米沢 長南の声なき声


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9条を自分で空洞化させておいて
2016年02月01日

 衆院予算委員会で稲田自民党政調会長が「憲法学者の多くが素直に文理解釈すれば自衛隊が違憲である9条2項は現実とまったく合わなくなっている。このままにしておくことこそ立憲主義を空洞化する」のでは、と質問、安倍首相は「7割の憲法学者が自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況を無くすべきではないかという考え方もある」と答弁し、9条改定による集団的自衛権の行使容認や国防軍創設を明記した自民党改憲草案について「将来あるべき憲法の姿を示した。私たち手で憲法を変えていくべきだという考えで発表した」と。

 たしかに憲法学者には自衛隊の存在を違憲とする人が多い(昨年、朝日新聞による憲法学者へのアンケートでは63%)、それに対してこれまで歴代政府(内閣法制局)は「自衛の措置は国家固有の権能の行使」であり、「自衛隊は必要最小限の実力組織だ」として合憲解釈、最高裁は砂川判決で日米安保条約に基づく米軍の日本への駐留を「9条は我が国が平和・安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない」とし、「我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」として合憲判断。
 その自衛隊に海外に出て行くことを(PKO協力法、周辺事態法、テロ特措法、イラク特措法、海賊対処法などで)次々と認めてきたが、専守防衛(個別的自衛権の行使だけ)に限定し、朝鮮有事では直接日本への武力行使前でも米軍に後方支援ができるとか、インド洋やイラク等への海外派遣に際しては非戦闘地域に限定し、武器使用は正当防衛・緊急避難だけに限定してきた。
 その憲法解釈には①文理解釈という文字通り解釈する考えと、②解釈に幅を認める考えとがあるが、歴代政府は②の立場で解釈の幅を広げてきた。それでも、論理的整合性・法的安定性にこだわって(自衛隊には交戦権はなく国際法上の軍隊ではない等)曲りなりにもその限度を守ってきた。
 ところが、今や、その自衛隊に閣議決定で集団的自衛権の行使まで(「限定的に」とはいえ)容認し、安保法制を作り変えて(これまでの地域限定・時限・支援内容の限定・武器使用などの制限を取り払うか、緩和して9条を完全に空洞化(骨抜き)した。
 それを自らやっておきながら、9条は空洞化したから、現実に合わせて改憲すべきであり、「それをそのままにすることこそ立憲主義の空洞化」だというわけである(本末転倒、あたかも「スピード違反や駐車違反をしておいて、違反とならないように道交法を変えろ」と言ってるようなご都合主義)。このような筋の通らない改憲正当化論にごまかされてはなるまい。

 ところで、長谷部恭男教授や杉田敦教授らは②の立場で、9条は文字通り実施さるべき準則ではなく、理念を実現する政策の方向性を示す原理を定めたもので、「幸福追求権」を定めた13条、「生存権」を定めた25条、「表現の自由」を定めた21条(ヘイトスピーチや猥褻表現など無制限な自由を認めているわけではない)などと同様だとする。憲法学者でも彼らは、従来の(安保法制改定前の)自衛隊は合憲として認める考え。この立場からすれば、自衛隊は従来のままの「非軍隊」にとどまる限り、9条が空文化しているとも、立憲主義が空洞化しているとも言えず、改憲する必要はないわけであり、現にこの立場から安倍政権の解釈改憲にも、明文改憲にも反対しているわけである(杉田教授は9条2項の「戦力不保持・交戦権の否認」を削除することはもとより、同条に個別的自衛権を明記したうえで、それ以上拡大解釈できないように「集団的自衛権は行使しない」などと新規定を加える必要もない、なぜなら、そのような条文を加えても、「それはフルスペックの集団的自衛権を意味しており、集団的自衛権一般を指しておらず、『限定的に行使』なら許されるなどと意訳されてしまうからだと)。

 <参考>『世界』15年8月号(長谷部恭男「安保法案はなぜ違憲なのか」)、同誌16年1月号(「杉田敦「憲法九条の削除・改定は必要か」)


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