米沢 長南の声なき声


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「安心社会」とは?(修正・加筆版)
2009年07月01日

 かつて流行った植木等の歌にこんなのがあった。「銭の無い奴は俺んとこへ来い、俺も無いけど心配すんな、見ろよ青い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろうサ――」。それは経済成長期、なんとものどかな(?)時代だったことか。だからといって、けっして安心社会などというものではなく、不安もあったことはあったのだが、「そのうちなんとかなるだろう」という安心が、不確かながらもあった。今、そんな歌を若者たちの前で歌おうものなら、ボコボコにされるだろう。
 今、我が国では、子どもたち・若者・壮年者・老人・障害者など人々の前には
様々な不安の種がつきまとっている。幼児虐待・いじめ・暴力・不登校・ひきこもり・ニート・ワ-キングプア・ホームレス・うつ病・過労死・餓死・自殺・自暴自棄的犯罪、それに「へた」をすると北朝鮮と戦争も。

 麻生政権は総選挙の看板政策に「安心社会の実現」を打ち出している。首相が設けた有識者らの「安心社会実現会議」は5つの安心をあげている。
①雇用をめぐる安心
②安心して子どもを産み育てる環境
③学びと教育に関する安心
(文部科学省の「教育安心社会の実現に関する懇談会」も発足。そこでは、家庭の経済力による格差を是正するために、国の財政支出増を求める意見が多く出ている。)
④医療と健康の安心
⑤老後と介護の安心
 その「安心」は「活力」と両立し、「活力を支える」ものだ、というわけである。
そこには様々な矛盾がはらんでいる。それはいったい誰にとっての「安心」「活力」なのか。一般庶民のほかに大企業家・資産家・投資家・政治権力者・官僚など様々な階層の人々がいるが、それぞれの立場での安心・活力というものがあるわけである。大企業・投資家の立場に配慮あるいはそのほうを優先するが故に一般庶民にとっての(許容される)安心は極めて限られたものとなり、不徹底となものとなる。
 非正規労働の拡大と雇用の流動化・賃金抑制で家計・内需を犠牲にし、輸出大企業の「活力」を優先した「構造改革」政策はそのまま(反省・総括が加えられていない)。
 非正規労働者の社会保険の適用を拡大する、という。そのために企業負担が増す分、法人税は引き下げる。低所得者や子育て世帯には給付付き税額控除をおこなう、という。それらの財源も、医療・介護など社会保障の「機能強化」にかかる公費も、その財源は消費税アップでまかなう、というもの。
 これでは「安心社会」どころか生活不安はかえって増すことになりかねない。

 ところで、安心とは不安のないことであるが、不安には、人間関係(親子・兄弟・友だち・同僚・男女関係など)のこじれや断絶、或は(試験やコンテスト、仕事や事業、ゲームやギャンブルなど)何か取り組むものがあって、それに「失敗するかもしれない」とか「負けるかもしれない」「損失をこうむるかもしれない」といった不安がある。これらは各人が自由にそれぞれ思い思いの幸福を追い求めて目標に取り組む自助努力いかんによるもので自己責任に属するか、あるいは家族や地域・利害関係者など仲間の共助・協力いかんによるもので共同責任に属する。
 しかし、人々にとって究極的な不安は、学校で充分な知識・技能を修得できず、仕事もなくて収入が得られず、住む所も食べる物もなく、「生きていけなくなるかもしれない」とか、「事故や災害にあうかもしれない」とか、怪我や病気になっても医者に罹ることもできず「死ぬしかなくなるかもしれない」などといった生命に関わる不安である。その不安を無くし、安心して生きていかれるように生活安全を保障するのは国家である。それは政府や自治体の責任に属する。
 
 国家は国民共同体―互いに力を合わせ、お金(税金・保険料)を出し合って助け合う、いわば「国民の生活互助会であり、生活共同体」(6月12日付け朝日新聞、筒井眞紀氏の投稿)。出し合うお金は、収入の多い人はより多く出し、収入の少ない人はより少なく出し(所得再分配の原則、累進課税)、最低ライン以下の人は免除される。(消費税が不合理なのは、収入の多少・有無の別なく、すべての消費者に、一律に出させ、相対的には収入の多い人の方がより少なく出し、収入の少ない人の方がより多く出さなければならない逆進課税だからである。)

 自公政権は、小泉政権以来、財政が大変だからといって社会保障費抑制路線をとっている(社会保障のための予算を毎年2,200億円カット)。その一方で、軍事費や道路建設・大型開発事業などムダを続けている。しかも、大企業・大資産家には減税し、社会保障財源の名目で消費税アップを企図しているのである。

 勉強をして知識・技能を修得し仕事を選び職を探して就業・就労するのは自助努力であり、家事・育児・扶養などは家族の共助、医療・介護・年金などの保険は国民共助の分野であるが、保育所・学校・職業訓練所を(教職員とも)用意し(私立には公費助成)、職場を確保・紹介し(経営・雇用するのは個々の民間企業であっても)、雇用を促進するのは(公共職業安定所・ハローワーク・労働局など)政府・自治体の責任であり、医療・公衆衛生も政府・自治体が責任を負うべきものである。
 本年正月に、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」を、NPOから都が引き継いで、都や区の施設に一時引き取った、その時に、都は「自助努力が大前提で、今回は人道的観点からの措置。期限までに仕事と居場所を見つけてほしい」と。しかし、その言い方は、生存権を権利としてもつ国民にして、たまたま派遣切り等で職とともに住居を失って寒空の下に放り出された人々に対して、国や自治体が然るべく対応するのは当然の責務だという責任意識に立った言い方ではない。

 安心とは、誰もが、たとえどんことがあっても(どんな境遇に陥っても)生命だけは保障され、医療が受けられ、教育(それも、テスト競争教育や国家統制のプレッシャーと、「いじめ」などのストレスが無く、個性と能力に応じて伸び伸びと受けられ、自分に相応しい知識・技能を身に付けられる教育)が受けられて、将来にわたって安定的な仕事にありつけ、結婚して家族を養える収入が得られ、人として(人間らしく文化的に)生きていかれる保障(生存権の保障)があることである。その安心が保障されている、それこそが安心社会なのだ。
 日本国憲法には次のような定めがある。
前文―「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(平和的生存権
14条―「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする」
25条―「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」
26条―「すべての国民は・・・・その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」
(政府は「これは国の努力目標を定めた条文で、個々の国民に具体的権利を与えるものではない」という解釈をとっている。そして「無償」の範囲を公立小中学校の授業料と教科書代だけに限定。学力世界一の国フィンランドでは、日本国憲法と同様「教育の機会均等」を定めているが、それを文字通り実施、公立私立を問わず学費は大学まで無料、給食費・交通費も家庭の負担はゼロ。)
27条―「すべての国民は勤労の権利を有し、義務を負う。賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない」

 今、「世界第二の経済大国」と言いながら、先進諸国のなかでは、相対的貧困率が高く(30ヵ国中4~5番目)、「安心度」はグンと低いのである。
 01~08年の間、国民一人当たりのGDPは世界4位から20位に転落し、国際競争力は1位から9位に。国の債務残高(対GNP比)は71%から174%に。
 鶴見芳浩氏(ニューヨーク市立大学大学院教授)は、バブル崩壊後1990年代の「失われた10年」に対して「更なる失われた10年」だとしている。
 不安定雇用・長時間労働、それに高い保育費・学費負担で結婚・出産・子育てが困難。その結果が少子化・人口減少。それは日本社会が活力を失い衰退傾向にあることを示している。
 自殺者は11年連続して毎年3万人を越える(10万人比でみると、アメリカの2倍、イギリスの3倍)。
 餓死者は年間71人(04年)
 ヨーロッパでは医療と教育(幼児教育・高校・大学も)は無料が常識。我が国の学費(私費負担)は世界一。(高等教育への教育支出に占める公財政支出の割合はOECD加盟諸国平均73%に対して、我が国は34%で、私費負担は66%)。我が国では国基準で1学級40人まで認めているが、ヨーロッパでは少人数学級で1学級20人が限度というのも常識。
 国民の学力低下―01~08年の間、「科学的力」は2位から6位に、数学的力は1位から10位に、読解力は8位から15位に(ユネスコのデータ)。
 国際人権社会権規約は高校・大学の漸進的無償化を定め、大半の国々はこれを批准しているが、未だに留保している国はマダガスカルと我が国だけ。
 我が国における過度な競争教育は、1998年国連「子どもの権利委員会」からの改善勧告で「極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子どもが発達障害にさらされている」「さらに登校拒否の事例がかなりの数にのぼることを懸念する」と指摘されているが、いっこうに改善されてはいない。
 学校での「いじめ」は、加害・被害ともに、小中学校で5人中4人が経験(国立教育政策研究所が実施した調査。04~06年、首都圏のある一つの市の小中学校19校で小4~中3の全員を追跡調査。中学校の3年間で仲間外れ・陰口などのいじめの遭った子どもと、いじめる側に回った子どもがいずれも8割を超える。小学4年からの3年間でも同様の割合)。そのことを孫たちの前で彼らの親たちに話したら、孫(小3)は「そんなことだったら、ますます自信がなくなるじゃん」と。
 まさに「不安社会」ではないか。
 自公政権の下では「安心社会実現」どころか、「不安」は増すばかりである。
 今、シュプレヒコールで「生きさせろ!」「働けなくとも食えるようにしろ!」「自己責任で済ませるな!」「安心を保障しろ!」「安心して学べるようにしろ!」と声をあげるのは当然のことなのだ。
 私も、ひとつ、「孫たちに不安を与えるな―!」


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