米沢 長南の声なき声


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格差論―サンデル教授リード討論番組から
2012年03月22日

3月19日のNHK「マイケル・サンデル 究極の選択―許せる格差、許せない格差」
 アメリカでは、富裕層の上位1%が国の富の(99%というが、実際は)40%を所有、
日本では富裕層の上位1%が国の富の20%を所有、だという。
 
 格差をつける―成績や成果(貢献度)に見合って報酬に格差→競争―がんばるモチベーション(動機付け)やインセンティブ(刺激・誘因)の手段として有効。しかし、それはあくまで単なる手段にすぎず、絶対化してはならず自己目的化すべきではない
 人は競争がないとやる気が起きないとか頑張れないという向きがあるが、
―人によっては競争心がない者も、或は競争嫌いで、人と比べられると、かえってやる気をなくする者もいる―が誰しも向上心はあるものだし、仲間がいれば(話し合い、補い合い)切磋琢磨して共に向上し合える。
 また、見返り(報酬)がないと頑張れないという者もいるが、そうでない人もいるボランティアで無償でも頑張る人も
 競争はゲーム―運がつきもの
 成績・成果―苦心・努力の結果―だが、必ずしも自分の力だけで勝ち得たとはかぎらない―人のおかげ―他の人々(家庭など周り人たち)の(直接的・間接的な)協力、社会環境①のおかげもある。それに「運」②―たまたま有利な条件やチャンスに恵まれた好運―もある

 学校教育では楽しいゲームとして競技やコンクール、運動会などで競争して順位を競うこともあっていい。
 しかし、学力テストなどでは順位をつけて公表し比べ合って競争に駆り立てるのは邪道であり、様々な弊害をともなう(生徒によっては、テスト競争があることによって「よし!頑張るぞ」と意欲を燃やす者や「今度こそ負けるものか」と奮起する者いるが、嫌気をさしてやる気をなくす者が出てくる。小数の勝ち組は優越感をもち、大多数の負け組は劣等感に打ちひしがれる。テスト競争がストレスになり、学校嫌い、勉強嫌い、友達嫌いにもなるなど。)
 会社でも、競争・成果主義は広がっているが、必ずしも好結果をもたらしておらず、不評だと言われる。
 大阪では教育基本条例・職員基本条例を制定し、それで教員や職員に5段階評価を給与と結びつけて行おうとしているが、そのようなやり方は合理的か不合理か。

 増税するなら所得税(累進課税、富裕層に増税)のほうがいいか、消費税のほうがいいか
 所得税は所得が多い人ほど多く取られるが、それでは、せっかく努力してより多くの所得を得ても、(より多く)取られてしまうのでは努力のしがいがなくなってしまう、という向きがある一方、アメリカの投資家で世界3位の富豪ウォーレン・バフェット氏は富裕層増税を主張。
 高所得・高資産は(①②で指摘したように)「努力して得られた」といっても、それは自分の努力だけで勝ち得られたと考えるのは傲慢で、社会をより多く利用して得られた所得・資産なのだから「社会に恩返し」するのは当たり前。
 税金は応能負担(負担能力に応じた負担)が原則―消費税は全員同率負担で低所得者ほど重く(逆進性)不公平
 それに、税金の再分配機能には、社会の構成員でありながら失業・障害者・母子家庭など「運に恵まれなかった人」を助ける(社会保障など)という意味あいがある。
 利益の分配―会社役員(リスク責任を負っている)・開発チーム(ヒット商品の開発に貢献)・一般従業員の間に格差をつける―合理的か不合理か
 企業―雇用―正社員・派遣社員・外国人労働者の間に格差をつける―合理的か不合理か
  市場で利潤競争は製品開発・イノベーション(技術革新)・生産性向上へのインセンティブ(誘因)として有効な手段にはなるが、利潤競争で勝つことが自己目的化して社会のニーズと雇用・従業員の生活維持を二の次にしてしまったら本末転倒になる。
 経営コスト(人件費を安くあげ、倒産を回避し「会社を守る」ことを)重視か
 企業の社会的責任を重視か―雇用・従業員の待遇改善(「社員あっての会社だ」と)
  国連のILOの原則は「同一価値労働同一賃金」―正社員か非正社員・性別・年齢などにかかわらず、①知識・技能②精神的・肉体的負荷③責任④労働環境の厳しさ等において同じ仕事ならば、賃金は同じでなければならないはず。
  番組出演の竹中氏(小泉政権で総務大臣)は「同一条件同一労働」論で派遣労働と正社員との賃金格差を正当化していた(正社員は終身雇用・年功序列賃金で残業も転勤もあるが、派遣社員は終身雇用・年功賃金でないかわりに、残業も転勤もないというわけか?日本は、欧米のような子育て支援・教育無償化の制度が遅れていて、年功者ほどカネがかかるため年功序列賃金のやり方がおこなわれてきた)。

 格差は容認されるか、されないか (番組の最後に、サンデル教授はアメリカの思想家ジョン・ロールズが「無知のベール」で指摘している考えを紹介)―その人その人が自分の地位や立場、権力や経済力とは関係なしに(意識の外に)客観的に成立する共通の正義(倫理)があるはず―自分が今いる社会的な立場から一歩離れて、(もし自分が「プロ野球選手で打率2割しか打てていない低年俸の選手なら」とか、「貧しい生まれなら」とか、「移民労働者なら」とか)他人の視点に立ってものを考えることが肝要だと。
 ロールズによれば、社会的・経済的不平等(格差)が許容されるのは、①機会が公平・平等に与えられている場合。②全構成員の幸福実現を期して、社会のなかで最も不利な状況にある構成員の利益を最大にするような施策が必要であるという場合(最不利者の利益最大化を最優先)。この二つの場合に限られる。それ以外は、格差は許されない、というわけだ。
 ①は、機会均等で同一条件ならば、職務や地位に差異があっても許されるということだが、現実には、例えば同一受験機会が与えられても、受験者の中には(家庭―出身階層、親の学歴・経済力など)様々なハンデイがあり、同一条件とはなり得ない。不合格ならば進学できず、合格しても学費を払えず中退せざるを得なくなり、中卒扱いとなり、採用試験の機会は与えられても正社員採用は難しく、非正社員(リストラ要員)でしか採用されず、結婚もできないといった境遇におかれる。それは許容される格差ではあるまい。
 ②は、能力・資質・出身階層など最も不遇な立場にある人、或は今回のような大震災の場合最も甚大な被害を被った人や地域の利益を最大にすることを最優先するということ。
 


 


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