米沢 長南の声なき声


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9条を超えるレッドラインとは
2023年12月23日

(1)専守防衛を超えてしまう
「専守防衛」の原則とは①急迫不正の侵害があった時(攻められたとき)に限って武力(必要最小限の実力)は行使するも、撃退・排除だけに止まり、相手を打倒するような勝利は求めない。②力を背景とした強制(押し付け)外交はしない。③他国に脅威(不安・恐怖)を与えることはしない。④相手に戦争や軍拡の口実を与えない。⑤同盟国など他国の戦争に自動的に参戦する集団的自衛権行使はしない、ということ。
 なのに、これらの原則を超えてしまうということだ―反撃能力(敵基地攻撃能力)を有するスタンド・オフ・ミサイルなどの兵器の保有・使用など。
(2)(防衛力)抑止力も拒否(抵抗)的抑止力を超え、報復(倍返し)的抑止力まで―「核の傘」に頼る
 そもそも軍事的抑止力とは軍備(武力・兵器・軍事同盟など)を保有し軍事演習(訓練)もして(いつでも戦える準備を整えておき)、いざとなったら戦うぞという交戦(応戦・抗戦)意志(覚悟)を示すことによって、相手の戦争(攻撃)意志をくじき抑え込むことであるが、それは互いの間に対抗意識を募らせ、互いに相手に対して優るとも劣るまいとして軍備増強・軍拡に駆り立てられ、偶発的な何かをきっかけに軍事衝突(どちらかが先に仕掛けて相手が応戦)を誘発し(「戦争抑止」どころか、かえって)戦争を招いてしまうという結果となりがち(つまり「火種」になってしまう)。現にウクライナで行われている戦争あるいは台湾海峡や朝鮮半島で想定されている「有事」も、それ(対立する双方の軍事的抑止力の対決)が火種となっているのでは。
 軍事的抑止力によって戦争は抑止されてはいても、それは平和ではない。暫くは抑止
されても抑止し切れず、いつ何どき戦端が切られるかも判らず不安と恐怖が付きまとう「冷戦」状態。かつて米ソ冷戦があって、その最中、朝鮮半島で火が噴いて戦争が起ったが、それが休戦協定で休戦はしているものの70年過ぎた今なお平和条約は結んでおらず、戦争終結には至っていない。つまり、いつまた戦争が再開されるかもしれない「冷戦」状態が続いているのだ。だから北朝鮮は核実験・ミサイル発射実験を「抑止力」のためと称して繰り返し、韓国それに日本にも米軍が駐留し合同軍事演習を繰り返しており、この日本にも北朝鮮が発射した「ミサイルが飛んでくるぞ」と云ってJアラートが鳴って住民避難が行われたりしているわけだ。
 中国と台湾の関係も、似たようなもので、日中戦争で敗退した日本軍が撤退した後の中国で国民党と共産党が内戦、共産党軍は中国大陸を制覇して「中華人民共和国」を樹立し、国民党軍は台湾に逃れて、そこで「中華民国」政府を維持して島民を統治(今は国民党に替わって民進党政権)。未だに政府と軍が中国と台湾に分かれたまま「冷戦」状態。それがここにきて再び火が噴くかもしれない、というのが所謂「台湾有事」。
 要するに軍事的「抑止力」を持ち合って対峙し、威嚇・挑発しながら、開戦(撃ち合い)
は控えているだけのこと。(その抑止も「拒否的抑止」或いは「均衡抑止」にとどまるならともかく、「報復抑止」となると「倍返しだ」などと相手を質的・量的に上回る軍備が必要となり、軍拡競争になって防衛費が嵩むことになる。(その数量や性能などは、互いに対抗する相手国に対して手の内を明かすわけにはいかないということで明らかとはならず、互いに不確かな推量・憶測に基づく「ドンブリ勘定」―「このぐらいであれば」―とならざるを得ない。)それは戦争を抑止はしても、対立・紛争は続いて、軍備を持ち、「いざとなったら戦うぞ」という意志まであるかぎり、戦争そのものは無くならず、たえずその危険がはらんでいて、安心・安全な平和的生存権の保障なんかには全くならない。それが軍事的「抑止力」なるものだ。
 米ソ冷戦は終わっても、米ロ間で再冷戦。それが今ロシア軍のウクライナ侵攻で火が噴いて「熱い代理戦争」となっている。また米中間の「新冷戦」、そのほか中東などあちこちで「冷戦」の火がくすぶり続けている。
 軍事力(抑止力)を持ち合って戦争を抑止できさえすれば、それで平和・安全保障が成立するかのように思ったら大間違い。各国とも日本国憲法9条のように、戦力を保持せず、交戦権を否認して戦争という戦争を放棄(核兵器だけでなく軍備全廃)を実現してこその恒久平和なのである。「構造的リアリズム論」(超国家組織の存在しない「アナーキー」な国際社会における最大権力たる国家のパワーによって安定が保たれている現実を肯定し、軍事的「抑止力」を合理化する理論)などを用いて、安全保障を軍事に依存しているかぎり、真の平和・恒久平和は永久に訪れまい。
 国連憲章を、日本国憲法9条のように定めて、各国とも戦力保持を禁じて軍備を全廃し、交戦権を否認するようにすれば世界平和は実現するものを。
 現在の国連は、各国がてんでに「自衛のため」とか「抑止力のため」にと軍備を持つことを容認し、しかも5大安保理常任理事国には核兵器の保有まで認めて、それを「核抑止論」で正当化し、それ以外の国々には(NPTで)核保有を禁じ、5大国自らは核兵器禁止条約には加わらずに核兵器独占保有「特権」を維持している、という不公正なものとなっている。この不公正と各国の軍備保有そのものが火種となって今回のウクライナ戦争のような戦争が起こる危険が絶えないことになる。国連はそこを何とか改革しなければならないのだ。
<前提とする考え方>そもそも、自衛のためであれ、武力攻撃抑止のためであれ(本来)武力・軍事力(武器・兵器・軍隊などの軍備)は戦争(戦闘)に際して必要とされる主要で不可欠な手段であり(「軍事力とは人を殺すもの」―高橋杉雄)、戦闘とは殺傷・破壊行為。それに用いられる武器・兵器は殺傷・破壊用にわざわ製造された道具であって、「自衛のための抑止力ならば許される」ということにされるのだろうが、どの国でも、一般人(個人)としてならば殺傷・破壊行為は、正当防衛や緊急避難としてやむを得ない場合は(刑法上)「違法性阻却」として扱われ、罪には問われない(免責)が、本来(通常)はあってはならない犯罪行為と見なされる。日本では一般人の銃刀などの凶器は護身用・正当防衛用といえども所持は禁止され、製造・販売も禁止されている。日本国憲法では、前文に「全世界の国民は等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有する」としつつ、9条で国は戦力(陸海空軍その他)の保持を禁止し、交戦権も否認して戦争することを禁じている。
 国連憲章では戦争は違法とはされているが、各国の戦力不保持(軍備の禁止)までは定めておらず、各国には自衛権としての武力行使は個別的にも集団的にも容認していて、各国での武器・兵器の製造・輸出入も禁じられてはいない。
 国連こそが「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有することを」宣言して各国とも戦力を保持せず、交戦権を否認して戦争を放棄することを憲章に定め、(核兵器など大量破壊・残虐兵器だけでなく)全ての殺傷・破壊兵器を全廃すように定めてもおかしくはないないばかりか、むしろそれこそが世界から恒久平和のために国連に課せられた使命なのでは。


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