米沢 長南の声なき声


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安倍首相の靖国参拝
2013年12月27日

 安倍首相が靖国を参拝した。
 以下は、このH・Pに以前(小泉首相当時)、書いた(「新聞に載らない投稿」欄の「過去の分」に載っている)もの。
靖国・首相参拝の客観的意味
 「『靖国』は心のよりどころ」「戦争指導者は裁かれても犯罪者にはあらず」「ひたすら御霊の安らぐことを」とか、「心ならずも戦場に赴き、亡くなられた方への哀悼の誠を捧げ、不戦の誓いをする」とか、人それぞれの思いはあろう。しかし、靖国神社に参拝するとなると、それには客観的な格別の意味が付け加わる。その神社の客観的な歴史的役割からみて、また現在の神社当局が公表しているところから見ても、そこは、我が国の近代以降の対外戦争はすべて正当だとしてその戦死者を讃え祀る顕彰施設なのだ、ということ。そこを首相が参拝するということは、主観的にはどうあれ、それは、かの戦争を肯定し、戦犯までも讃えて敬意と感謝を表することを、日本の国家が認めることを意味する。
 日本軍によってむごい殺され方をした被害者の遺族たちの心は、それによって傷つき、耐え難いものとなるだろう。
参拝で被害諸国民の「心」は?
 首相は靖国参拝を、「私の信条から発する参拝」「他の国が干渉すべきことではない」と言われる。 しかし、同神社は単なる追悼施設ではなく、戦死を讃える顕彰施設なのです。神社の当事者は我が国の近代以降の対外戦争をすべて正当なものとし、戦犯裁判の判決を不当としてA級戦犯の合祀を正当化しているのです。そこへ参拝することは、客観的には、侵略の加害責任を否定することを意味します。侵略され多くが殺された被害諸国民から見れば、動員され命令に従っただけの一般の戦死者をその遺族や戦友がそれぞれの思いで参拝する分には目をつむっても、そこに首相が参拝するとなると、それは、日本の国家として、侵略の推進者・加担者を免罪・容認するものと見なされ、道義にもとる非礼この上もない行為として看過できず、苦情を訴えてくるのはむしろ当然ということになるでしょう。
 参拝は「心の問題」といって、自分の心は晴れるのかもしれないが、それで傷つく被害国の遺族の方々の心はどうなるのでしょうか。被害国民にたいして「反省とお詫び」を口では言っても、心の中でベロを出していると受け取られざるをえないでしょう。
首相参拝には、やはり配慮を
 私の父は復員してどうにか帰ってきましたが、4人の叔父が戦死しました。
 しかし国の内外には、靖国には祀られていない数多くの戦没者がおられるのだということです。戦災にあわれて亡くなられ、国から遺族年金など補償は一切なく、お悔み一つとしてもらっていない方々は沢山おられます。それに日本軍から侵略されたアジア諸国には遙かに多くの犠牲者がおられるのです。その遺族たちは、日本の首相に、何をさしおいてもその国へ追悼に来てほしいと思っているのでは。その方々のことも考えるべきなのではないでしょうか。
大陸へも追悼慰霊に
 戦没者追悼は、自国内で自国民にたいしてだけでなく、海外で、自国民のみならず他国民にたいしても行うべきだろうと思うのです。
 小泉首相は、過日、現職首相としては初めて硫黄島を訪れ、慰霊碑に手を合わせてこられた。
 また、天皇・皇后両陛下も初めてサイパンへ慰霊に行ってこられた。両陛下は、これまで硫黄島・沖縄・広島・長崎、そして大空襲のあった東京へと赴かれ、それは「慰霊の旅」と称されている。サイパン島には日本と現地政府が合同で建てた戦没者慰霊碑があり、慰霊の対象は中部太平洋海域で戦没した人々で、国籍は限定されていない。この碑の他に、両陛下は現地島民・米軍人・沖縄県出身者・韓国人それぞれの碑を回って慰霊してこられたという。(この両陛下は靖国参拝には一回も訪れていない。)
 それにつけても、戦没者が圧倒的に多いのは中国です。首相は、そこへも慰霊に行ってきてくれればよいものを、と思わずにはいられません。
 (もうずっと前に、ドイツのブラント首相がポーランドを訪れてそうしたように)日本の首相が、そこへ行って碑の前でひざまずき頭を垂れてくる、といったようなことを一回ぐらいやってきてもおかしくないのでは。
●靖国を訪れての感想
 神社付設の博物館(遊就館)には、一人一人の遺影、軍人たちの遺品、特攻兵器の実物、史資料が展示され、映像が流され、日本が行なった戦争が解説されていた。私には、戦死した叔父たちのことを思い、悲しくも痛ましいという思いの方が先だった。それに、そこで思ったのは、ここでは度外視されている、おびただしい数の犠牲者たちの悲惨である。ここを訪ねる者は人によって思いは様々であろう。しかし、この神社自体は日本の戦争をすべて肯定し、その前提の上に立って、そのために「命を捧げた」将兵それに戦争責任者も全て英霊として讃え祀っているのである。
 首相をはじめ公人には、個人的な「心の問題」だけでは済まない、諸国の犠牲者たちに対する配慮と憲法(政教分離原則)の厳守が求められるのは当然であろう。
 尚、見学者が感想を書き込むノートが置いてあって、その中に次のような意味の書き込みがあった。「英霊たちのおかげで今があるとよく言われるが、彼らはあくまで日本が勝つ為に戦ったのだ。ところが戦争は負けた。現在に至るまでの日本の平和と繁栄は、むしろ敗戦のおかげなのではないか」と。なるほど―もし勝っていたら、日本はどうなっていただろう。

 そこで今回の安倍首相の靖国参拝のもつ意味
①「日本会議」などの支持母体からの(「靖国に行け」との)後押しのもとに、(これまで行けなかったのは「痛恨の極み」だった)かねてよりの信念(自分の思い・執念)をやってのける―国益より信念を優先―中国や韓国など隣国との関係修復を投げだして敵に追いやり、アメリカからも「失望」を招いて、国際的に孤立しかねないことに。(今年10月、来日中のケリー国務長官とヘーゲル国防長官はそろって千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れて献花。そこから500mの靖国神社には行かなかった)。
②中国・韓国に対しては居直り・挑発とも受け取られる―9月国連総会への出席のために訪れたニューヨークで、「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら、どうぞ呼んでいただきたい」と。
 参拝を終えた当日の午後、参院議員会館で開かれた秘密法反対集会の主催者の一人(32歳、編集業)いわく、「まさに中国・韓国への挑発、その反発を利用して外に敵をつくり、国内の秘密保護法などへの批判を封じ込めようとしているのではないか」と。
 NGO日本国際ボランティアセンター代表理事の谷山博史氏は「安倍首相の靖国参拝は『挑発的』に見える」と。
③「不戦の誓いをした」、「中国・韓国の人々の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」というが、そこ(靖国神社)は単なる宗教施設ではなく、戦前・戦中、陸海軍が管理し、戦争に国民を動員して武勲を顕彰する(ほめ讃える)ための施設で、戦後もそれらの(諸国から侵略戦争と見なされている)戦争を(「自存自衛・アジア解放」のための戦争だと)肯定・美化する宣伝センターの役割を果たしてきた特殊な施設なのであって、「不戦の誓い」には最も相応しくない場所。
 また「不戦」を口にしながら、やっていることは戦争に備えて「日本版NSC」(戦争司令塔)の設置、秘密法の制定、国家安全保障戦略、新防衛大綱など次々策定・決定し、集団的自衛権の行使容認(憲法の「戦争放棄」条項の実質放棄)に向かっている、その言行不一致。
 それは中国や韓国など諸国民から見れば、逆なでする行為と受け取られざるを得まい。
④昭和天皇はA級戦犯が合祀されて以降は参拝せず(天皇いわく「或る時に、A級が合祀され<中略>だから私<は>あれ以来参拝していない、それが私の心だ」と―富田宮内庁長官のメモ)、現在の天皇も即位後一度も参拝していない。
 多くの日本国民から見ても、首相の参拝は独善的で違和感と不安を与えるもので、その行為に正当性があるとは到底思われまい。


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