米沢 長南の声なき声


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受験競争教育は廃止すべき
2009年11月11日

「静かなる革命」などという向きもある政権交代だが、新政権の手によって我が国で初めて高校教育の無償化が断行されようとしている。
 世界第二の経済大国といわれながら、所得格差が拡大し、貧困率が15.7%(6人に一人が貧困)で、OECD諸国のうち悪い方の4番目。それでいて学費が世界一高い国となっていて、教育への公的支出(GDP比3.5%)がOECD諸国(平均5.3%)で最下位、教育支出に占める私費負担率(33.3%)はOECD諸国平均(15.3%)の倍以上。小学校のクラス人数平均はOECD諸国の平均が21.4人なのに対して日本は28.2人。中学校のそれはOECD諸国の平均が23.9%に対して日本は33.2%と多い。

 昨今の大不況で学費が払えず、高校・大学を中退もしくは進学断念に追い込まれている生徒・学生が急増している、この折に新政権が高校教育無償化・奨学金の給付制(返済不要)化に踏み切ったことは大いに結構。
 しかし、我が国教育のもう一つの大問題は「受験競争教育」の体制にあることであり、それが日本社会を歪め、日本人の学力をも歪めている(学力低下を招いているとも言われる)ことである。

 高校にも大学にも入学にさいして選抜試験がある。そして各学校・各大学間にその入試成績の偏差値ランキングによって序列が(東大を頂点とし、各都道府県学区ごとの進学名門校を頂点として)形成され、どの高校、どの大学を卒業したかによって、人間が評価される風潮が陰に陽に根強く形成されているのである。

 子どもの将来(将来、何になりたいか、何にならせたいか)を考えるさい、その親、やがて本人もそれをめざす最重要の目標・基準となるのは名門校・名門大学合格なのである。子が生まれると、親はその子がすくすく元気に育つことを願うのは当然だとしても、彼らがひたすら思い描く「夢」はその子が「勉強ができて」地元学区の進学名門校と目される「~高校」に入ってくれることなのだ。
 中学校の教師も自分の学校、自分のクラスから、その進学名門校により多く合格者を出すことが、陰に陽に最重要の目標となって、そのために血道をあげる。
 その進学名門校に在籍した教師は、その経歴・「元~高校在職」という肩書きをステータス・シンボルとして活用する(そして彼は世間から一目置かれる)。

1、学校・大学ランク(序列)の設定―歴史的―東大を頂点に「名門校」・二流・三流校から底辺校へと
全国の大学、それに山形県内高校の偏差値ランキングがインターネットで検索すると出てくる(どこかのサイトが出しているのだ)。 
 その学歴(どの高校・どの大学の卒業か)によって社会階層が形成。
 ただし、高学歴といっても、それだけで(名門校・名門大学卒業という肩書きだけで)高給・安定職への就職口が自動的に保証されるという意味合いは、以前よりは薄れている。小田嶋隆氏(早稲田大学卒、『人はなぜ学歴にこだわるのか』という著作があるコラムリスト)によれば、「学歴には大した意味はない。でも世間や企業社会が、その大して意味のない指標で人間を判断するように出来ているのも事実」で、「恋愛や結婚などで有効なブランド」にはなっていると(4月25日付け朝日「be」)
 中学校―学区をはずしてオープンに―学校選択制―人気校・不人気校―「校舎・施設がいい」、「制服がいい」、通学の便その他立地条件、地域の伝統校(ブランド)、風評などでイメージが定着―現場教員の努力の程度とは無関係に決まる
 学校間格差―一斉学力テストによって拍車がかかって拡大
かつてあった入試合格者名・在籍学校名の新聞発表は、今はおこなわれなくなっているが。
2、入学選抜試験競争
 試験というものには、免許取得などの資格試験(検定)と、その仕事に向いているか否かを確かめる適性試験と、成績順位を出して上位のほうから選抜するための「選抜競争試験」とがあるが、我が国で一般に行われている「入試」というのは、その「選抜競争試験」。
 欧米先進国では高校入試はない。そのかわり履修する科目の成績評価は絶対評価で、基準に達して単位を修得すれば卒業が認定され、基準に達しなければ落第させるという卒業認定制度をとっている。そしてその高校卒業認定試験が大学入学資格試験ともなる。
 ところが、我が国では、高校入学にさいしても大学入学にさいしても入試(相対評価で選抜する競争試験)があり、入ってしまえば、あとは履修科目の成績も相対評価が主で卒業は認定され、成績で落第させられることはほとんどない。
(落第がない、それが多くの若者たちを学校に留めて置くことによって失業や犯罪に追い込まずに済んでいる、というメリットも。しかし)「16年間の教育(公的コストと家計コスト)を提供しているのに、それに見合った「満足できる成果」(学力)に達している学生はどれだけいるか。苅谷剛彦教授は「巨大な無駄遣いと言えなくもない」と(『学力と階層』朝日新聞出版)。

 このような「選抜競争試験」によって「勝ち組」・エリートと「負け組」・「落ちこぼれ」とが分けられ、優越感・劣等感を生む。

 選抜・振り分け―欧米諸国・韓国など、大多数は地域の高校に通い、重大な進路選択は大学進学の時。ところが日本では重大な選抜が高校入試から中学校受験、そして小学校の習熟度別授業へと低年齢化。
3、テスト教育―受験教育
 全国・全県一律の物差しで学力競争
 全国学力テスト―「情報公開」を理由に市町村ごと・学校ごとの結果公表の動き(文科省は非公開の方針なのに)。知事が教育委員会を本県(府)は「点数が低い」と叱りつけたりしているところも。学校は点数順位競争に駆り立てられる。
(新政権は「全員調査」から「抽出調査」へ変更の方針―ただし、抽出は40%と多く、その上、自治体の判断で希望参加を認めることも)
 能力や個性を測る道具は「テスト」という物差ししかないという固定観念。
授業を受験に役立つかどうかでしか評価しない。
「人間」として知っておくべきことだから勉強するとか、学問する(真理を知る、探求する)こと自体に価値があるからというのではなく、「試験に出るから」そこを勉強し、受験競争に勝って名門校に入いられれば高給・安定職が得られ地位が得られるから「頑張れ」という「利益誘導型」の教育。
 教育行政―国が(指導要領を定め、教育内容・方法にまで立ち入って)スタンダード(基準)を決めて、達成度を競わせ、成果に応じて(差をつけて)予算配分―学級規模や教職員定数など教育条件を整えるための財政支出は度外視。
 教師も学校も進学実績を競い合い、名門校・名門大学へ何人合格させたかで力量が評価―授業時間が、そのために際限なく増やされ、効率主義・成果主義で教員は疲弊。
テスト対策―出題傾向の分析、問題練習(類似問題を繰り返しやらせる)―ドリル中心の訓練主義的学習―詰め込み・暗記型。

「勉強嫌いの子」を生み、クラスの中で「勉強のできない子」を忌み嫌う差別を生む。
本来の勉強や学問へのモチベーションは好奇心・探究心のはず。それを競争と強制(プレッシャー)で学習意欲をかりたてようとする。
 真の学力―生きる力・「自分の人生をつくり、社会に参加できる能力」―読み書き・計算・思考力・判断力・表現力・コミュニケーション力・道徳・社会性など
 これらの「学力」の幅を狭める―本来の学力を低下させる結果に。
本来の教育目的は「人格の完成」ということにあり、知育のみならず、様々な能力(個性)を伸ばし育て、心情(「優しさ」・「他人の痛みを知る」友愛の精神・自己の人生にたいする肯定感・生きる意欲)を育てるのが学校であるはず。なのに他者との競争にばかり目が奪われ、生徒も教師も競争ストレスで、心が歪められる。
 学校は「楽しいところ」―「できる子」・「できない子」が「学び合い」のなかで理解を深めたり、相手を思う気持を育んだり、様々成長する機会が得られるところ―のはずなのに、「辛いところ」・「空しいところ」といった状況も多々ある―アンケートに対して「疲れを感じる」「自分はダメな人間」と答える中高生が、日本はアメリカや中国と比べて際立って多い。
4、家庭格差(所得格差・親の学歴格差・人脈―情報格差、書籍・ピアノ・芸術品・知的会話など「文化資本」の格差)―上流・中流・下層などの階層が形成。
恵まれた家庭―教育投資―塾・家庭教師に(3年間400万円とか)つぎ込めるし、遠くのいい学校へ送り迎えしてもらって通える―教育機会(「いい学校」を選べる選択権)に恵まれる。
 恵まれない家庭(一人親家庭、共働き家庭、生活保護家庭)―ハンデイ―教育機会が狭められていて選択権が行使できない(「市場から排除」)。
 本人の責任(能力・努力)を超えた教育機会・選択権の世代間継承(親世代が高所得・高学歴なら、その子世代も高所得・高学歴)
 新政権による「子ども手当て支給・高校の授業料無償化、大学における給付型奨学金制度は当然の措置。ただし「子ども手当て」などは、その多くが塾代に消えるということも。 

フィンランドの教育―競争をやめたら学力世界一
 ちなみに、国際学力調査(OECDの学習到達度調査PISA)でダントツ世界一の国であり、EUの中でも経済発展好調な国フィンランドの教育は、我が国のそれとは対照的で、次のようなものだ。(参考―福田誠治「競争をやめたら学力世界一」朝日新聞出版)


「落ちこぼれ」を作らないのが基本
クラス定員十数人、数人づつのグループで助け合いながら学ぶ
授業時間は日本より少ない。習熟度別授業も廃止。
 担任教師に特別支援教師(補助教師)が付いて、授業に遅れがちな生徒・問題
をもつ子どもは一たん特別クラスにひきとって指導した後で通常クラスに戻す。
 教科書―国の検定はなく、教科書会社が自由に作っている。薄い。手作りプリントで補っている。
 国家カリキュラムはあるが、ガイドライン程度のもの。
 自治体を通じて学校(教育現場)に大きな権限―学校ごとに授業内容を決める。
 教師―教師希望の学生は教育学部で5年間、訓練校で実習して修士号を取る。良い授業を徹底的に研究。一任されている。
   平均月給―税引き後で33万円(2,500ユーロ)
 学校の査察もない。
 結論や正解を覚える勉強はさせず、考え方を教える。
 序列をつけたり、他人と比較するテストはしない。 
  市販テストも偏差値も流通していない。
 勉強を強制もしない。
 授業料はただ。教材費もただ。
 学校間格差はない。
 高校の入試はなく、基礎学校(小~中学校)での成績評定(絶対評価、各学校ごとに学校内で評価―人々はそれを信頼)に基づいて、たいてい地元の高校に進学。
 大学入学には、全国統一の進学検定試験(大学入学資格試験)があり、それ加えて大学学部ごとの個別の入試がある。
  大学入学資格試験は、年に春秋2回、4科目(母国語は必修、スウエーデン語その他外国語を1科目、数学その他一般科目から2科目)指定だが、いずれも記述式。
  個別試験は、学部ごとに専門の勉強が可能かどうかを確かめるもので、ペーパーテスト(といっても、本を一冊渡して、それについて一枚の紙に自分の考えを記述)と適性検査(集団面接など)と個人面接。
 なので、我が国の競争選抜試験とは趣が違う。
 塾も予備校もない。

 新政権は目下、「事業仕分け」、無駄な予算カットに鋭意取り組んでいる。無駄は様々あるが、入試・学力テスト―受験競争、これこそが人々(生徒と教師)に法外なエネルギーの無駄を強い、法外な家計負担とともに公費負担の無駄を強いている。
 我が国の入試制度と競争教育は、我が国教育の歪みと学歴格差社会をもたらしている元凶であり、この改廃こそ、新政権の取り組むべき優先課題であり、この変革を実現してこそ「革命」の名に値すると言えるのでは。

はどこの学校に?フィンランドのような国ならいいが、今のようなこの国ではどうも・・・・。
 新政権に何とかしてもらなければ!この国、この国の教育を!


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