁止・制限その他、具体的な中身は、いろいろで、決まった定義があるわけではなく、今、日本でも緊急事態宣言などでやっている規制の対象・方法(強制力が弱い「お願いベース」など)には他国と違いがあるものの、それらは「特措法」など法律でやっているわけであり、強制力の強化(「要請」から「指示」・罰則を伴う「命令」へ)など法律の改正・新法制定によってできるわけであって、憲法に条項を設けて規定しないとできないというわけではないのだ。憲法には緊急事態条項が書かれていなくても、自由・人権条項の条文中には「公共の福祉に反しない限り」とか「公共の福祉のため」とか「公共の福祉に適合するように」と書かれているし、「公共の福祉」のためとして制定された然るべき法律さえあれば、政府はロックダウン的な非常措置をとることもできるのだということ。
(米ワシントン州弁護士で元明治大学特任教授のローレンス・レペタ氏によれば、「仮に、もし日本で強制的なロックダウン命令に対して違憲訴訟が行われたとしても、日本の裁判所がペンシルバニア州の裁判所と同じように命令は正当であると判断するのは明らかであると思われる。なぜならば、私有財産に関する日本国憲法の規定は米国憲法のそれとほぼ同じであり、緊急事態条項はあるといっても、大統領に緊急時に限って議会招集権限を認めるということだけで、それ以外には特別な権限を付与する規定はないのだ」と。)ただし、法律さえあれば「公共の福祉」で事足りるとは云っても、それを振りかざして政府や官憲が強権を発動・行使して何でもできてしまうような権力の濫用と人権侵害・抑圧は許してはならないわけであり、その歯止めとなるもの、それこそが憲法なのである(そのような場合に憲法に基づいた違憲訴訟が行われ、最高裁による立法審査が行われることになる)。
憲法には、政府や国会・裁判所などに権限を授ける授権規範としての側面もあるが、立憲主義憲法の本質は、国家権力を制限することによって国民の権利・自由を保障するというところにある。だからこそ憲法には、敢てそれ(緊急事態条項)を定めてはいないのだろう。
●立憲主義の立場から云えば、憲法制定の目的は、政治権力者が権力行使(強権発動など)をしやすくするためではなく、あくまで国民の人権を政治権力から護るために、それによって権力を縛ることで、国家権力の恣意的な運用(濫用)を避けて国民の基本的人権や権利を守ることにある。
憲法に、もし緊急事態条項を設ければ、政府に非常権限が与えられ、憲法公認の下に強権発動・行使ができるようになる。それは政府にとっては、臆することなく果断な強硬措置をとれるようになるし、やりやすくなり、国民によっては、それで「生命と財産」が助かるというメリットも考えられるが、権力濫用などリスクも伴う。国民にとっては、そのメリットとリスクのどちらが大きいかだ。リスクについては過去のドイツと我が国の憲法にその事例がある。
かつてドイツのワイマール憲法は世界で最も民主的な憲法の一つとされていたが、それには大統領の非常大権の条項があった。それは緊急時において大統領の判断で非常大権の行使が可能となっていた。これを利用したのがヒトラーで、ナチス党を率いて首相となった彼は、国会議事堂放火事件という緊急事態をでっちあげ、大統領に緊急令を発動させて(放火犯は共産党員だとして)共産党を弾圧、ナチス党以外のすべての政党を解散させ一党独裁体制を樹立して大戦を起こした。
明治憲法には天皇の非常大権とともに緊急勅令や戒厳令など緊急事態条項が定められていて、これらによって戦時には臣民の権利・自由が権力によって無視・侵害がされ、関東大震災に際しては軍隊が治安維持を理由として市民に対する武器使用などの権限行使も認められたし、治安維持法の改定(厳罰化して死刑導入)は緊急勅令をもって強行され、それによって国民の思想・良心の自由や表現の自由は根こそぎ侵害されることになった。
現行憲法に緊急事態条項がないのは、それら内外の過去の憲法における緊急事態条項への反省があってのことなのだ。現憲法には緊急時の「参議院の緊急集会」の規定のみを設け、具体的な緊急事態への対応は、個別の法律(災害対策基本法・大規模地震対策特別措置法・感染症法・新型インフルエンザ等対策特別措置法―今のコロナ対策はこれを適用―など)によっておこなってきているわけである。
●現行憲法には次のようなことが定められている。
25条2項「国は・・・・社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」と―それは政府に対して社会保障とともに公衆衛生の対策義務を課し、その権限行使を認めているということだ。
13条「すべての国民は・・・・・生命・自由・幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と―それは、政府は、国民の生命等の権利を(公共の福祉を考慮しつつ)最大限尊重し、災害や感染症などのパンデミックから国民の生命を護る義務を課され、その権限が認められているということでもあるわけだ。
それはまた、国民の自由・人権が制約されるのは唯一「公共の福祉」のため、ということ。
22条1項「何人も、公共の福祉に反しない限り、住居・移転及び職業選択の自由を有する」と。
29条(国民の財産権保障)「2項、財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律でこれを定める。3項、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」と。
12条(後段)「国民はこれ(自由および権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」と―それは、国民に自由と権利の濫用を禁ずるともに公共の福祉のために利用する責任を課しているということでもあるわけだ。これらの条文で、先ず25条2項で、政府に対して社会保障とともに公衆衛生の対策義務を課し、その権限行使を認めているということ。12条、13条、22条、29条では、いずれも国に対して個々人の自由権や生存権・幸福追求権に対する最大の尊重を求めつつも、「公共の福祉に反しない限り」ということで、これら諸個人の自由・人権・私権に対して一定の制約をも課している。
それら政府の義務・権限と諸個人の権利制約については、それぞれ別途に、具体的個別的に法律によって定められる。
ここで、「公共の福祉」とは、国益とか公益とか国や地方公共団体の利益というわけではなく、また個人とは無関係な社会公共的な文化的価値(たとえばオリンピックとか街の美観とか)というわけでもなく、国民大多数であれ圧倒的多数であれ多数者の利益というわけでもない。それは個人相互の人権が矛盾・衝突する場合の調整原理であり、実質的公平の原理とされている。たとえば、感染症流行に際しては、各人の生命と健康を守るために、居酒屋やカラオケ店の営業規制を求める人々の権利と、営業の自由を求める業者の権利が衝突する事態となる。そこで相互調整(一方を優先し、他方を制限するなど)が必要となり、それを根拠づける言葉として用いられるのが「公共の福祉」。
その調整・調停に当たる役割が政府・国会・裁判所に求められ、それぞれその役割を果たす義務と権限が認められる。(その場合、政府の権限行使は公正でなければならず、政治的な思惑があったりしてはならない。)一方、国民にも権利の濫用を慎む「自粛」が求められ、政府の調停措置に対して、それが正当な立法手続きによる法律に基づいて講じられたものである限り、それに従って協力することが求められる。
●要するに、憲法に緊急事態条項がないと、今回のような感染症のまん延や大災害の襲来に際して政府は的確な対処ができないというのは、政府側の云う言い訳か、言い逃れで、現行憲法下でも、法律(今ある法律の改正か、立法)によって、やろうと思えばできることなのであって、それができないのは憲法のせいではないということだ。ⅳ「デジタル時代の社会の変化に即応した憲法規定がどうしても必要」?
読売「デジタル技術が家庭や教育をはじめ社会全般に浸透し、巨大IT企業は、国境を超えて膨大な個人情報を収集し、経済や言論活動にも国家権力に匹敵するほどの影響力を及ぼすようになっているが、それらを憲法の観点から規制することも考えなければならない。インターネット空間でも個人の尊厳が守られるよう、個人の尊重を規定する13条の改正も。」
国民民主党(憲法調査会「憲法改正に向けた論点整理」)「たとえば13条(前段)の『すべての国民は、個人として尊重される』を『すべての国民は、サイバー空間を含め、個人として尊重されること』というふうに改正する」と。
●これらの規定が必要だとしても、憲法の条文に書き加えるのではなく、やはり別途に法律(たとえば『データ基本法』など)に定めるようにすればよいのでは。
環境権やプライバシー権や自己決定権などは、13条の後段にある「幸福追求権」に含まれているとされているうえに、これらは環境基本法や個人情報保護法など法律で具体的に規定されているわけである。