米沢 長南の声なき声


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大江健三郎氏の講演
2005年07月25日

 それは、24日、山形市内の山形国際ホテルで、県教組山形地区支部が主催して開催された。演題は「『人間らしさ』の力―教育・平和・福祉」。「私は、井上ひさしさんと違って、話べたなので、講演は苦手」ということで、次のようなエピソードの話から始まった。「ある雑誌社主催の講演会に、井上氏と一緒に出た時のこと、始まる前にたまらなく憂うつになって帰ってしまおうとしたら、事務局の人につかまってしまい、彼は井上さんに番(見張り)を頼んだらしい。演壇の前に立ったら、その下に井上さんが座っていて、僕のズボンのボタンのあたりを見ているんですよ」(爆笑)。

 講演の大要をいえば、(筆者の解釈だが)それは、非暴力・非戦(それらの用語自体は、大江氏ご本人はこの講演の中では使っていないのだが)―「『人間らしさ』の力」―で人々の生命と安全・平和を自国および他国による戦争から守る、それが「九条」であるということ。「『人間らしさ』の力」とは、人間だれしも持っている「真直ぐ立てる」(自立できる)能力(意志)、感情・理性などであり、それらの潜在力(素質)を発見して伸ばし、支援する、それが教育であり、福祉である、ということのようである。そのことを、自らの人生体験とご子息の障害克服のサポート体験の中から掘り起こしながら展開された。

 ご子息は、生まれて間もなく、頭蓋骨に欠損があって手術をされた。足が曲がって歩行できなくなりそうな症状もあって、整形外科で診てもらった、そこから氏は、彼を「真直ぐ立って」歩けるようにしてやるのだ、ということを思いたったようである。

 音楽は4歳の時、奥さんがたたいたピアノの一つの音を、その音として感じとる能力(絶対音感)を持ちあわせていることがわかった。音をピアノで復元することもできた。ところが、視覚の異常もあって黒鍵をきっちりとらえることができず、その不自由さから、ピアノに抵抗感をもつようになった。それで鍵盤をたたくかわりに、譜を覚え、音を五線紙に音符で表わす方法を身につけ、16歳で作曲もできるようになった。何年かたって、それをぴたっとやめてしまったと思いきや、音楽理論(技法)に興味がいって、その方に傾倒するようになっていたのだ。そこでそれを習い覚えたところで一段と表現能力の向上がみられるようになった。それにともなって対話・説明能力までも身につくようになった、というのである。それらのいきさつを、微笑ましいエピソードをとりあげながら語られた。(大江家では豆腐を買うさいに、2軒ある豆腐屋のうちどちらから買うかという問題にさいして、豆腐屋のラッパの音を息子が聴いて、どっちが正確な音が出ているかによって豆腐屋を選んで買うことにしたとか、或はまた、今年の事だそうだが、ご子息の曲の演奏会が開かれ、本人が解説のスピーチにたって曰く「このソナチネは、パパが70歳になったといって憂うつな顔をしていたので、変ロ長調の曲につくりました」と。司会者がご子息に、「お父さんはどうして、そんな顔をしていたのでしょうか?」と聞くと、「それは石原都知事のせいです」といったという。事実、大江氏は、石原知事がフランス語を数が数えにくく語学的に劣っていると述べたことなどにたいして、とんでもないことを言うものだと嘆いていたのだ。氏いわく。「あれはおそらく、石原氏が高校でフランス語を習った時に、1-un,2-deux,3-trois・・・・と、60までは数えることができたが、そこから先は覚えきれず、ドロップ-アウトしたからだろう。」)

 ご子息に関するこれらのことは、アップ-スタンディング-マン、すなわち肉体的にも精神的にも真直ぐ立てる(自立する)人間になっていく過程を物語っているというわけである。

 学校の先生に、子どもたちをどのように教育することを望むかと訊かれると、ただ「真直ぐ立てるように、そしてそれを妨害しないようにしてあげて下さい」とだけ言ってきたという。

 子どもたちには、真直ぐ立てるようになりなさいといっても、この国の国際関係におけるあり様はそうなってはいない。つまり、独立国家とはとうてい云えない(対米従属の)状態にある。氏はそこでこう言われた。「私はあと10年ぐらいしか生きられないと思っているのですが、7~8年ぐらいの間には、日本がアメリカに対して自分たちは真直ぐ立っていくということをはっきり示すことができるような政治家や政治環境が現れてくると思っています」と。

 今は、沖縄では住民の居住地や道路に程近いところで米軍が実弾射撃訓練を強行してはばからないという状態で、戦後60年というのに、基地問題は何一つ解決していないのである。

 ところで、氏が「沖縄ノート」で、沖縄戦における2つの島(座間味島と渡嘉敷島)の住民の集団自決は日本軍の命令によって強いられたと書いていることが、一方の島の守備隊長だった本人ともう一つの島の守備隊長の遺族から、それは偽りであり名誉毀損だとして訴えられたという。(その新聞の記事を見てみたが、それには「存命中の女性が『軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証した』と話したことが明らかになっていると。)

氏は、その告訴を後押ししているのは、おそらく藤岡信勝氏ら(「新しい歴史教科書をつくる会」等のメンバー)であり、それには喜んで受けて立つつもりだ。たとえ守備隊長は言葉では言わなかったとしても、命令を下したことには変わりはない。住民一人ひとりに手榴弾が配られて集団自決したのは事実なのだから、と語られた。(氏がその告訴のことを知ったのは、その日、山形新幹線に乗ってくる車中でのこと。隣に座った客が開いていた新聞をチラッと見たら、それは産経新聞で一面に「大江・・・」という見出しが出ていたのだという。それでその新聞の持ち主に・・・と、その話も笑わせた)

戦争が終わって新たに制定された憲法、そして教育基本法のことを知ったその年、氏は12歳。「国際平和を誠実に希求する」とか、「真理と平和を希求する」などの言葉を覚えて、母親にたいして何かご馳走を「希求する」とか、何かにつけてその言葉を活用したものだという。

 氏は、この憲法と教基法をもとに「人間らしさ」の力によって子どもも国も真直ぐ立って歩み続けられるようにする教育・平和・福祉を希望しながら70歳まで生きてこられ、この先、あと10年かそこら、といっても、息子さん・娘さんもおられ、お孫さんもおられて、それぞれの人生が後に連なる。氏は勇ましそうなきつい言葉は使われずに、優しい言葉づかいで語られたが、その言葉の中に、今ここで憲法も教育基本法も改変されてはたまらない、反動を許してなるものか、という強い思いがうかがわれた。

 とかく、中国や北朝鮮・韓国に対しては勇ましいことを言いたがる、そのくせアメリカには何もいえない、そういう親米・愛国主義者たちによって、この先、教基法が変えられ、改憲され、国家・国益・軍事を優先する体制に変えられて、国民は、作家も教師も、国家や自国の歴史を貶めるようなことは大っぴらには何も書けなくなり、教えられなくなって、忍従を強いられ、住民・弱者・障害者が犠牲にされる、そんなことになってはたまらない。それが大江氏の言わんとすることではなかったかと思われる。


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