米沢 長南の声なき声


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いったい誰の立場に立っているのか、で判断
2007年07月17日

1、選挙
 選挙といえば、どの党,どの候補者の言うことも、いいことづくめで、皆もっともらしく聞こえる。マスコミ・評論家などは、よくマニフェスト(政権公約)がだいじだとか、その具体性がどうの、実現に必要な財源の裏づけがどうのと批評したりしているが、それを云われれば、経験・実績を重ね、データと予算を握っている政権与党のものが、いちばん確実性がある、となるのが当たり前である。
 それに、マスコミを通じてのプロパガンダ(宣伝)の巧拙。この点でも、政権を担当し、常々否応なしに関心・注目される首相や大臣のいる政府与党と豊富な資金をもつ大政党が有利となる。
 そして、党首や候補者の話し振り(冗舌さ)、耳ざわりのいい言葉、(「・・・をぶっこわします」などといった)威勢のいい言葉、それに「顔」だ。外務大臣の麻生氏いわく。「奥さん方にわかりやすく云えば、小沢一郎の顔をとりますか、安倍晋三の顔をとりますか?どちらが奥さんの趣味に合いますか。それが問われる」と(朝日の記事の中にあり)。確かにその通りかもしれない。とかく庶民は、それで騙されてしまいがち。
 そこで、それらに騙されてしまわないように、その党や候補者の本質・本心を見抜かなければならない。本質・本心といっても、それはその党その候補者は一体だれの立場に立っているのか、庶民の立場に立っているのか否かであり、そこを見極めることだ。
 選挙戦はプロパガンダ戦だという。石原都知事の「選挙プランナー」を務めた三浦博史氏(月刊現代8月号「『洗脳選挙』の舞台裏」)によれば、「大半の有権者の投票基準は外見力や好感度であることは紛れもない事実」だという。「日本の選挙では、有権者たちの投票行動の多くは、ノン・バーバル・コミュニケーション(非言語会話)で決められている」と。しかし、三浦氏は「宣伝力=プロパガンダに左右されない有権者の資質の変化・向上が求められている」「大切なのは候補者の本質を見抜くこと」だとも書いている。

 政治(選挙に際する政党・候補者、その主張や政策)でも歴史認識でも思想その他でも、論者とその言説を評価・判断するばあい、それを見極める基準は、それがいったい誰の立場に立っているのか、庶民の立場に立っているのか否かであろう。(庶民とは、国家や社会の支配層以外の人々で、権力者・与党政治家・官僚・資産家・大企業経営者・株主など富裕層・エリート・勝ち組その他の「恵まれている人たち」に対して、中小経営管理層以下、零細業者・自営業者・従業員・労働者・フリーター・無職者・貧困層・負け組・被害者・障害者その他の「恵まれない人たち」のこと。)
 国家や社会の支配層の立場では、国家利害(国益)や企業利益の観点から戦略的に発想し、評価・判断するが、庶民は、ただ生活上の利害と道徳的心情(良心)から評価・判断する。
 庶民は、「国益」とか「国家の品格」とか「国際競争力」「国家戦略」とか、「この国を美しい国にする」とか「強い国にする」とか、そんなことは考えないし、考える必要もない。
 庶民は、「彼らとはイデオロギー(価値観や考え方)が違う、或は違わない」とか、「我が国の伝統や国柄はこうだ」とか、そんなことにはこだわらない。
 庶民は、ただ、自分も他の人々も(庶民が)みんな生活と権利が保障され、誰も虐げられ犠牲にされることなく無事・安寧に暮らせればそれでよいのであって、その生活上の死活的な利害(これでは生きていけないとか、これで助かるとか)と道徳的心情だけで評価・判断し、イデオロギーや価値観がどうのこうのとか、我が国の伝統や国柄がどうのこうのといった固定観念にはとらわれる必要はないのである。
 政治家が「国益」・「国家戦略」を考え、財界人が企業利益や「国際競争力」といったことを考え、経営戦略を考えるのは当然だとしても、庶民がそれらのために「痛みに耐え」させられ、犠牲になっても「しょうがない」といって済まされるとしたら、それは本末転倒である。庶民の生活と権利を守るために国家があり、庶民に仕事と生活の糧を与えるために企業があるのだ、というのが庶民の立場であろう。
 自民党と民主党は、財界・大企業から巨額の資金提供(政治献金)を受けている。日本経団連は政策要求(「優先政策事項」―法人税の減税、労働法制の規制緩和、憲法改正の実現など10項目)を両党に提示し、それに各党の政策はどれだけ合致しているか、どれだけその実現に向けて取り組み、実績をあげているかを評価(5段階評価)し、それをもとに各党に献金している(04年、経団連の会員企業から、自民党には22億2千万円、民主党には6千万円)。両党は財界からより高い政策評価を得ようと競い合っている。しかし、自民党のほうが高評価を得、はるかに多額の献金を受けているわけである。民主党は労働組合(連合系)からも献金をうけており、公明党は宗教団体(創価学会)から献金を受けている。共産党は個人献金(募金)だけに徹し、企業・団体献金は一切受けず、公費(税金)からの政党助成金さえも唯一受け取っていない。
 このように財界・大企業から献金を受けている政党と受けていない政党とがあるが、これらの政党は誰の立場に立ち、財界と庶民のどちらの側に立つのだろうか。

 ①安倍政権の「安全保障・防衛政策」は、日米同盟―アメリカの「核の傘」(核抑止力)にたより、NATOなどとも軍事協力を強化(集団的自衛権の行使を容認)、自衛隊の海外派兵を恒久法でいつでもやれるようにし、海外での武力行使を容認する9条改憲をめざす。そのような政策は、庶民―ただひたすら「どの国とも仲良くし、どの国の人とも仲良く平穏に暮らせればよく、戦争などごめんだ」(国は各人に平和的生存権を保障してくれれば、それでよいのだ)と思っている、その立場に立っているのだろうか。
 ②安倍政権の新自由主義(市場原理主義)政策―非正規雇用・派遣・請負労働などの規制緩和・民営化政策は、それによって生じる正社員・非正社員の格差・不平等、労働時間・残業規制の緩和、成果主義賃金など、はたして庶民の立場に立っているのだろうか。
 経団連会長の御手洗氏は、日本の企業は「非正規社員がいるから国際競争力がある」というが、そう云って労働コストを低く抑えて企業はバブル期を上回る(1,8倍)史上最高の利益をあげ、その分け前は株主(10年間で3倍)と会社役員(2倍)が手にし、労働者(雇用者報酬は8年連続で後退、1997年比マイナス6%)は割を食っている(正社員は長時間過密労働、非正社員は低賃金・不安定就労)。
 ③安倍政権の租税政策は庶民の立場に立ったものだろうか。大企業・資産家には大減税(1,7兆円)、庶民には定率減税の全廃で所得税・住民税を合わせて大増税(大企業・金持ち減税と同額の1,7兆円)。高齢者への増税も。そのうえ消費税も上げられようとしているのだ(選挙直前の今は、「上げる」とは云っていないが、上げないとも云っていない)。
 これら増税のうえに、医療の窓口・保険料の負担増、介護保険のサービス切捨てと負担増、障害者福祉の「応益」負担、生活保護・児童扶養手当の削減など社会保障費の削減と負担増も。
 ④財政赤字解消のためには、庶民への増税・負担増 と歳出削減はやむをえないと云いながら、大企業・資産家に対しては(法人税、株式等の売却金や配当金への課税など)減税し、駐留米軍への思いやり予算や基地再編にともなう移転施設建設費(3兆円)、「ミサイル防衛」予算(1兆円)等をふくむ軍事費は決して削減しようとしない。
 ⑤年金は、2004年に「100年安心」と称して改革をおこなったが、それは保険料を毎年引き上げる(2017年度まで)一方、給付水準は15%も(現役男子の平均的な手取り収入の59,3%から2023年には50,2%に)削減するという改悪にほかならなかった。
 保険料を払っていない(25年間払い続けないと65歳になっても年金がもらえない)無年金者が多く(60万人~100万人)、給付も、「たったこれだけでは食うに食えない」というわずかな金額(国民年金、40年納め続けて月6万6千円、平均では4万7千円)しかもらえない受給者も多い。
 そして、ここに来て「消えた年金」(保険料納付記録の何千万という記録漏れ)問題が浮上、(それは社会保険庁の事務処理のずさんさには違いないが)その監督責任は歴代の厚生労働大臣にあり、ほかならぬ彼らが「親方」であるにもかかわらず、社保庁職員=公務員の「親方日の丸」体質のせいだとして社会保険庁そのものの解体・「民営化」を強行。国の責任をあてにして保険料を払っているのに、それが国の責任の直接及ばないところに行ってしまうことになる(運営業務は法人の「日本年金機構」へ、収納・支給・相談などの業務はあちこちの民間企業に外部委託)。庶民の年金不安はこれで解決されるのだろうか。(外務大臣の麻生氏は姫路市の街頭演説で、「消えた年金」問題で国民が殺到していることについて曰く、「もっともらえるかもしれない。これは『欲の話』だろうが。それが、何も今あせって電話することはない」と。)
 ⑥大臣が政治資金(国民が払った税金からの政党助成金が含まれている)を何に使ったのか、事務所費として計上しているが、それにしては金額が大きすぎる。「法律(かかった金額が5万円未満ならば領収書は付けなくてもよいと定めている)に則って適切に処理している」と言うのみで、領収書開示を求める多くの声にもかかわらず、応じていない。庶民感覚では到底納得できるものではあるまい。
 ⑦教育基本法改定に続いて教育3法(学校教育法・地方教育行政法・教員免許法)も改定した。これらによって教育に対する文科省と地方行政当局の介入・管理・統制が益々強められることになった(愛国心・「規範意識」の押し付け、学校評価・教員評価)。その一方で競争教育・序列化が進められる。教師も子どもたちも益々のびのびした勉強や活動ができなくなる(教師から授業の工夫や子どもと向き合う時間が奪われる)。それで「いじめ」「不登校」「落ちこぼれ」が無くなるのか。庶民はますます子どもが心配になってくる。

 与野党各党と候補者、その主張や政策は、いったい誰の立場に立っているのか。庶民の声を代弁してくれている、或はそれにいちばん近い政党・候補者はどの党、どの候補者なのかをよく見極めて投票しなくては、と思う。
2、マスメディアは公平か
 マスメディアとそれに出てくる評論家・識者などの言説やニュース報道は、いったい誰の立場に立っているのか、権力側か、庶民の側か見極めて評価・判断すべきであろう。
 与党・野党もしくは多数党の政治家と少数党の政治家とでどちらに信頼を寄せるか、或は好感をもつか、という場合、マスメディア(テレビ・新聞・雑誌)の取り上げ方によって左右される。
 そこでマスメディアの「公平公正」が問題になるが、とかくメディアは自民・民主両党を「二大政党」ということにして、各党の動きや考え・主張・政策はこの二党のものだけを取り上げ、他の少数党のものはまるっきり省略されるか、わずかしか取り上げないことが多い。したがって少数党の考え方・主張・政策が国民にはあまり伝えられていないことが多い。
 国会の委員会審議などでは各党の議席数に応じて質問時間が割り当てられており、多数党には長々と、少数党にはわずかしか時間があたえられず、党首討論などは自民・民主2党だけの討論になっていて、他の党首は外されている。それがテレビ中継される。
 かつての自民党・参議院議長の河野謙三は、野党の方により多くの発言時間を与えて「七三の構え」でやってこそ公平になる、と述べたとのことであるが、その方が正解であり、それは国会だけでなく、マスメディアの各党の取り上げ方についても同じことが云える。
 ニュースなどでは首相の発言・インタビューや行動がほとんど毎日のように報道され、少数野党の党首の発言などいちいち報道されることがないのは当然といえば当然だ。しかし、国会審議やテレビ討論、新聞などの紙上討論では、与党と野党第一党だけでなく、少数野党にも充分な発言時間を与えて然るべきなのである。そうすれば、有権者はそこから各党とその発言者は、それぞれ誰の立場に立っているのか読みとって判断できるわけである。
 ところが、いまの新聞・テレビその他のメディアはどれも、その取り上げ方が与党もしくは野党第一党の方に偏っており、「自民・民主」両党の見出しや「安部・小沢」両党首の写真が突出して載せられている。その他の少数党は、あたかも、見るべきものは何も持ち合わせないか、それしかないかのように、全然載らないか、わずかしか載らない。その結果が、世論調査で政党支持率に如実に表われることになる(自民・民主だけが突出し、他は極端に支持率が低い)。それは、これら少数党の理念・政策・実績など、マスメディアによって正確・詳細には知らされることなく、その主張の真意は、ほとんど庶民には伝わっていないからにほかならない。
 メディアについては、我々はそのあたりのことをよく見極め、問題の取り上げ方、スポットの当て方、その論調など、そのメディアは「いったい誰の立場に立って報道しているのか」「権力側(政府・財界寄り)か庶民の側か」を評価・判断しなければならないのである。NHKも、民放各局も、新聞各社も然りである。  
 メディアは、「中立公平」とは云っても、等距離・中間をとるなどということはあり得ず、権力側(政府・財界寄り)・多数派の側か、庶民・少数派の側か、どっちかの側に立つか、こっちに寄ったり、あっちに寄ったり、両側を揺れ動くかのいずれかだ。
 我々はそこのところを見極めて判断しなければなるまい。
3、「しょうがない」論
 「しょうがない」という諦めの言葉は、過ぎ去った昔のことは今さら元には戻らず、どうしようもないという場合と、地震や台風など天災地変などの不可抗力の場合に使われる言葉だ。天災地変などの場合ならば、人間の意思ではどうにもならないことであり、それこそ、諦めるよりほかにない。しかし、戦争や暴力や事故など人災の場合は「しょうがない」で済ますことはできない。あの時なぜあんなことをしたのか、されたのかをひたすら追求し続け、絶対二度と繰り返してはならないと、いつまでも云い続けなければならないことなのだ。
 天災地変ならば、必ずいつか再び、ということを覚悟し、それを前提にして被害を最小限にくい止める方法・手段を講じなければならないが、戦争やテロや原爆など人災ならば、まずはそれを起こしたか起こしそうな国や人間に対して、絶対に同じことを繰り返させないように、そんなことはやってくれるな、やってはならないと云い続けること(外交努力・平和交流・信頼関係の構築)が先でなければならず、それがすべてであってもよいのだ(防備だとか「抑止力」などに意を注いで金をかけたりしなくても)。
 アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下を考え、評価・判断するばあい、被爆者の立場に立って考えるか、それともアメリカ軍(原爆を投下した爆撃機の搭乗員や退役軍人、或は原爆を研究・開発した科学者)または大統領(トルーマン)の立場で考えるか。
 7月4日付けの読売新聞社説は、原爆「しょうがない」発言で辞任した防衛大臣のことで、「野党側は・・・・感情的な言葉で久間氏の発言を非難するばかりで、冷静に事実に即した議論をしようとしなかった」と論じ、原爆の悲劇を招いたそもそもの原因は「日本の政治指導者らの終戦工作の失敗に」あり、米国は「ソ連参戦前に早期に戦争を終わらせたいと考えていた」との久間氏の見方は「間違いではない」とし(軍事ジャーナリストの田岡氏らは、それは事実とは違っており「間違いだ」としている)、現在の日本が、北朝鮮に「核兵器を使わせないために米国の核抑止力を必要としている現実もある」との首相の発言も「当然のことだ」としている。米国の核抑止力のことについては、朝日も(7月2日付け社説で)「日本は米国の核の傘に守ってもらっている以上、政府の立場からすると核使用を完全には否定しきれない、そういう現実の壁があるのは確かだろう」と書いている。
 米国にとっては原爆のおかげで「100万人もの」(この数字には何の根拠もない)米兵の命を犠牲にせずに済んだとか、原爆が終戦をもたらし何百万人もの日本人の命が救われたとか(ジョセフ米核軍縮担当特使)、日本はソ連軍による北海道占領を免れたとか(久間氏)、現在の日本人も、米国の核抑止力のおかげで北朝鮮などの核攻撃を免れることができるなどと、いろんな言い方(原爆投下の理由付け・正当化・合理化)がされるが、これらは政治的戦略的発想に立つもので、被爆者・戦争被害者をはじめとする庶民の立場とはかけ離れた考え方である。
 原爆について議論する場合にいちばん肝心なのは、被爆者や犠牲になった無辜の市民の立場ではどうなのかということではないだろうか。
 犠牲になった広島市民14万人、長崎市民7万人の方々の立場から見れば、「100万人もの米兵」といい、「何百万人もの日本人」といい、彼らが生き残るためには何の罪もない我らの命を犠牲にしても「しょうがない」とは、「何を勝手なことを云っているのだ」「人の命を何だと思っているんだ」「犠牲にしても『しょうがない』命などあるものか」となるだろう。
 自分たちは何故犠牲にされなければならなかったのか、何の意味もなく殺されただけの話ではないかと。100万・何百万のためには14万、7万の犠牲は「しょうがない」とか、大多数のためには少数の犠牲はやむをえないなどということはあり得ないのであり、多数であれ少数であれ、無辜を犠牲にしていいわけはなく、一方のために他方は犠牲にされてもしかたがないなどということはあり得ないわけである。それでも「しょうがない」という言い分が通るのであれば、あの時もしも、広島市民14万人・長崎市民7万人のほうが生き残って「百万人の米兵」「何百万人もの日本人」のほうが犠牲になったとしても、広島・長崎市民から見れば、それは「しょうがない」ということになってしまうのではないか。
 当初、原爆の投下目標は広島・小倉・新潟・長崎の4ヶ所で、広島の次は小倉の予定だったのが、小倉上空が天候不良・視界不良のため急きょ近くの長崎に切り換えたといわれるが、それで結果的に助かった小倉市民は長崎市民の犠牲を「しょうがない」とは云えまい。
 原爆投下は前もって何の予告もなく、(市民に避難を呼びかけるビラはまかれたが、それは、なんと投下した後のこと)その犠牲はまったく悲惨極まりない犠牲なのであって、もしそのおかげでこっち(米兵や広島・長崎市民以外の日本人)の方が助かって生き残ることができたと思うのであれば、犠牲になった彼らに対して、ただただ申し訳ないと思わなければならないことなのであり、アメリカ政府には謝罪させずにはおかない非道極まりない犯罪行為だったのだ。それに対して『しょうがない』という言葉を口にした防衛大臣を非難するのは、どんなに冷静に考えても全く当たり前のことではないか。
 読売の社説は、そのような広島・長崎の原爆犠牲者・被爆者やそれ以外の無辜の戦争犠牲者の立場からは全くかけ離れたものと言わざるを得ない。原爆を投下し、今もって「抑止力」と称して何千発という世界最大量の核兵器を保有し続ける国と、かの国から守ってもらっていると思っている我が国政府(安倍政権)に寄り添った書き方をしているのだ。
 議論は、事実にそくして行なうのは勿論であるが、被爆者・犠牲者の立場の立って論ずるべきなのである。
 政治家も、新聞も、いったい誰の立場に立っているのか、庶民の立場に立っているのか否かで評価・判断しなければならない、とつくづく思う。
4、歴史認識
 歴史における天災地変以外の戦乱その他人災によるあらゆる無辜の犠牲者・被害者に対しては「しょうがない」などという言葉はあり得ないわけである。
 歴史には明暗、光と影、泰平と動乱、栄光と悲惨、美しいところ、醜いところがある。
その歴史認識には、国家指導者や支配層の立場に立った認識と、庶民の立場に立った認識の二つの立場が分かれる。
 国の権力者や支配層にとっては、自らの歴史を栄光と誉れの歴史として描きたがり、国家の恥部や暗部にはとかく蓋をし、合理化し、当時はそれも「やむをえなかったのだ」として済ませたがる。そして、歴史教科書も、「我が国の戦争は自存自衛のためにやむをえなかった」としたり、「従軍慰安婦」とか「南京大虐殺」とか、沖縄の「集団自決」など、教科書からカットするか、「軍の関与・強制」は書き込まないことにしたり、記述を薄める、といったことが行なわれている。
 しかし、それらは、庶民(とりわけ国内外の犠牲者・被害者その遺族)の立場からすれば、「やむをえなかった」で済まされることではないわけであり、「そこに軍や政府の間違いは本当に無かったのか、どうしてそれを避けられなかったのか、その実態、その原因をすべて明らかにして、二度と再び同様な事態が繰り返されることのないようにしなければならない」ということで、民衆のあらゆる苦難・悲惨の実態を取り上げて詳しく見ようとするのは当たり前のことであり、それを「自虐史だ」などと非難するほうがおかしいわけである。
 歴史認識が問題となっているのは、かつて為政者とそれに付き従った者たちが自国民あるいは他国民に対して行なったこと(過ちや誤り)に後継(子孫)の為政者その他の者たちが責任を引き継いで、それを果たさなければならないという責任をともなっているからである。現在の為政者(首相をはじめとする政府・与党の政治家)は謝罪・賠償(今なおそれが必要とされているのならば、それ)を果たすことと、かかる過誤を再び繰り返さないという責任、そして国民は自分たちの政府に対してその過誤を繰り返させないという責任(民族的責任)を負うのである。とりわけ民主主義(国民主権)が実現している国では国民の責任が問われる。
 前ローマ法王(ヨハネ・パウロ2世)は2003年3月「ローマ教会が過去2,000年の歴史の中でユダヤ人・イスラム教徒・女性・先住民に対して侵した罪について心から許しを請い願う」という懺悔・謝罪演説を行なった。2001年9月国連人権委員会主催の「人種差別反対世界会議」で、アフリカとカリブ海諸国が15~19世紀奴隷制度と植民地制度で利益を得た国(欧米諸国)に対して謝罪を求め、一部の国は金銭的補償を主張した。(オランダは補償にも応じている。)何世紀も前のことなのに、現在の子孫に対して「歴史の過ちに対する責任を果たすべきだ」というわけである。奴隷制はアメリカではリンカーン大統領当時廃止されているが、今年の2~3月にはバージニア州とメリーランド州の議会で奴隷制に対する「遺憾の意」表明決議を行なっている。太平洋戦争中、米国内で日系アメリカ人・日本人移民を強制収容所に収監したことに対して、(日系人らの求めに応じてだが)1988年米国議会は謝罪と補償を定めた「戦時市民強制収容補償法」を可決し、大統領(レーガン)は署名をしているのである。
 このように歴史の過ちに対して現代の為政者や国民が責任を感じ、責任を負おうとするのである。
 日本国民は憲法に(前文で)「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」、(9条で)国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権は認めないことを誓ったのである。戦争に対する我が国の為政者および我々国民の歴史認識には、このような世界の諸国民(とりわけアジア諸国民その他交戦した国々の国民)に対する責任がかかっているのである。その責任を抜き去って改憲してしまい、あとは(「戦争の惨禍に対する如何なる責任か、その責任の所在は」など)歴史家の判断に任せるというのでは無責任もこの上ないわけである

 拉致問題は、被害者たちにとっては「従軍慰安婦」「強制連行」と共通する国家犯罪である(一方は北朝鮮による、他方は日本による)。
 ところが、政治家や政治団体の中には、それによって国民の相手国に対する敵対感情をかきたて、ナショナリズム(国家主義)や愛国主義を煽って、国民の日頃の不満・うっぷんを外に向けさせるのに利用している向きがある(「フリーターの人が『今まで愛国で自分をごまかしていたけれど、これからは使い捨て労働力である自分を認めます』というのも聞きます」―雨宮処凛)。
 従軍慰安婦問題については、日本のメディアは、NHKが01年に番組(「ETV2001、問われる戦時性暴力」)を企画したが、現首相の安倍氏らの意見をNHK幹部が「忖度し」(おもんぱかって)放送された時は、元慰安婦の証言その他が無残にカットされていた、ということが問題になったが、それ以来、従軍慰安婦問題は、歴史教科書から消えたのと同様に、テレビ番組からも消えるようになった。
 アメリカの主要メディアの中には(ワシントン・ポスト紙など)、日本政府は「拉致問題には熱心でも、従軍慰安婦問題には目をつむっている」と指摘する向きがある。
 拉致問題など、それらは普遍的な人権問題なのであり、被害者の立場に立つならば、どの国の国民であれ、人間であるかぎり、許しがたい非道・無法行為として糾弾せずにはいられないことであり、それをさせた国の政府に抗議し、謝罪を求めるのは当然のこと。それは広島・長崎の原爆、南京大虐殺・従軍慰安婦・強制連行(強制労働)も同じことである。それを、拉致問題は現在進行形だが、「従軍慰安婦」も「広島・長崎」も「南京」も、過去のことだからといって「しょうがない」では済まないわけである。未だ生きている被害者本人も遺族もいるのである。
 日本の首相が南京に慰霊に訪れたことは未だないし、アメリカ大統領が広島・長崎を訪れたことも未だにない。アメリカ市民には、「原爆のおかげで戦争を早く終わらせることができ、100万人もの米兵の命が救われた」などというウソ・思い込みは払いのけてもらわなければならないのである。
 アメリカ議会が従軍慰安婦問題で日本政府に対して公式に謝罪するように求める決議を行なったが、被害者の身になって思う庶民ならば、それに反発したりはしないだろう。しかし、それはそれとして(アメリカ議会の従軍慰安婦問題決議に対する対抗的な意味からではなく)日本の国会も広島・長崎に原爆投下したアメリカに対して謝罪要求決議をおこなって然るべきなのである。
 我が国は政府も国会も未だかつてアメリカに対して原爆投下の謝罪を求めたことは一度たりともないのである。

 我が国の首相は、(安倍首相も)国会質問への答弁などで、よく、近代以降の我が国の対外戦争は侵略戦争であったか否かなどの評価・判断は「歴史家に任せるべきだ」という言い方をして質問をかわしている。戦争や植民地支配における被害・加害事実の認定、それは謝罪・補償・再発の防止などの責任をともなうが、そういう(「歴史家の判断に任せる」などという)言い方をして判断(事実認定)を先送りして、戦後60年も経つのに未だに曖昧にし、果たすべき責任をきちんと果たそうとしていないのだ(被害者たちは、補償はもとより謝罪も正式には未だに受けていないと思っている)。
 東京裁判(極東国際軍事裁判)では「侵略」と断定され、サンフランシスコ条約・日韓基本条約・日中共同声明などで賠償は政府間では各国とも請求権は放棄して決着したかたちになっている(国際法解釈では「国家間で決着しても、個人の補償請求権は消滅しない」とされているが)。しかし、安倍首相などは、この東京裁判は戦勝国による一方的な裁判だとして、そこでの「侵略」認定などに承服してはいないのだ。
 1995年、戦後50周年に当たって、当時の村山首相(社会党の党首、自民党との連立内閣)は「我が国は・・・・国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。・・・・疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、・・・・痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」と内外に表明した。その後、歴代の首相はこの「村山談話」を継承し、小泉前首相も安倍首相もこれを「継承する」と(表向きには)言明してはいるものの、本心ではそうは思っていないのだ。安倍首相は、村山談話とともに当時おこなわれた終戦50周年国会決議(植民地支配や侵略行為に反省の念を表明)には欠席し、97年には、「自虐史観に侵された偏向教育」の是正をめざすということで「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げたりもしてきているのである。
 A級戦犯を合祀している靖国神社への参拝にも熱心だったが、首相就任の直前からは「参拝するとも、しないとも云わないことにする」という態度をとっている。
 このような安倍首相の歴史認識は、いったい誰の立場に立っているのか。それはわかりきったことかもしれないが、祖父(岸信介、東条内閣の閣僚に加わり、A級戦犯容疑者として逮捕されたが東京裁判には不起訴となり、政界に復帰して自民党を立ち上げ、首相となって日米安保条約「改正」を果たした権力者)の立場に立っており、戦争の被害者(犠牲者―日本人310万人、アジア全体で2,000万人)である庶民の立場とは、はるかにかけ離れているのである。

 というふうに私は考え、政党・候補者も首相その他の政治家もテレビ・新聞・雑誌も、その言説は、いったい誰の立場に立って論じられているのか、庶民の立場に立っているのか否か、という、そこのところで評価・判断することにしている。



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