米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


どうして賛成か、反対か―心情から(I)
2006年05月25日

(1)論理と情緒
数学者の藤原正彦氏(「国家の品格」の著者)によれば、どんなことでも賛成・反対双方それぞれに、それを正当化する論理(言い分・理屈)があり、どんな戦争にも、敵対する双方それぞれに、自らの戦いを正当化する論理があるものだ、という。

そして、その論理に先だって、それら(賛成・反対・敵対)を最初に動機づけるものは情緒である。藤原氏によれば、論理の(「Aであるが故にB、Bであるが故にC、Cであるが故にD、・・・・・Yであるが故にZ」といったような)展開には出発点(Aという仮説)の選択が必要であり、その選択は何によっておこなわれるのかといえば、それはその人の情緒(によって選択されるということ)にほかならない。

そういえば、私はこのホームページに改憲問題など様々論じ、それぞれ私なりに(オリジナルな)論理を考え出し、或は(諸説の中から都合のよい)論理を選んで私の考えを論じてきたが、それは、これらの問題にたいする私の思い―情緒(情念・心情)―があるからにほかならないわけである。

論理は「自己正当化の便利な道具」、レトリック(巧妙な言い回し)や詭弁(屁理屈)もあり、他から借りてきたり、取りつくろえる(アレンジを加えることができる)ものだが、情緒は「本当の気持」つまり本音である。

 人を行動にかりたてる原動力は欲求であるが、その行動が適切かどうかを判断したり、行動を正当化する論理を考え出すのは理性・思考能力であって、その行動とそれを正当化する論理がはたして望ましいものかどうかを判断するのは「情緒力」だということである。藤原氏によれば、その「情緒力」には、伝統的精神(「大和心」とか「武士道精神」とか、道徳心あるいは宗教心)なども含まれ、総合判断力となるものだ、とのことであるが、その(総合力の)中には、その人の人生観・世界観・価値観といったものも含まれるのではないかと思われる。

それら情緒や人生観・価値観はその人の生まれ合わせ、境遇、育ち、人との出会い、生活経験、社会経験、利害関係といった様々な要因から生成され身についていくものと思われる。

(2)小泉氏らと当方の違い

小泉氏や安倍氏などの場合、その生まれ育ちを見ると、彼らの祖父はいずれも、大臣をつとめた政治家。小泉氏の祖父は逓信大臣(「電信電話設備の民営化」に取り組んだが、果たせなかった)、終戦時は貴族院議員で公職追放の憂き目にあっている。安倍氏の祖父(岸信介)は東条内閣のメンバーでA級戦犯容疑者の一人であったが、釈放され、その後政治家に復帰したあげく、再び権力の座に返り咲いて首相となり、日米安保条約改定を強行した(現在の安保条約、大反対を押し切って国会で強行採決)。父親たちも、ともに閣僚となった有力政治家。

小泉氏は一浪して慶応大学に入り、1年留年して卒業後、ロンドン大学に遊学、父病死で帰国後、国会議員に立候補して初回は落選したものの、その後は連続当選。当初2年間は不動産会社にも在籍(勤務実態はない、にもかかわらず厚生年金に加入)。政界の「勝ち組」でもトップの座に登りつめて5年になる。

 それにひきかえ、小泉氏より1才年上の当方の場合は、祖父は憲兵をしていたが、除隊後は村会議員に落選し、行商をして祖母と二人借家暮らしをしていた。父は警察官で転勤を重ね、兵隊に召集されたが終戦で復帰。町の警察署長をしていた。

 私は日中戦争のさなかに生まれて、その翌年太平洋戦争が始まり、それらの戦争が終わるまでの間幼児期を過ごした。終戦の翌年小学校に入学し「新教育」を受けるようになった。父が転勤する度に転校したが、中学2年の時父は病死、その後は遺族年金と母子福祉で暮らした。日本育英会から奨学金をもらって大学に入り、卒業して教職についたので、奨学金返還は免除。転勤のない私学の教員だったので定年まで同じ学校に在職。そこを退職し、年金生活をはじめて5年になる。

このような私と、小泉氏や安倍氏のような人間とでは、世界観・価値観はもとより、情緒(心情)の持ち方はよほど違うだろう。彼らは同じ日本人ではあっても我々などからは遠くかけ離れ、むしろアメリカ人(の「勝ち組」)に近く、ブッシュ氏とは余程うまが合っているようだ。

 私の場合は、きまじめというわけではないが、嘘・ごまかしはどうも苦手。競争や順番を争ったりするのが嫌いで、勝つのも負けるのも嫌。喧嘩はしたが、弱い者とはしない。恵まれない者・弱い者・弱いチーム・弱い国そして弱そうに見える日本人を応援したがる。相手や他の者に対して自分の方が上だと云わんばかりに振舞う国や人間は大嫌い。金儲けや金貯めは苦手で嫌い。ギャンブルも嫌い。オカルト(超常現象)や超能力など迷信が嫌い。形式・儀式ばったことも嫌い。洋画・洋楽を好み、プレスリーやゲーリー=クーパーにあこがれる(この点だけは小泉氏と趣味が合うみたい)。・・・・・・・・・・・・・・・・・といったような情緒(心情・感覚)の持ち主なのかなあと自分のことを思ったりしている。

(3)改憲派と護憲派の心情

 藤原氏は、市場原理主義・金銭至上主義にたつ「構造改革」は武士道精神―惻隠の情(他人の不幸を見過ごすことのできない哀れみの心、敗者・弱者への共感といたわりなど)や卑怯を憎む心など―にもとるものと批判し、それらは「国家の品格」を貶めるものだとして、その論理を「亡国総理のお粗末な論理」(月刊「現代」4月号)とこきおろしているが、この私も小泉政治に反対なのは、まずは私の心情からなのだろう。

 小泉氏は「格差は必ずしも悪いとは思わない」といい、むしろ「成功者をねたみ、能力のある者の足を引っ張るような風潮は慎むべきだ」という。そのような彼の情緒(物の感じ方)に対して、私の情緒は反発するのである。能力や条件に恵まれない者は、いくら頑張っても、好きな職にも、安定した職にも就けず、カネも時間も余裕がなく、結婚することも、子どもを養い育てることもままならず、将来不安にさいなまれている多くの若者や中高年がいることに心の痛みを感じないのか、と。

 以下、改憲派と護憲派の心情は、それぞれどんなものか考えてみたい。

(4)改憲派の心情

改憲派のばあいは、過去の戦争について、それらの戦争には無謀なところもあったかもしれないが、やむをえない開戦であったと信じている向きが少なくない。(日清戦争以来のいずれの戦争も、海外に大軍をくり出し他国の領土に奥深く攻めいって各地を占領・支配し、資源や食料・物資を掠奪、日中戦争~太平洋戦争では中国人その他アジア全体で2000万人もの命を奪い、日本人310万人をも犠牲にした、にもかかわらずである。)

心ならずも戦争で命を無くした兵士たちを、そこへ彼らをかりたてた指導者たちとともに国のために命を捧げた英霊として讃え祀る神社に、なんの違和感も疑問も感じないで、当然のことのように参拝する。

 大日本帝国の国旗「日の丸」・国歌「君が代」を、大戦後国名を(「日本国」と)改名し憲法も国民主権に改めたのに、なおも国旗・国歌としていることに何の違和感も疑問も感じない。

 その憲法は戦争で負けたばかりに武装放棄とともに「押しつけられた」不当な憲法だと。

 次の詩は海軍将校で、戦後(1980年代後半)首相となった中曽根氏が50年代中頃に詠んだ「憲法改正の歌」である。

「一、嗚呼(ああ)戦いに打ち破れ、敵の軍隊進駐す、平和民主の名の下に、占領憲法強制し、祖国の解体計りたり、時は終戦6ヶ月
二、占領軍は命令す、若しこの憲法用いずば、天皇の地位請合わず、涙をのんで国民は国の前途を憂いつつ、マック(マッカーサー)憲法迎えたり」(愛敬浩二著「改憲問題」ちくま新書から。)

ここに改憲派の情緒が示されている。

(尚、この歌を引用した愛敬氏の著書には高見順の「敗戦日記」―憲法草案が出る数ヶ月前の1945年9月30日―の次のような文も引用されている。

「昨日、新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞並びに言論の自由に対する新措置の指令を下した。
これでもう何でも自由に書けるのである!これでもう何でも自由に出版できるのである!生まれて初めての自由!
 自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、―かえりみて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥ずかしい。
 戦いに負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分かるが、逆に自由を保障されたのである。・・(略)・・自国の政府が自国民を、――ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、そうした占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥ずかしいことだろう。」

ここには、同じ占領軍の新措置に対する感じ方でも、中曽根氏とは反対の感じ方・情緒が見られる。
 愛敬氏―名古屋大学院教授―は「ほとんどの日本国民が日本国憲法の制定を『涙をのんで』甘受したという想定は不合理であるし、事実無根である」としている。
 それはともかくとして、改憲派の中心人物の一人である中曽根氏自身は、当時本当に「涙をのんだ」のかもしれない。)

 改憲派、自民党の背後にはアメリカの意向があるということを見落としてはならない。そもそも改憲は、憲法施行1年後に、アメリカが、ソ連に対する戦略上、日本を再軍備させて、それを利用できるようにしたいという思惑から、マッカーサーの方から(吉田首相に書簡を送って)もちかけたものなのである。ただ、その時は、吉田首相は動かなかった。その後、朝鮮戦争が勃発して、講和条約・日米安保条約が締結され、自衛隊が発足して本格的に再軍備がおこなわれるようになり、自民党結成とともに初代総裁鳩山一郎が改憲を打ち出したのである。近年の改憲の動きの背後にも、日本国憲法における軍事制約条項(9条2項)の撤廃を求めて、それを後押しするアメリカの意向がある。

しかし改憲派は、大戦でいったんは「負け組」に転落した我が国にたいして、「勝ち組」の筆頭であるアメリカは、非軍事・民主憲法を「押しつけ」はしたものの、ソ連「共産主義」に対抗するためにと、米軍基地を置いて日本を守ってくれ、復興を援助してくれた大変ありがたい国であり、「自由で豊かな」憧れの国である、と。

一方、戦後教育については、改憲派たちの心情からすれば、(大日本帝国とともに)教育勅語も廃止されてしまったのは誠に遺憾。そこに掲げられた忠孝などの徳目はけっして間違ったものではなかった。それに代わって制定された教育基本法では、教育はどうも政府の思うようにコントロールしにくい。国民が、公(国)を重んじ、国家に忠誠心を持ち、自分にはどんなに辛い事があっても、国のために随順・協力するよう、児童・生徒に愛国心・公徳心を注入できるようなものに変えるべきだ。日本人であるかぎり、日本という国を愛し、天皇を崇敬し、国旗「日の丸」を仰ぎ、国歌「君が代」を愛唱するように徹底指導するのは当然のことだ、と。

彼ら改憲派には、天皇の国家に逆らうアカ(共産党)やサヨクは「非国民」で日本人ではない、という戦前からの情緒(感覚)が根強く染み付いているのである。

といったところが、中曽根氏・小泉氏・安倍氏ら改憲派の心情なのであり、本当の気持なのだろう。

(5)憲法制定当事者の心情

新憲法草案作成当時首相で、9条発案者ともいわれる幣原喜重郎は回想録に次のように述べている。

「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職についたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、外の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。・・・・よくアメリカの人が日本にやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私に関する限りそうじゃない。決して誰からも強いられたんじゃないのである。」(1950~51読売新聞記者の質問に答えてまとめた回想録『外交五十年』―岩波『世界』3月号から)

これは「押しつけ憲法論」を否定するものであるが、終戦直後二人目の首相となって日本国憲法制定に当たった幣原喜重郎という日本人の情緒(心情)から9条が発案されたことを示している。

(6)私の情緒の形成

戦争と平和にたいする私の情緒―感覚もしくは心情―はといえば、その生成をたどると、それは次のようなものである。

父は兵隊に行き、その留守の間、生まれて1年とたたずに死んでしまった弟の顔、防空壕の暗闇と爆音・閃光・空襲警報といった感覚的な記憶が、おぼろげながらも心に焼きついている。

内地(本土)に留まっていた父は終戦1ヶ月後に帰ってきて警察に復帰。父の義弟と母の兄弟の一人は戦死、一人はシベリアから、もう一人は満州から、しばらくたってから生きて帰ってきた。

町に米軍が進駐してきた。アメリカ兵がジープでやってくると、「ハロー!アメカラチャン!」といって手をのばした。チョコレートやビスケット。(それらを詰め込んだ束らしきものが)飛行機からもバラまかれた。赤・青・黄色のパラシュートがゆらりゆらりと落ちてくる、その空の明るさが目に焼き付いている。アメリカ兵が日本人のケバケバしい若い女(パンパンガール)をジープに乗せて街はずれにできた建物(慰安所)に通う姿がよく見かけられた。学校では先生方が夜にダンスを興じていたのか、教室の床にろうがぬられていたものだ。授業では「幸福の青い鳥、青い小鳥がやってきた、遠い国からはるばると、日本の空へこの窓へ、・・・、ヘレンケラーのおば様は、いつも小鳥といっしょです」という歌を皆で歌ったものだ。

ラジオでよく聞いた歌は「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台・・・・」「赤いリンゴに唇よせて黙ってみている青い空・・・・」「歌も楽しや東京キッド・・・・」「晴れた空、そよぐ風・・・・ああ、あこがれのハワイ航路」「若く明るい歌声に、雪崩も消える、花も咲く、青い山脈・・・・・」、悲しい歌としては「長崎の鐘」。

映画は「少年期」(戦時中の疎開生活を描いたもの)、「きけ、わだつみの声」(学徒兵の悲劇を描いたもの。戦争ごっこで「こんな戦争、いったい誰が始めたんだ、ウワー!」といって倒れる。そのセリフはこの映画の真似だった)、それに原爆映画の「原爆の子ら」、「この子を残して」などを見たことを覚えている。

サンフランシスコ講和会議のことを作文に書いた(「吉田首相が全権として出席し、演説をした・・・・・」ぐらいのことを書いただけの話だが)。

警察署の小遣いさんの息子が警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊し、制服を着て我が家(署長官舎)に挨拶に来たものだ。

一時期、毎朝ラジオから流れていた歌がある。それは新国民歌と称し「われら愛す・・・・この国を・・・・」というものだった。

横綱吉葉山、それに皇太子(現在の天皇)の肖像も水彩絵の具で描いたものだ。
 昭和天皇が当地を訪れた、その時は引率されて行って沿道で「日の丸」の小旗を振った。父はその警備に当たっていた。

当時、神町には駐留米軍がまだ残っていて、その射爆場に対して反対闘争が起こり、警官隊が出動、父もその中にいた。

映画は戦争悲劇の「ビルマの竪琴」、それに「ゴジラ」(アメリカがビキニ環礁で水爆実験をして日本漁船が被爆するという事件が起きて作られた「原子怪獣」の映画)も見たが、戦争映画でも痛快・活劇・スペクタクル映画がつくられるようになって、「独立愚連隊」、伴淳の「二等兵物語」、嵐勘十郎の「明治天皇と日露戦争」などを見たものだ。

大学入試を受かって、祖父からは「大学なんかに入ると共産党になるから入学は辞めろ」と云われたりしたが、入学した。すると安保闘争(日米安保条約めぐる全国的な政治対決)に遭遇し、連日デモ・学生集会に明け暮れる、といったことがあった。

映画は、それまでも戦争映画ばかり見ていたわけではなく、色んなものを見ているのだが、戦争映画だけに限っていえば、「人間の条件」(五味川純平原作)、ソ連映画の「誓いの休暇」・「人間の運命」といったいずれも戦争悲劇をリアルに描いたもの、それにチャップリンの「独裁者」(単なる喜劇ではない)なども見た。

教員になって、世界史・日本史・政経・倫理などの授業を受け持ち、戦争や憲法を教えた。その中でビデオ映画をよく見せたものだ。「西部戦線異状なし」「海軍特別年少兵」、特攻隊を描いた「雲流れる果てに」、名もなき一兵士の戦犯裁判を描いた「私は貝になりたい」など。ドキュメンタリーも盛んに見せた。NHKの「激動の記録」「映像でつづる昭和史」「映像の世紀」など。それに映画教室では「プラトーン」(ベトナム戦争を描いたもの)「南京1937」「プライベート・ライアン」(第二次大戦のヨーロッパ戦線の一こまを描いたもの)などを生徒と一緒に見た。

部活の合宿を、自衛隊の駐屯地の施設を借りてやったことが数回ある。自衛隊に就職した卒業生は何人もいる。定年まで勤めぬいて退職した者も一人いる。彼はその間一度たりとも敵と遭遇することはなかったはず。

ところで、私の幼児期、父が兵隊に行く時に母に渡して行った一冊のノートがある。その中に次のような文があった。

「余は、余の栄光の為、妻きよ、貞行、幸男、生まるる子の為日本勝利の日必ず生命を全ふし凱旋する日あるを確信す。
然るに決して生命惜しきに非ず、余の心境は今迄に書きたる漢詩・短歌にても知り得べし。・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
在郷中、子供等にしろ妻にしろ、父・夫の愛撫少なかりし如きなれど、余としては妻をよき妻、子供等をよき子にしたきばかりに斯くはむごきまでの仕打ちをせしなるべしと思ひ、よき妻、よき子、よき父再びあふ日を楽しみに心強く暮らし、父母、新庄の母・兄・姉・妹・弟等に愛される如く努められむことを望む。・・・・・・・(中略)・・・・・・・・。
貯金・保険等のことは、お前が警察に行けるなら次席さんと会って今後のことを頼むなり、船町の父から行って貰ふなりせよ。余も頼み行くべし。
空襲は必ずあるを思ひ、お前も子供も敵の弾にて犬死や怪我は絶対あるべからず。
留守中、三カ沢(祖母の実家)でも立谷沢(祖父の実家)でも落ち着いたなら駐在所に挨拶して庇護して貰うこともよし。絶対他人と喧嘩はしないこと。生まれる子は百十日もしたら写真を撮って、又皆で撮って送ってもらひたし。
・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
以上 此の原稿一冊は最愛なる妻きよに捧ぐものなり。此の一巻にて子供を教育すべし。両親には、お父さん、お母さん、帰ったらうんと親孝行致します、と言っていたと、後で伝えてください。余は戦死のこと等考えません。軍務を全ふすることだけです。
 叱りどうしにて愛をも見せず征で発つを憾むこと勿れ妻よ子よ         」 

 父は無事帰ってきて、亡くなったのは私の中学2年の時だが、これを母から見せられて読んだのは教員になってからのこと。これも授業で生徒に読み聞かせたものだ。

情緒(心情)というものは生活体験・人生体験(実体験に限らず、映画など疑似体験も含めた諸体験)のなかで、様々な思い―楽しい思い、辛い思い、嬉しい思い、悲しい思い―を重ねるなかで自然に生成されていくもので、変わりもする。

戦争と平和にたいする私の心情は、上記のような生活歴・諸体験から生成されたものと思う。

(7)今の私の心情

そこで、今の私の心情を述べると、それは次のようなものである。
幼き日のことを思うと、孫たちにあんな思いをさせたくない。
父や叔父たちのことをおもうと、若者や妻子をもつ男たちにあんな思いをさせたくない。
母のことを思うと、娘たちにあんな思いをさせたくない。
そして祖父・祖母たちのことを思うと、妻や娘婿の親たちにあんな思いをさせたくない。
戦争は残酷なものであり、理不尽で、正義もロマンもなく、悲惨と愚か以外の何ものでもない。
「幸福の青い鳥・・・・・・・ヘレン=ケラーのおば様はいつも小鳥といっしょです」
と歌った、あの思い。どんなに平和は有り難いことか。

なのに、「平和憲法を守れ」と叫ぶ人たちを「平和ボケ」と云って戦争を煽り立てる。戦争の何たるかを知らずにゲーム感覚で戦争を論じる、彼らこそが「平和ボケ」なのだ。彼らによって「日の丸」・「君が代」・靖国神社と皆復活し、(自衛隊は「自衛隊であって軍隊ではない」と云っていたものを)改憲して本格的な軍隊まで復活させようとしている。一体何故なのだ?

それには政治的な思惑があるからに相違ない。市場原理主義・競争主義政策による社会格差など経済社会の矛盾からくる様々な問題は、大人の犯罪も青少年の犯罪も、何でも皆、愛国心・道徳心がなくなったからだと云って、それを憲法や教育基本法のせいにして、政治に対する不満の矛先をそこに向け、「一億一心、みんな賛成」「逆らう者は非国民だ」といって反対者を排除してしまう方向に国民をもっていこうとする。そんな感じがしてしかたがない。

とにかく、「日の丸」・「君が代」、靖国神社、教育基本法改定、改憲、そのどれにも違和感を感じないではいられないのである。

暗く戦々恐々として生きた時代を肌で知っている、そんな逆方向に世の中は向かっているのかと思うと気が気でない。

というのが、改憲派の諸政策に反対する私の心情なのである。

(8)国歌と心情

国といっても色々あり、国家・国民(ネイション)のほか、国土(ランド)、祖国(ファーザーランド)、故郷(ホーム)などの意味でも用いられる。「国を愛する」という場合は祖国を愛すとか、故郷の山河を愛すという場合もあるわけである。

私がジーコ=ジャパンを応援するのは、チームの選手は同じ国家の国民だからというわけではなく、同胞(ブラザー)だからであり、いわば同胞愛(ブラザーリー・ラブ)からであって、愛国心からなどではないのである。その応援旗にふさわしい旗や応援歌にふさわしい歌―同胞旗・同胞歌―があって然るべきだろう。

国旗(ナショナル・フラグ)・国歌(ナショナル・アンサム)は国家・国民(ネイション)の旗と歌なのであって、ジーコ=ジャパンの応援にそれを持ち出すのは場違いであろう。

国家・国民(ネイション)という場合、国家とは政治的機構であり、国民とは多数派が支配する政治的共同体なのであって、国旗・国歌も国会議員が多数決で決めたものである(国旗・国歌法)。そのばあい少数派・反対派は、その国旗を仰いで歌えと言われても、心から歌う気にはなれないし、強制されて歌うべきものではないわけである。(国旗・国歌法制定当時、政府答弁では、そのことを確認している。ところが東京都など一部の自治体は学校でその強制を公然とおこなっている。)

それ(国歌)が国民によって本当に心から歌えるようになるためには、一つには国家そのものが愛するに足る国家であるということが必要条件になる。(ところが、国民のなかには国家に恩恵を感じていて、それを愛せるという人もいれば、中には恩恵どころか迷惑・仕打ちをこうむり、どうも愛する気になれないという人もいるわけである。)もう一つには、歌詞やメロデーが、愛すべき国家に相応しい歌詞・メロデーになっているということが必要条件になる。

ここで、「君が代」と「大日本の歌」「われら愛す」という3つの歌をあげて比べて見てみたい。

「君が代」:この歌詞は、そもそも古今和歌集などの古歌の中にある祝い歌の類で、「君」とは祝福を受ける人のことを指し、「代」とはその人の寿命のことを指していた。それが、明治時代になって政府によって「天皇に対し奉る礼式歌」とされ、雅楽の旋律で曲がつけられて、文部省によって学校儀式用唱歌とされるようになった。そして昭和時代に入って国家主義が高揚されるとともに事実上の国家として扱われるようになった。そこでは、「君」とは天皇を指し「代」とは「(天皇の)治世」のことを指す。要するに天皇の治世が永久(とわ)に栄えよという歌なのでる。敗戦後しばらく歌われなくなったが、サンフランシスコ講和(占領解除)後、国家的礼式等で再び用いられるようになり、近年(1999年)法律で正式に「国歌」と定められることになった。

天皇とは、「大日本帝国」時代はもろに政治的存在であり、かつ宗教的存在であったが、今は必ずしもそういうわけではなく、単なる文化的存在にすぎず、なんの実権もない国家・国民の「象徴」とされているが、国民の心をまとめ(統合し)国家への忠誠心を集めるために政治的に利用される存在となっており、この「君が代」もそうして(政治的に)利用されている。

「大日本の歌」:これは文字通り「大日本帝国」の賛歌であり、1938年(日中戦争のさなか)NHKラジオ放送で国民歌謡として流された歌で、その歌詞は次のようなものである。

「1、雲湧けり 雲湧けり みどり島山 潮みつる 潮みつる
  東の海にこの国ぞ   高光る 天皇(すめらみこと) 神ながら
  治(しろ)しめす皇御国(すめらみくに) ああ吾等今ぞ讃えん
  声もとどろに 類(たぐい)なき 古き国がら 若き力を
2、風迅し 風迅し 海をめぐりて 浪さやげ 浪さやげ 敢えてゆるさじ
  この国ぞ 醜はらふ 皇軍(すめらいくさ) 義によりて 剣とる
  皇御国(すめらみくに) ああ吾等今ぞ往かん かへりみはせじ
  日の御旗 ひろめくところ 玉と砕けん                 」

まさに、国粋主義むきだしの歌である。

「われら愛す」:これはサンフランシスコ講和後の1953年、これまたNHKラジオ放送が新国民歌として一時期毎朝流した歌。(それを私は小学校の頃よく聴いたわけである)その歌詞は次のようなものである。

「1、われら愛す 胸せまる あつきおもひに この国を われら愛す
 しらぬ火筑紫のうみべ みすずかる信濃のやまべ
 われら愛す 涙あふれて この国の空の青さよ この国の水の青さよ
2、われら歌ふ かなしみの ふかければこそ この国のとほき青春
 詩ありき雲白かりき 愛ありきひと直かりき
 われら歌ふ をさなごのごと この国のたかきロマンを この国のひとのまことを
3、われら進む かがやける 明日を信じて たじろがず われら進む
 空に満つ平和の祈り 地にひびく自由の誓ひ
 われら進む かたくうでくみ 日本のきよき未来よ かぐわしき夜明けの風よ 」 

曲(山田耕筰が編曲)は、同じ頃ラジオから毎日流れた「月山の雪 紅(くれない)染めて 朗らに明けゆく新生日本・・・・」というスポーツ県民歌と同様、行進曲調の元気溌剌とした、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」と似た感じの曲である。
 作曲者・作詞者ともに、洋酒メーカーの壽屋(現サントリー)が懸賞募集して全国から何千点と集められた応募作品の中から西条八十・三好達治らが審査員となって選んだものである。
 その作詞者・芳賀秀次郎は当時山形南高校の国語教師。彼は、実は先にあげた「大日本の歌」の作詞者と同じ人物なのだ。思想の変節とうけとる向きもあるかもしれないが、当人はその手記に次のように書いている。

「8月15日―私はしかし、敗戦の悲しみというよりは、むしろ生きのびて平和の日をむかえ得たことについてのある喜び―ー種の解放感をもっと率直な感想としてあの日を迎えていた。
 そして多くの人々のように、私はかわらざる平和主義者であり、かわらざる民主主義者であるかの如き言葉をもって教壇に立っていた。はじめはおずおずと自信なく、そして次第に確信ありげに、しまいには権威あるものの如くに生徒の前に立っていた。
 昨日は戦争の情熱に感動し、今日は平和国家の理想に感動する―それが人間の生命をかけた対決を経た革命であり、成長ならばいい。私は実にやすやすと戦陣訓を愛誦した翌日に、新憲法を語ろうとしている自分を見ないわけには行かない。『そのみにくさ、そのひくさ、そのおろかさ、これを双の目に焼きつくすほど凝視』しないわけには行かない。」(これらの資料はいずれも、生井弘明著『われら愛す』―かもがわ出版―から)

彼は、心変わりを悲痛な思いで「そのみにくさ」と率直に認めており、ごまかして正当化したり言い訳したりしてはいない。

この「われら愛す」の歌も、新生の日本国が主権を回復して前進をはじめたその時点での、彼の新たな心情をこめて作り上げたものであろう。

論理(理屈や言い訳)は、その時の自分の都合で(自分が置かれている状況から自己に有利なように)ごまかすことができ、心とは裏腹だったり、心情からかけ離れた論理を立てるばあいがあるが、歌は心情そのものを表現したものであり、それを作った人も、唱和して歌う人も、心から歌いたいように歌うものであって、心のない機械ロボットが音声を発するのとは訳が違う。

歌というものは、歌謡曲であれ、ポップスであれ、応援歌そして国歌であれ、心から歌えるものでなければならないのであって、無理やり立たせ口をあけさせて歌わせるべきものではないわけである。

さて、これら3つの歌のうち、どれが一番(心から)唄える歌だろうか。どれが、今の我々国民の心情にピッタリする、国歌・国民歌に相応しい歌なのか、である。

ところで、「日本国憲法の歌」がある。それは憲法前文と9条の字句をそのまま歌詞にして、それに曲を付けたものである。シンガーソングライターのきたがわてつ氏が作曲した。CDカラオケも出ているが、生演奏を聴いてきた。
 憲法前文・9条の字句には、当時それを作り上げた人々の熱情や国民の心情が込められているが、それに曲を付けて歌うと、その心情が心に伝わってくるのである。
 (前文最後の盛り上がり部分)「にほんこくみんは こっかのめいよにかけ ぜんりょーくをあげてー このすうこうな りそーとー もくてきを たっせいすることを ちかーうー」 朗々と歌う、その歌は心をゆさぶる。

(9)靖国参拝と心情

参拝やお祈りは宗教的心情(信仰心)の表現である。

一般国民が、「君が代」を、それぞれの心情によって歌う人もいれば、歌わない人がいてもそれは自由でなければならない。(納税や交通ルールならいざ知らず、人それぞれに自由な心情をストレートに表現する歌を、国会で多数決によって「国歌」と決めたからといって、それに反対した人たち、違和感をもつ人たちが無理やり歌わされ強制さるべき筋合いではないわけである。)同様に、各人がそれぞれの思い(心情)から、どこに参拝しようと、参拝すまいと自由なわけである。

しかし、首相という国家を代表するような公的な立場にある人の場合は、事は違ってくる。首相が靖国神社に参拝すれば、それは彼の個人的な心情の表現(個人的な「心の問題」)にとどまらず、他の人々、「国民」の心情を代弁してそこへ参拝してくれたものとして満足し感謝する人もいれば、「何ということだ」といって心を傷つけられ憤懣やるかたないという人―とりわけ戦争被害をこうむった諸外国の人々―もいるわけであり、国民的な問題かつ国際問題ともなるわけである。

国歌も(国民皆が歌えるような)国民の心情に相応しい歌であることが望ましいのと同様、あらゆる国民・他国民(外国要人)も参拝でき、首相も天皇もそれこそ誰からもとやかく言われることなく堂々と参拝できるような、他国民の心情を害さず国民の心情に相応しい追悼施設ができればよいわけである。

(10)論理で勝負

行為は(靖国参拝にしても、それ以外のことでも、あらゆる行為は)情緒・心情から発するとしても、行為を正当化・合理化するその説明は、論理によってなされなければならない。(名もない庶民なら、「参拝したいから、したまでだ」といって済むだろうが、国民に影響力をもつ公的な立場にあるような人の場合は合理・論理を必要とする。)「ただひたすら、不戦を誓い、戦没者を追悼したいという一心から参拝したまでです」といっても、それだけでは説明にはならない。参拝先が、いったい何故、さまざま問題の多い靖国神社でなければならないのか、だれにも納得のゆく説明が必要であり、その論理が必要なのに、小泉首相にはそれがない。ただ「心の問題」というだけ。

論理には、それぞれの心情(情緒)から(首相の靖国参拝にしても、改憲にしても)賛成する側、反対する側、双方に相異なる論理(言い分・理屈)があるものだが、そうは云っても、その論理には、矛盾がなく合理性・整合性があること(道理にかなっていること)とともに、事実の裏付けがあるかどうかによって当否を検証することができ、どちらの言っていることが正しいか判定することができる。(小泉首相の「構造改革」にしても、「教育基本法改正」にしても)その当否を説明するのは論理によってであり、それを検証するのは事実によってである。そして、それによって議論(論理と論理のたたかい)は勝負がつく。

裁判は検察官も弁護人も(事実に基づいた)論理によって弁論し、裁判官はどちらに道理があるか(論理に矛盾がなく合理性があるか)で判決を下すのであって、情緒で判断を下すわけではない。

ところが、小泉氏のばあいは、論理的な説明ぬき(すり替えやはぐらかしで、議論が噛み合わない)、その話は、ワンフレーズ(「一口論理」)を繰り返すだけで、論理・合理を軽視あるいは無視し、ただフィーリング(情緒)にうったえて大衆の支持を獲得しようとする。

とかく、大衆は、裁判官とは違って、論理や事実にはあまりこだわらず、情緒(それも、テレビ映りのよさでカッコいいとか、感じいいなどといった感覚的なフィーリング)だけで判断しがちな向きが少なくない。(かつてヒトラーはそれを意図的に存分に利用したものだが)いわゆる衆愚政治あるいはファシズムに陥る危険性をもつ、それが大衆民主主義の弱点なのである。

国民も、政治家や政党をフィーリングだけで判断するのではなく、論理を重視してそれにこだわり、理性的判断に努めなければならないわけである。

(11)「国家の品格」というが

[1]国家の品格とは、自国の指導者や学者・評論家や自国民が日本は「優れている」とか「落ちている」とか自己評価するよりも、(2006,4,3朝日新聞で、神戸女学院大学の田村樹教授がいうように)諸外国の人々―とりわけ近隣諸国民―によって外から、或は在留外国人によって評価さるべきものであろう。
 その場合、その指標は様々あり、文化・伝統などもあるだろうが、最も重要なのは政府も国民も国際信義や道義をよく守っているか、フェアか、「寄らば大樹」的に他国に頼って追従してはいないか(自らの意思に従って行動できる国か)、国際社会にどれだけ貢献しているか、自国の国益(利害損得)と自国が付き従う同盟国を優先したり、首相が自己の心の満足(自己満足)にとらわれていたりしていないか、といったあたりにキーポイントがあるのではないだろうか。
 国連常任理事国入りもこのあたりの評価によって決まってくるわけである。
[2]国家の品格といっても、実は国の指導者は勿論のこと、国民一人一人の人間としての品格(「国民の品格」、それは「民度」の高さ、とも云えよう)が問題。それを決定付けるものには、藤原正彦氏がいうように「情緒力」(惻隠の情、卑怯を憎む心、道徳心などよい意味の「武士道精神」といったもの)もあるが、フィーリング(感覚)主義に流されない理性的判断能力・論理的思考能力も重要であろう。(藤原氏は最悪なのは「情緒力がなくて論理的な人」というが、情緒力と理性的判断能力の両方が必要)

主権者・国民が、騙されることも、ごまかされることもなく正しい判断ができ、民主主義が正しくおこなわれるためには、国民の教育レベル(民度)の向上が必要である。日本は民度がいちばん高いほうだといわれるが、最近落ちてきたともいわれる。(というと、改憲派は、「だから教育基本法改正だ」と、話をそこへもっていこうとするが、むしろ教育基本法の精神をそっちのけにし、教育への市場原理・競争主義の導入によって教育格差が広がり、受験知識への偏り、「落ちこぼし」の増加が進行している結果だろう。)

小泉首相のポピュリズム(大衆迎合主義)のやり方は、たとえ、自国の国民大衆はそれでごまかせても、国際社会・諸外国には通用しないし、それこそが、我が国家の品格を貶めるものとなるだろう。

(12)論理・合理もだいじ

藤原氏は、「情緒は教育によって培われるもの」として、「論理で説明できない部分をしっかり教える、というのが、日本の国柄」、「重要なことの多くが、論理では説明できません」「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。ならぬものはならぬ、問答無用、といって頭ごなしに押しつけてよい」などといったことを書いているが、後の二つは、単純に真に受けてはなるまい。

たしかに、この世には未知の世界は果てしなくあり、いくら解明しても解明し尽くされることはない。しかし、だからといって、或は、どうせ子供には解りっこないのだからといって、論理的説明ぬきにしてもかまわないということにはならず、一見、知ること、論理によって説明することは不可能と思われるような訳の解らないものであっても、解明も説明も、その可能性はあくまであるのであって、可能なかぎり研究解明に努め、論理的説明を最初から放棄してしまったり、無視・軽視してはならないのである。

「どうして人を殺してはいけないのか」それは、「『ならぬものはならぬ』ことだからだ」言い放すだけではなく、「自分は殺されたくないだろう。だから人は殺してはならないのだ」と教えればよいのである。また、非科学的ではあるが、神様や仏様をもち出して形而上学的な論理で「神の掟だから」式に説明することも可能なわけであり、「閻魔様から恐ろしい罰をうけるからだよ」などといった子ども向きの論理もあるわけである。

「野に咲くスミレは何故美しいのか」も「モーツアルトの曲は何故美しいのか」も、美学・音楽理論・大脳生理学などで科学的論理的に説明することは(現段階では極めて難しいことだとしても)絶対不可能なことではないのである。

 「問答無用」といって、理由説明(論理)をぬきに無理やり押し付ける強制は、状況によっては緊急を要し、説明は後回しなどといった場合にはあり得るが、強制は、そもそも人に対する支配にほかならない。教育は子どもに対する支配の行為ではなく、愛の行為であって、利他的・愛他的行為である。愛(思いやり・慈しみ)であるからには、優しく、懇切丁寧に教える、というものでなければならず、その方法は、理由を論理的に(理屈で)説明して聞かせるという方法でなければならない。その論理には、科学的な論理は子どもには難しいという場合、「嘘も方便」で、「そうしないと罰があたるから」式にある種の形而上学的論理を用いることもよくあるところであるが、なるべく科学的に事実に基づいた論理であることが望ましい。また、緊急事態に「そんな事はやめなさい!」というような場合、「どうしてか」と聞かれてもゆっくり説明している暇がなくて、ただ「ならぬものはならぬ」と云うしかない、といったような場合もあるわけである。

 「愛のムチ」が許されるのは、例えば、いじめっ子に人の痛みを解らせるためには、頭では(いくら論理で説明しても)相手には解りそうにないという場合に、「身体で解らせる」しかない、などといった場合であろう。しかし、この「愛のムチ」は、ともすると、そこから愛が抜け落ちて、(子どもに言うことを聞かせられず、自分の思い通りにならずにイライラがつのり)怒り・憎悪にまかせた単なる暴力に化してしまいがちであり、その場合はかえって子どもの心に抜きがたい傷を与えてしまう、といった危険性がある。暴力は支配でしかなく、支配は教育ではない。

尚、「渇を入れる」という場合もある。反復訓練などの場合、とかくダラダラしがちであり、緊張感を取り戻させるために身体に渇を入れる、といったことも教育のなかではよくあること。

 いずれにしても、その子どもへの愛が不可欠であり、あくまでその子どもを大事に思うが故のムチであり渇でなければならないわけである。

 情緒を養うのが教育であって、情緒を害する教育であってはならない。国歌を何が何でも国旗に向かって起立して歌わせようと強制するのは、情緒を養う教育的行為か、それとも情緒を害する非教育的行為か、どちらなのかといえば、答えは云うまでもあるまい。


ホームへ戻る