米沢 長南の声なき声


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我が国の安全保障政策はどうあるべきか―力か信頼か(再加筆版)
2014年05月01日

(1)国家安全保障か国民の平和的生存権保障か
  「国を守る」とか「国防」とか「安全保障」とか言うが、国家の論理(「個別的自衛権も集団的自衛権も自衛権は自国の存立を全うするために国際法上認められている国家固有の権利」)に基づく「国家安全保障」と国民の論理に基づく「国民の平和的安全保障の保障」とがある。戦争では前者のために後者が犠牲にされることもある(指導部や部隊を守るため、市民・住民が犠牲にされるなど)。
  国民にとって大事なのは国民の平和的生存権(平和で安全な環境のなかで生存する権利)を保障することだろう。(「国の存立を全うするための自衛権」などといった国家本位の視点ではなく、国民一人ひとり、或いは諸国民の平和的生存権という視点。)(尚、2008年4月の名古屋高裁判決では平和的生存権は全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるとして次のように定義している。それは「戦争と軍備及び戦争準備によって破壊されたり侵害ないし抑制されることなく、恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存し、また、そのように平和な国と世界をつくり出していくことのできる核時代の自然権的本質を持つ基本的人権である」と。)
 国家の存立目的は国民が平和で安全に生活・生業を営めるようにすることにある。国家の在り様は国民の命運を決定的に左右する存在であり、国家(政府機関・警察・裁判所など)は国民にとって有用な手段としてなくてはならない存在ではあるが、国民がそのために(「お国のため」と)その平和的生存権や人権が犠牲を強いられるのでは本末転倒。国民にとっては国家はあくまで(国民の平和的生存権・人権を守るための)手段なのであって目的ではない。「国を守る」といっても、国民が国家を守る(国民に国家防衛義務がある)のではなく、国家のほうが国民を守らなければならないのであって、国家は国民(一人ひとり)の平和的生存権や人権を他国あるいは他の自国民の侵害から守るのと同時に、国家(政府)自らが国民の平和的生存権や人権を犯す結果となるような政策や措置を執ったりしてはならないのである。
 平和的生存権は自国民のもならず世界の諸国民に保障すべき最重要の人権であり、戦争は最大の人権侵害なのであって、国民は国家に戦争をさせてはならないのである。

(2)安全保障の2つの相異なるやり方
①イデオロギーや利害が対立する国に対して対抗力(軍事力)を強めること(軍備強化)による安全保障。
 領土問題など係争問題は軍事力を背景とする外交力によって自らに有利に解決。いざとなったら戦争で決着(それで決着がつけられるような生やさしい時代ではなくなっているのに)。
 軍備は他国からの攻撃抑止のためで、実際戦争するつもりにはしていないとは言っても、戦争を想定しての「抑止力」であり、戦争覚悟を前提にしている。戦争は命の大量犠牲・破壊を伴い、平和的生存権とは相容れないもの。
 軍備強化は他国(対立する相手国)による攻撃を抑止するための「抑止力」と称するが、他国・相手国も自国の軍備強化を「抑止力」と称して正当化→軍備競争となる。
 軍備は他国・相手国は敵対していずれ攻撃してくるかもしれないからという不信(それが信頼関係の妨げになること)を前提。軍備はいざという時には(相手が攻撃してきたら)使うことを前提(単なる「張子の虎」では済まない)のである。使えば(軍事衝突→戦争)大惨害にいたる。その覚悟(最悪の事態想定)が必要。
 なのにそれを、そんなことはあり得ないと高をくくり、強大な軍備があれば安全は保障されると信じ込むとすれば、それは「安全神話」。(圧倒的な軍備・軍事力を持つアメリカはベトナム・アフガン・イラクで失敗を重ね、戦争を泥沼化させ、かえって惨害を大きくしてきた。アフガン・イラクは未だに収拾がついておらず、帰還米兵の3分の1(60万人)はPTSD・心的外傷後ストレス障害で一日平均22人が自殺。イラクの「非戦闘地域」に派遣された日本の自衛隊員も帰還後1~3割が精神不調、28人が自殺。)
 北朝鮮などに対しては自衛隊・日米同盟・集団的自衛権行使容認など軍備を強化しておけば、北朝鮮は手も足も出ず、暴発しても反撃・撃破できるし、あっさり片が付き、国民の平和的生存権は回復・保持できる、などといっても、はたしてそんなに簡単に?

②どの国も敵視せず、敵にまわさず、敵をつくらず信頼関係を築き、ルールを守り、対話・友好協力・交流によって安全保障。
(係争問題は外交交渉によってウイン・ウインで解決)
 攻撃抑止(予防)の最善の方法は軍備を持たないこと(軍備を持つから攻撃されるのであって、軍備を持たなければ攻撃されない)。軍備を持たなければ、隣国に安心感を与え信頼関係を築ける。
 「他国から侵略されて現実に国民の生命や財産が脅かされているときも何もしないのか?」といえば、それは国家のあらゆる手段・あらゆる方法・あらゆる機関(領海・領空警備警察力など)を動員し、国際機関、諸国の支援協力を得て阻止することに努めるのは当然のことであるが、戦争だけはしないということなのである。

 ①と②とでどっちがユートピア的(非現実的)か?どっちが「平和ボケ」(戦争の実態・悲惨さを知らない)か?どっちが戦争が起こる心配がなく平和・安全でいられるか?だ。

(3)安倍政権の安全保障のやり方
 どちらかといえば①で軍事偏重(「積極的平和主義」とは言葉のレトリックで、実質は米軍を補完する自衛隊の軍事力を背景とするアジア・太平洋、インド洋・中東・アフリカその他諸地域への積極的な関与政策)
  軍事依存―自衛隊・日米同盟の強化を背景に中国・北朝鮮に対抗、その他の諸国とは連携強化して「中国・北朝鮮包囲網」を策す。
         軍備は世界第5位 
  中国・北朝鮮に対して(韓国に対しても)信頼関係を築くことには消極的(不熱心―不信をかう原因を除去しようとはせず、それを相手のせいにする)。
    対話を(「扉はいつでも開いている」などと)呼びかけはしても、相手は不信感をもち、それに応じない。その不信感を招いている原因(尖閣の領有権問題は先方が日本側の実効支配を認めつつも「棚上げ」としてきたものを日本政府が一方的に国有化し「日中間に領土問題は存在しない」と言って交渉を突っぱねていることや、先方が靖国神社は中国・アジア各地をじゅうりんした侵略戦争を正当化し、戦争指導者「A級戦犯」を合祀しているところなのに、そこへ首相や閣僚が参拝していること等の不信の原因)を除去しようとはせずに、むしろ対立を助長(アメリカ大統領からたしなめられている)。
 安倍政権が今おし進めている軍事強化(自衛隊と日米同盟の強化、集団的自衛権の行使容認など)は国民の平和的生存権を守るというよりは、むしろ危うくするもの。

(4)我が国はどの安全保障のやり方をとるべきか
 憲法―日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意し」、国に戦力を持たせず、交戦権を認めず、戦争をさせないことを定めている―我が国の安全保障はこれに基づく。(安倍首相は「平和を愛する諸国民」には北朝鮮も入っている。そんなバカな話はない」、他国民の信義に期待するような憲法では国民の生存や安全は守れず、拉致事件を招いたと言っているが、戦前・戦後の歴史的経緯を振り返れば、日本の植民地支配、強制連行・従軍慰安婦などがあり、それらの清算は日本は未だにつけておらず、相手側から見れば日本の側にも信義が疑われるところを残しており、北朝鮮国民の信義など期待するほうがバカだと一方的に決めつけられるものでもあるまい。海上保安庁・警察・自衛隊それに米軍基地まで置いていて、それでも拉致を防げなかったのを、自民党案の憲法なら防げたというのだろうか。)
 要するに諸国民に対する信義と信頼に基づく政府間・市民間の外交・交流よる安全保障。

 そこで最も必要なのことは― 諸国民・隣国民に対して尊敬(相手の立場を尊重)・理解(相手の立場・心をよく知ること)、過去に行ったことに対して謙虚に反省(自分の非は率直に認める)―それらが信頼を得るには不可欠。
 慎まなければならないこと
     ①自慢・自尊(うぬぼれ)、自分を誇示すること、自己弁護(自分の非を認めず正当化―自分の非を真摯に取り上げ、率直に自己批判すると「自虐だ」と非難する)―「日本はいいこともした」「(植民地支配で)その国の発展の土台をつくった」「向こうにも責任がある」などと
     ②独善―靖国参拝をして「国の為に命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げるのは当然のことだ」としか言わない―問題はそこ(自国の戦争を正当化し、それに命を捧げた軍人をA級戦犯たちをも合わせて祀っている神社)がそれに(公正な追悼施設として)相応しいところなのかが問題なのであり、本音では「あの戦争は正当な戦争であり、戦犯たちも誰も悪くはないのだ」と思っているからこそ参拝したのだということを言い逃れている。
     ③卑屈―こびへつらい(調子よく合わせたり、おもねる)
   これらは相手の神経を逆なで、不信をかう元になる
      自尊・自己愛・愛国・プライド、その裏返しの屈辱感はどの国民にもある自然の情で、相手も同じ。互いにそれにこだわり、自己主張すればぶつかるし、相手の感情を無視した一方的な強弁は反感を招く。特に加害側が被害側に対して強弁すればことさら反感を招く。傷の痛み加害側は忘れていがちだが、被害側は忘れないのだから。それだけに加害側は慎まなければならない。

  歴史問題:韓国併合・慰安婦・創氏改名・強制連行・伊藤博文と安重根
       日清・日露戦争・対華21ヵ条要求・五四運動・柳条湖事件・盧溝橋事件
       南京虐殺・三光作戦
       教育勅語・靖国神社・治安維持法・

      これらに対する認識・・・・歴史教育のあり方が問題

(5)信頼関係を築くには
 歴史認識・価値観の共有を追求し、共通利益(ウイン・ウイン)を追求すること。
 (元駐韓大使の小倉和夫氏の提言に「日中・日韓関係どう打開―自国の歴史見つめる勇気―人権じゅうりんの教訓導いてこそ、価値観共有できる」と。)
 日中・日韓の間で(日米の間でも)近現代史(戦前・戦中)の歴史認識・政治的価値観は一致点共有を追求すべきか、それとも相違点で対決・いがみ合いを続けるか。
 同じ日本人でも、戦前・戦中の世代と戦後世代・若者で歴史認識・価値観にギャップがあるが、一致点共有(ギャップを埋めること)を追求すべきか、それとも人それぞれ立場によって認識の相違があり、世代間ギャップがあるのはやむなしか。
 ①日本による侵略と植民地支配について(それぞれの国民・世代・若者はその実態をどれだけ知っているか)
 ②日本国内に暗黒時代があって、治安維持法などによって自由・人権・反体制運動の激しい弾圧があったことについて(それぞれの国民・世代・若者はその実態をどれだけ死っているか)
 その実態をよく知ること(歴史から謙虚に学ぶ)―知れば(学べば)歴史問題の共通理解はできるはずであり、それぞれの反省・教訓の上に立って、自由・人権・民主主義・平和主義・反軍国主義など価値観の共有も不可能ではないはず。追求すべきは相互理解、歴史認識と価値観の共有、共通利益であって、そうしてこそ信頼関係が築けるというもの。
 安全保障はその信頼関係構築によって成立するのであって、中国・北朝鮮などとの価値観の相違を強調し、それらの国以外の「価値観を共有する国どうし」で仲間をなして経済的・軍事的に対抗(「対中包囲」)するというやりかたではとても危く、けっして安全保障にはなるまい。
                                                        


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