米沢 長南の声なき声


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従軍慰安婦問題が再燃―安倍・橋下両氏の言説
2012年09月05日

 李大統領は自らの竹島上陸のきっかけは、慰安婦問題で日本政府の対応に進展がないからだと。
 これに対する野田首相の発言に「強制連行の事実を文書で確認できなかった」と―それが韓国国内で「歴史の歪曲」などと反発を広げているという。
 松原国家公安委員長は河野談話の見直しを求める発言も。

 「河野談話」とは―1993年、河野洋平氏が官房長官として発表。
 当時、韓国人の元従軍慰安婦らが91年末に日本政府に補償を求めて提訴したのを受け、宮澤内閣が事実関係確認のために調査。その結果を踏まえて発表。慰安所の設置や管理、慰安婦の移送に対して旧日本軍が直接・間接これに関与したことを認定し、従軍慰安婦への「おわびと反省」を表明。
 様々な資料や証言をもとに「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり」、「慰安婦の募集・移送・管理等も甘言(だまし―引用者)・強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と断定、「官憲等が直接これに加担した」とも。慰安所における生活は、「強制的な状況の下での痛ましいものであった(慰安所に閉じこめられ、一日に何回も兵士たちの相手をさせられた―引用者)」と。

 これに対して、07年3月、安倍内閣は、辻元清美議員の質問主意書にたいする答弁書で、「強制性」の定義を広義と狭義二通りに分けて考え、河野談話は(広い意味では強制性はあったかもしれないとして)継承はしつつも、「当初、定義されていた強制性(当局が人さらいのように、「家に乗り込んで強引に連れて行った」などの行為)については、それを裏付ける証拠はなかったと。(それは「政府が発見した資料の中には軍や官憲による強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」からだ、というわけだが、そもそも、軍や官憲にとって不都合なことが記されている公文書は、敗戦時、焼却・廃棄されており、存在しないのが当たり前。それでも研究者の努力でいくつも発見されているのだが)。
 (「いじめ」の定義を広義と狭義に区別し、狭義には「いじめ」はなかったと弁明しているようなものでは?)
 これ(強制性の否定発言と答弁書)に対して国際的な批判。
 韓国政府は、「歴史的な真実をごまかそうとするもの」「河野官房長官談話を継承するとの日本政府の度重なる立場表明にもかかわらず、日本の反省と謝罪の真実性をうたがわせる」と。元「慰安婦」たちをはじめ抗議行動。
 アメリカ下院議会は、旧日本軍が女性たちに「性奴隷」化を強制した事実を承認し、「20世紀最悪の人身売買事件の一つ」として、日本政府に謝罪を求める決議を全会一致で採択。その後、欧州議会、オランダやカナダなどでも。
 安倍首相は、任期中は「河野談話を継承している」と繰り返さざるを得なかった。

 ところが、ここにきて安倍元首相、再び「慰安婦」強制を否定し、河野談話の見直しを求める発言。
 橋下市長―安倍説を支持―河野談話は「あいまい」だと。
  河野談話は「総じて本人の意思に反して行われた」としているが、そこのところは「第三者から強制的に(無理矢理)させられた」という場合の「狭義の強制性」と、「自らの意思でそうしたが、本意ではなかった(不本意)」(そんなことはしたくなかったが、あのような環境―貧窮に瀕し、売春・「身売り」などそれ以外に選択肢がないという状況下―にあっては、そうせざるを得なかった)という場合の「広義の強制性」とを区別すべきだ。(前者すなわち「慰安婦の強制連行」の場合は、国として責任があり、謝罪・補償があって然るべきだが、後者すなわち売買春のような場合は、部隊の秩序と慰安所・慰安婦の衛生・管理上、国が関与することはあっても、基本的には本人と業者の問題で、国としてはただ「かわいそうだった」と同情を寄せ、「たいへんでしたね」と見舞い金を寄せることはあっても、謝罪・補償を要するような筋合いのものではない。)なのに、河野談話はそこがあいまいだというわけ。
 しかし、14、15歳の少女はもとより、いかに貧窮に瀕し、それ以外にカネを得る方法はないからとはいえ、わざわざ戦地に、自分の意思で行くことなどあり得ようか。軍や官憲が直接または業者を介して、暴力・脅迫か甘言・だましによって連れて行かれたと解するのが自然だろう。
 橋下氏は、当時の時代背景において、慰安婦制度というものはどこの国でも許されていたかのように発言しているが、1998年、国連人権委員会では、慰安婦は事実上の奴隷であり、「当時ですら、奴隷制を禁じた慣習的国際法に明らかに違反していた」との報告書を採択している。
 本人たちの証言だけで、それを裏付ける証拠となる文書ないというが、公文書の多くは敗戦時、証拠を残さないように焼却・廃棄されて、そのような証拠はないのが、当たり前。
 朝日(9月5日)「声」欄に「慰安婦問題に女性の目線を」という投稿があったが、投稿者(主婦37歳)は「犯罪行為の立証に文書が必ずしも必要なわけではない。『私は女性を犯しました』と書いた文書がなくても、被害者の証言や状況証拠で十分なはず」と。
 橋下氏は「証人が何百人出てきても信用性が足りるかどうかが問題」だとして、証言の信用性を疑うが、それは、高齢に達して人生が終わってしまう前に今こそと勇気を出して、ようやく「生き証人」として名乗りでたハルモ二(元「慰安婦」)たちを二重に辱めることになる。それに、証言を公的に認定した裁判所の判決も、実はあるのだ。
 安倍流に「強制性の定義」(広義・狭義)の区別と「証拠」の有無にこだわることに、なんの意味があるのだろうか。

 橋下氏は、河野談話こそが、韓国側の日本に対するこの問題での謝罪・償い要求の根拠にされ、反日を招き、日韓関係を悪化させている「元凶」であり、韓国側とは強制性を裏付ける証拠の有無について論戦し、あいまいにせずに決着すべきだと。
 しかし、「強制性はない、証拠はない、あるなら出してみよ」、「いや、本人たちはあると言っている。ないと言い張るなら、そっちこそ「ない」という証拠を出してみよ」なんて論戦していたら、いつまでも未解決問題として、係争の種は残り続けることになる。
 そうやって、いつまでも「証拠を出せ」などと強弁し、強制性の定義はどうのこうのと免罪合理化の理屈を弄し、強制性の否定論、河野談話の見直し論をむし返して、ずるずるモメ続けるよりも、いさぎよく非は非として認め、謝罪して被害者たちに個人補償すれば、それで決着はつくのである。

 先月、橋下市長の記者会見での発言。
 (たまたま医院に行って見かけた週刊紙「週刊新潮9月6日号」に「『安倍総理』誕生に加勢する『橋下市長』」という見出しの記事と「『橋下市長』と従軍慰安婦論争の赤旗記者が『風俗未体験』」という見出しの記事が出ていた。『風俗未体験』とは何のことかと思って読んでみると) 
 赤旗記者が「河野談話」(「慰安婦」強制連行の事実を認めていること)について質問したところが、市長から「07年の閣議決定はどう書かれていましたか?」と逆質問され、赤旗記者は「すみません」と言うばかりで、「どうやら知らなかったようだ」と。(市長は、「河野談話」は官房長官の談話にすぎないが、「閣議決定」は安倍内閣の閣僚たちが署名したもので、このほうが重いとの考えだが、その「閣議決定」なるものはどうやら上記の辻元議員の質問主意書に対する「政府答弁書」のことを指してそう言ったのだろうが、記者は「閣議決定」と言われて一瞬ピンと来なかったのでは?)(それに、その答弁書は、文中に「政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行を示すような記述も見られなかった」とは書いてあるが、「河野談話」は、文書資料だけでなく元軍人や元「慰安婦」からの聞き取りなどを行ったうえで総合的に判断して軍による強制を認めたものであって、その「談話」自体は継承すると回答したものであって、「河野談話」そのものを否定したものではない。)
 市長いわく、「韓国は、強制的に連れてきたこと、それとも慰安所自体を問題視しているのか、分からない。現代社会でも、いわゆる性を商売にすることは世界各国である。(それが)倫理的に良くないという話しと、強制的に連れてきたから謝るという話しは別問題。赤旗記者は風俗営業に行ったことがないんですか?」と、また逆質問。すると記者は「無視すると思いきや、なんと正直に、『ないです』と答えたのだ。一瞬、苦笑する他社の記者たち。」
 市長「強制的に連れてきて無理矢理働かせたということがなければ、倫理の問題でしょ。謝罪の問題ではない」と。
 「赤旗記者は勉強不足」「他社の記者たちの前でオモチャにされ」、「橋下さんに太刀打ちできない」。
 というのが、週刊新潮の記事だった。

 この記事を書いた週刊新潮の記者をはじめ、市長に「まくしたてられ」て、丸め込まれる記者たちと、市長のしたり顔がありあり。

 この記事に見られる問題として、もう一つ見落としてはならないことは、風俗営業を引き合いに出して「従軍慰安婦」制度を合理化する橋下氏と、風俗店に行ったは「ないです」と答えた赤旗記者を笑った週刊新潮記者をはじめとする記者たちの、まるで男は風俗店(売春)を利用するのが当たり前であるかのような感覚、女性に対する人権感覚である。


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