米沢 長南の声なき声


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9条の法的性格
2024年03月14日

(1)社会規範には法規範と道徳規範とがある
 ①「法規範」(人間の外面的な行為を規律し、手段・方法・結果のみで当否を客観的に判断され他律的に法廷で裁かれる)
 ②「道徳規範」(人間の内心に生じる行為の動機や意図する目的の良し悪しを律し、自律的に良心によって裁かれる) 
(2)法規範には行為規範と裁判規範とがある
 ①「行為規範」―社会生活において一般人が通常行うべき、または守るべき規範(法規範・道徳規範・習俗・マナーなど。国会議員など公務員に対しては倫理規則も)。 
 ②「裁判規範」―裁判所において具体的な訴訟を裁判する際に基準とする法規範
  ジュネーブ諸条約などの戦争に関する国際法規範は、明文で規定されていながら、必ずしも確定的な基準を持つわけではないが故に、ある戦争に伴う行為が一概に国際犯罪とは断定できない(不確実性がある)としても、それは行為規範として(総合的に)遵守さるべきものとして適用され、逸脱が許されない強制規範であると考えられる(参考―     
『世界』1月号に掲載の「国際法と学問の責任」―根岸陽太・西南学院大学准教授)。
(3)憲法規範には「理想的規範」と「現実的規範」とがあり、
 ①「理想的規範」―為政者に目標を示す理念性―法的拘束力は必ずしも持たない(?)
 ②「現実的規範」―現実に行われ遵守され法的拘束力もつ実定性―為政者を直接的に拘束する
(4)9条の法的性格について諸説あり(インターネット掲載のWeblio辞書より)―
 ① 法規範性はなく理想的規範に過ぎない、とみる説
 ② 法的規範性はある裁判規範性は極めて希薄である、とみる説
 憲法規範(その規範的性格は各条項の間で同じではない)には「裁判規範」と「政治規範」とがあり、9条は高度に政治性を有することなどから裁判規範性が極めて希薄な「政治規範」であるとする。
  例―砂川事件(1957)―在日米軍の立川基地の拡張に反対するデモ隊で基地内に侵入した者たちが逮捕され、日米安保条約に基づく行政協定・刑事特別法違反で起訴された事件。一審(東京地裁)の判決では「日本政府が米軍駐留を許容したのは憲法9条2項によって禁止される戦力の保持に当たり違憲である」として全員無罪。ところが、最高裁判決では「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、一見して極めて明白に違憲・無効と認められない限り、その内容について違憲かどうか法的判断を下すことは出来ない」として一審判決を破棄、有罪に。
 これは、要するに「高度に政治性を帯びた国家行為には司法審査は及ばない」ものとして裁判所が判断を避けるやり方で、所謂「統治行為論」。
 ③ 法規範性も裁判規範性も認められる、とする説
 ④   〃    〃    〃    が、国際情勢等の著しい変化により、「憲法の変遷」を生じているとする説

 芦部信喜(戦後日本の憲法学界を牽引)の憲法9条学説(2023年11月21日付「赤旗に掲載された麻生多聞・鳴門教育大学教授の寄稿『憲法学の泰斗生誕100年』から)。
 彼の元々の憲法9条学説―9条の禁ずる「戦力」を「軍隊および有事の際にそれに転化しうる程度の実力部隊」とし、自衛隊はその実態から「戦力」に該当し違憲。
 国家固有の自衛権まで放棄されてはいないという前提で、「武力なき自衛権」による安全保障という形―その(9条に適合的な国防)の方法は「外交交渉による侵害の未然回避、警察による侵害排除、民衆が武器を持って対抗する群民放棄」―になると(そのような9条解釈が「大多数の学説」だった)。
 そこには「9条と自衛隊の両立」(規範と現実の矛盾解消)という課題があった。
 ところが、高柳賢三(法学者、鳩山一郎・岸信介など歴代内閣の下で憲法調査会長)の「政治的マニフェスト説」―「憲法規範としての9条は(『平和の意思』を表明した国際的政治マニフェストとしての理想的規範で)、為政者の理想ないし目標として為政者に戦争廃止、非武装主義実現への努力を促すが、現在の国際情勢下、外国からの侵略の脅威に対し戦力を持つことを為政者に禁止していない」とし、「9条の理念の世界への発信とともに、必要最小限の自衛力も当分の間、暫定的に認める」という立場であった(上記(4)の①の説に近い)。
 これに対して芦部―高柳説を「憲法が現実に行われ遵守されるという実定性を重視するあまり、その理念性を無に帰するものであり、強い理念性が求められる憲法において、理想をうたい政策を宣言する規定は、理念的だからと言って為政者への一定の法的拘束力を妨げられるものではない」と批判をしていた。(その頃、国連平和維持活動に関するPKO協力法の成立があって、世論調査では自衛隊海外派遣肯定派が6割を数えた。)その3年後(1995年、長野県伊那北高校での講演で)、自身の9条解釈の変更可能性に触れ、高柳の「政治的マニフェスト説」を取り上げ、その今日的意義が再検討されるべきであることを明言したのであった。それでも「不戦の誓い、非武装の理想、これを堅持する」(そのことによって、戦争で尊い生命を絶った犠牲者の方々、鎮魂の誠を捧げる道が開かれるのではなかろうか)」と云って講演は結ばれたという。それを「必要最小限の自衛力」、すなわち自衛隊の存在を認めながらも、9条を守ることにこだわったものと見る立場がある。
 しかし、今や、政府が敵基地攻撃能力の保有を宣言し、芦部が向き合った「規範と現実の矛盾」がさらに深刻化している現在、「必要最小限の自衛力」を認めず、9条を守ることにこだわるものとして、芦部が元々立っていた憲法9条学説は、もはや多数説とはいえないまでもなお健在であると(麻生教授)。
 それを「必要最小限の自衛力」(すなわち自衛隊の存在)を認めながらも、9条を守ることにこだわったものと見る立場には、長谷部恭男教授の(9条は条文を文字通り解釈する文理解釈そのままの「準則」ではなく、原理・原則を定めたものとし、必要最小限の自衛力を持つこと自体は違憲とは見なさない、といったような)言説もあるのでは。

麻生教授は、「武力なき自衛権」による非軍事的安全保障論として、米国の政治学者ジーン・シャープの「市民的防衛」論に着目し、「9条に適合的な国防の方法」をこれに求めている(侵略・侵害に対して「民衆が武器をもって対抗する群民放棄」すなわち武装市民の武力抵抗は、大量の犠牲者を伴うだけでなく、敵軍の(装備・訓練・戦法に勝る)軍事力に対して市民が武力で応じても勝ち目はない、そのような武力抵抗は避け、むしろ戦略的有効性に勝る非暴力抵抗戦略で対抗したほうが賢明だというわけ)。


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