米沢 長南の声なき声


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チベット問題
2008年04月21日

 マスメディアの論調とは別に、(中国側とダライ-ラマ亡命政府側の)一方をひいき目で見たり、イデオロギーからの予断(先入観で判断)はひかえて、出来るだけ客観的な立場で記述することにしたい。
ソース(出所)は主として次の書籍。
 石濱裕美子(早稲田大学教育学部助教授)著「チベットを知るための50章」明石書店
 王柯(神戸大学国際文化学部教授)著「多民族国家 中国」岩波新書
 ツルティム-ケサン(大谷大学仏教学部教授),正木晃(白鳳女子短期大学助教授)共著「チベット密教」ちくま新書
 A・T・グルンフェルド著(八巻佳子訳)「現代チベットの歩み」東方書店
 ブリタニカ国際大百科事典(第12巻)
これらからまとめたものにすぎないのだが。
1、チベットの風土
南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈に囲まれたチベット高原(平均高度3,800mのいわゆる「世界の屋根」)。無人の荒野から鬱蒼とした森林にいたるまで多様な風土。
 人々の主たる生業は農業―畑作、作物はネー(裸麦の一種で主食のツァムパの原料),麦,豆,菜の花(油を採取),ジャガイモなど。家畜はヤク、羊、馬、牛も(遊牧民は、今は定住?)
 自給自足は不可能、貿易網が必要
2、中国・チベット関係史
 1950年の中華人民共和国のチベット派兵とその後の統治は、かつて日本が朝鮮(それまで、清などの藩属国となっていたことはあっても、日本に服属したことはなく、日本に対しては独立国だった国)に対して行なったのと同様、侵略であり、植民地支配だという言説があるが、はたしてそうか。チベットは中国に対して歴史的に独立国だったと言えるのかどうか。
 また、中華人民共和国による「解放」は、既得権が奪われた旧支配層は別として、大多数の民衆にとって解放(自由人権と福利獲得)ではなかったのかどうか、以下、歴史を振り返ってみたい。
 
紀元前(漢の時代以前)、中国西部方面にあって「」や「」と称されたのがチベット族
7C初(唐の時代)ソンツェン-ガンポ王―初のチベット統一王朝(吐蕃)樹立、チベット文字を創始、仏典訳→チベット仏教(先行のボン教と抗争・融合)
8C後半 吐蕃、最盛期6代目国王(ティソン-デルツィン)、一時、唐の都(長安)を占領、チベット初の僧院(サムイェ寺)を建立
9C 吐蕃、分裂―地方諸侯、割拠
13C(モンゴル帝国・の時代)チベット人はモンゴルに服従
チベット僧パスパ―フビライ-ハンから重用され、チベット支配権を委ねられる
14C(明の時代)
15C初 ツォンカパ、チベット仏教ゲルク派を創始
モンゴル人のタタール部族長アルタン-ハン―ツォンカパの一高弟の曾孫(ソナムギャツォ)にダライ-ラマ(3世)の称号を与える。
17C(明代末)モンゴル人のオイラートの一部族長グシ-ハン―ダライ-ラマ5世に全チベットの統治権を献じる。                     
ダライ-ラマ5世― ポタラ宮殿創建、師を初代パンチェン-ラマ
(清の時代)清朝の庇護下にダライ-ラマのチベット支配体制(政教一致制)、確立
18C 康熙帝―モンゴル人のジュンガル部をチベットから追い払い、ダライ-ラマ7世を帰還させる。(ダライ-ラマの宗教的権威を利用へ)
雍正帝―チベット内乱で清軍を派兵、駐蔵大臣を定期的に派遣
乾隆帝―チベットを藩部に―理藩院の監督下に自治を認める。
    ダライ-ラマとパンチェン-ラマの選出方法(「金瓶」でくじ引き)を制定
    外交・防衛は清朝が引き受け(間接統治)    
チベット政府の要請うけ、ネパールのグルカ人の侵攻撃退
19C(アヘン戦争以後)清朝のチベット支配、弱体化して名目だけに。
イギリスがチベットに進出。
1880 英領インド軍、チベット侵入
1890 イギリス―チベットでの通商特権とチベット・英領インド国境問題で清朝政府と交渉  通商協定(チベット政府は無視)
20C
1903 英領インド軍、チベット侵入、ラサ占領 
1904 チベット・インド条約―イギリス、チベットを独占的に影響下に置く
1906~7清朝政府、チベット政府のイギリスに対する賠償金を肩代り
1909 清朝軍、ラサに再進駐―ダライ-ラマ13世、インドに亡命(イギリスの保護下に)
1911(中国で辛亥革命―14省独立を宣言、清朝滅亡、中華民国,樹立)チベット駐屯の漢族部隊も反乱、満州族の駐蔵大臣は廃止。
孫文、「漢(漢族)・満(満州族)・モンゴル・回(イスラム教徒)・チベットの五族が一つに」「すべての五族の民衆は兄弟なり」と。
1912 ダライ-ラマ13世、帰還、チベット独立を宣言。漢族、引き上げ
1913 イギリス・中国・チベット3国代表会議―チベット政府、英領インドとの国境線(マクマホン・ライン)に同意(中国政府は認めず)、チベットの宗主権は中国からイギリスに(事実上、イギリスの保護領に)。
1914 中華民国約法―「中華民国の領土は、以前の帝国の領域に基づく」と。
1917 中華民国軍、東チベットに侵攻  休戦協定
1924 国民党全国代表大会―各民族の自治権を承認、「中国領内の各民族が一律に平等であること。少数民族の権益は尊重されるべきもの。但し、国家利益に比べると、少数民族の権益はあくまで二次的なもので、国家の利益に服従すべきもの」と。
1927 蒋介石、ダライ-ラマ13世に(書簡で)「中国の一部」になるよう求める。
1930 ダライ-ラマ13世、「自分が心から最も望んでいるのは中国の真の平和統一である」と。
1934 中国共産党の「中華ソヴィエト共和国」臨時政府―連邦制の導入を提唱、「少数民族の自決権および各弱小民族が中国から離脱し、独自の国家を樹立する権利を有することを承認」
1940 ダライ-ラマ14世、(4歳で)即位
1941 国民党中央委員会が「国内各民族および宗教間の融合団結を通じて、抗日戦の勝利および建国の目的を達成するための施政要綱」を発表
1946 中華民国憲法―「チベットの自治制度は保障しなければならない。辺境地域の各民族の地位については、法律上において保障し、その地方自治事業において特別に援助する」と。
[これら中華民国時代―軍閥抗争・国共内戦・日中戦争―を通じて、チベットには中国政府の力はほとんど及んでいなかった]
1949 中華人民共和国、建国、新中国政府、チベット解放を宣言。蒋介石の国民政府は台湾に。
1950 パンチェン-ラマが毛沢東にチベット解放を要求
毛沢東「少数民族地域の風俗習慣に対する改革は可能であるが、しかし、このような改革は少数民族自身の手でやらなければならない」と。
人民解放軍、チベット進駐。チベットの「国連の介入」訴えに対して国民政府代表とソ連代表は、「チベットは中国の一部分であり、したがって本件は中国の内政問題であって国連に介入の権限はない」と主張、イギリス代表はチベットの法律的地位は明確でないと発言、インド代表は、本件が外交交渉によって解決され、チベット自治は保持されるであろうと。(チベットの訴えは棚上げへ)
1951 チャムド戦役―チベット政府軍、降伏
ダライ-ラマ(前年15歳から親政)避難先から帰還、「チベット解放協定」に同意 (中国の宗主権(軍事・外交権)を認めること、チベットの自治権、ダライ-ラマの地位とともに維持、チベットの宗教信仰の自由を認め,ラマ教寺院を保護、チベットの風俗習慣を尊重 etc)
「全国民族教育会議」―「小中学校の各教科授業では必ず自民族の文字を使わなければならない。少数民族学生に対する漢語の授業の開講は少数民族の意志にしたがって決める」と。
[チベットでは、諸侯貴族の特権の廃止は歓迎されるが、寺院・僧侶に改革の矛先が向かうと人々反発]
1952 中国政府、「民族区域自治実施要綱」発表―各民族が各自で区域自治
原則―「民族団結」「民族平等」(問題は「大漢族主義思想」対「地方民族主義思想」で、それぞれの側が相手の思想を批判、しばしば差別事件)
1954 憲法に「自治区」「自治州」「自治県」それぞれの「民族区域自治」を定める。
第1回全国人民代表大会―ダライ-ラマを副委員長に選出
1956 チベット自治区準備委員会―ダライ-ラマ(「自治区」に反対)を委員長、パンチェン-ラマを副委員長に
東部チベットで反乱→ゲリラ戦(アメリカCIA支援)
1959 ラサで騒乱、中国軍、武力行使―死傷者(漢族・チベット族双方合わせて)10万人?(不確かな推計で当てにはならない)、難民は8万人とも。ダライ-ラマは脱出、インドに亡命政府(インド政府、受け入れ、難民チベット人に入植地提供)
中国政府、ラマ僧に対して寛大な説得方策から強硬策へ転換(行動の自由制限へ)
1961 中国政府、チベットにおける民主改革・土地改革(政教一致制と封建領主支配制度を廃止、土地買い上げ、農奴解放、農地分配)へ
1962 中印国境紛争(「マクマホン-ライン」をめぐって)
1965 「チベット自治区」正式に成立―パンチェン-ラマが主席、実権は張国華が
1966 「文化大革命」―中国共産党内の急進派(資本主義容認反対派)の奪権闘争―中国全土に動乱、チベットでも急進的学生ら「紅衛兵」による寺院乱入・破壊
1976 「文化大革命」収束(文革派失脚、鄧小平ら復帰)
1977 中国政府、ダライ-ラマの帰国呼びかけ
1978 鄧小平(改革・開放路線―中国を資本主義化)ダライ-ラマと対話へ(兄と会見、代表団と接触)―チベットが中国の一部であることを認め、独立要求の放棄を求める。
1984 ダライ-ラマの帰国について代表団交渉―亡命政府内部で反対され実現せず。
1986(4回、会談)中国政府はダライ-ラマが本心を言わないとの理由で代表の5回目訪問は拒否
1987 ダライ-ラマ、アメリカの下院議会での演説で5項目和平プラン
①チベット全土を非暴力・平和地帯に
②中国人の大量チベット移住を禁止
③チベット社会の人権と民主主義・自由の尊重
④チベットでの核兵器使用・核廃棄物処分の禁止
⑤将来のチベットの地位、中国との関係について交渉を始めること
ラサ市内でラマ僧が暴動
1988 ダライ-ラマ、フランスで「ストラスブール提案」―
・連邦制をとる
・中国政府はチベットの外交の責任をもつが、宗教・商業・教育・文化などの分野ではチベット自身が他の国と関係を結び、国際組織に参加する
・チベットの社会的経済的制度は国民の望みに沿う形で定める
・チベット政府はチベットとチベット族に関する全ての事柄に決定権をもつ
・チベット人の国民投票で指導者と議会、司法官を選ぶ
・チベットを非核地域・自然保護地域・非武装化地域に            ―などのことを提案
中国政府は、それらを、チベットを独立国家と位置づけていると見て、交渉拒否。
1989 パンチェン-ラマ10世、急死。転生者の決定めぐって中国政府とダライ-ラマが対立。ラサ市内でラマ僧が再び暴動、解放軍出動、ラサに戒厳令
ダライ-ラマ、ノーベル平和賞を受賞(「非暴力」が評価される)
1991 ジョージ・ブッシュ大統領、ダライ-ラマと会談
1995 11代目パンチェン-ラマを(ダライ-ラマが先に認定していた者とは違う人物を)中国政府が認定
1990年代末から、ダライ・ラマ、「高度の自治を対話を通じて求め、政教一致制の廃止も可能だ」と中国政府にメッセージ。
2000 「西部大開発」開始
2002 ダライ-ラマ、兄を北京に派遣、中国政府と対話再開、「一国二制度」の導入を要求して暗礁に。
2003 インド首相、訪中、「チベット自治区を中国の一部」と認める。
2004 ダライ-ラマの代表―再度、北京入り
2006 青海・チベット鉄道開通
2008(北京オリンピックの年)チベット暴動カ→聖火リレー通過各国で、亡命チベット人とその支援・人権団体が、中国政府の対応を「人権弾圧」として非難・抗議行動。ダライ-ラマは「中国からの独立は求めない」としながらも「チベット人による完全自治、外交・防衛のみ中国政府に」と。

 以上、年表式に羅列したが、こうして概観してみる限り、このような歴史からは、中国とチベットとの関係は、かつての日本と朝鮮・満州・台湾との関係(侵略・植民地支配と被侵略・被植民地支配の関係)と同じだなどと単純には云えないだろう。
3、廃止前の封建領主支配制度
農地・牧地はすべて政府・僧院・貴族が荘園として領有
領内の農民は農奴(領主の許可なしに土地を離れることできない)―地代、各種の税を負担、労役も。同じ農奴でも貧富階層に分かれ、奴隷(私的な家事使用人として隷属、売買される)やアウト-カースト(屠殺人・葬儀人、漁民・金物職人・鍛冶屋・楽士・芸人など)も存在
僧院―政府から寄進を受け、個人から喜捨・布施(寄付)を受ける。
   交易・金融も営む
大僧院・教団は自治権もつ
4、廃止前の政教一致制
代々のダライ-ラマ(法王)―「菩薩の化身」と見なされる―どこかの子供の中からこれという者を探し出して現ダライ-ラマの転生者(後継者)に仕立て上げる―政治と宗教両権の頂点に(成人になって親政を行なうようになるまでは摂政が代行)、その下に宰相と数人の大臣―内閣
 官僚―聖俗二つあるうち、聖界部にはすべて僧官、俗界部には僧官と俗官
各地の有名寺院に独立司法権
僧侶―ほとんどの家庭から少なくとも一人―チベット総人口の1割(現、亡命政府下ではインドでは2割)
   幼いうちから寺院に入る
   納税の義務なし
   高僧は活仏・転生者(前の高僧が、死んだ後に、この世に再生)
パンチェン-ラマ―ダライ-ラマに次ぐ活仏。9代目以来、中国政府と友好関係
ダライ-ラマとパンチェン-ラマ両者は、お互いに相手の転生者(後継者)を認定(11代目の現パンチェン-ラマは中国政府が認定)
5、各少数民族の自治機関 
人民代表大会(審議機関)―その常務委員会の主任または副主任
人民政府(執行機関)―自治区主席・自治州長・自治県長      いずれも民族出身者から選出         
全国人民代表大会の少数民族代表428名―代表総数の14,36%
全国政治協商会議の少数民族委員257名―委員総数の11,7%
               それぞれ全人口に対する少数民族の比率を超えている
自治権:自治条例を作る立法権
    国家法令を少数民族である自らの特徴に合わせて一部変更する権利
    少数民族の言語文字を公用語とし、民族教育や文化を発展させる権利
    少数民族出身の幹部(民族学院で養成)を登用する権利
    財政や税収における自主権と優遇を受ける権利    etc
国から→少数民族地方補助金・少数民族基金 
普通地域より高い財政予備金
ただし、自治権は国の政策に抵触してはならない、という原則
6、チベット仏教
 いくつかの宗派教団があるが、ダライ・ラマの教団(ゲルク派)が主流。
どちらかといえばインド仏教の方に近く、中国仏教や日本仏教とは隔たりがある。
 密教の要素が大きな部分を占め、呪術的・秘儀的色彩が濃い。しかも、日本密教などでは行われない性的ヨーガ(性行為を導入したヨーガ)が解脱を得るための行(それは修行者の生命力を活性化するために不可欠)として重視される。これは仏教の戒律とは相容れないもので、ゲルク派では、それは「観想」の上で(想像上の女性パートナーと)行われるものだとして、文字どおりの実践は禁じている。大谷大学のツルティム・ケサン教授らの前掲書によれば、「インド・チベット密教の研究者のあいだでも、性的ヨーガにまつわる領域は、世上の関心とはうらはらに、ほとんど未開拓のままである。とくに実践中における心身生理の様態と変容はまだまだわかっていないといっていい」とのこと。
 同書によれば、近年日本で惨劇を起こした麻原らのオウム真理教は、その理論・修行法(神秘体験・瞑想法)をモデルとしていたが、「チベット密教に関する彼らの知識は極端な偏りがある。」

  殺生禁止、ただし肉食はOK、動物の生にえ、まれには人身御供(犠牲)も
「業」(カルマ)の考え方―身分・境遇は当人の前世における行いのせい(農奴だったら、それは領主が悪いのではなく、本人の前世で犯した何らかの罪のせい。富を享受するのは前世で気前がよかったからであり、貧困は前世のケチによる)、その境遇から逃れようとしてあがくことは、今よりもっと酷く自らを苦しめることになるのであり、この世に満足してこそ、来世に利益と―農民反乱が起きなかった原因―それは禁欲主義とともに、このような「業」の信仰によるのでは(グルンフェルド教授の見解)。

7、中国政府の宗教政策
基本: 「宗教信仰の自由の尊重」
    「独立自主の方針の堅持」―国外の「反中国勢力」が宗教を利用して中国の内政に干渉することを防ぐ
 憲法に「公民は宗教信仰の自由があり、いかなる国家機関・団体や個人も公民に強制的に宗教を信仰させたり、放棄させてはならない」「いかなる人も宗教を利用して社会の秩序を乱し、公民の身体健康を損ない、国家の教育制度に基づく教育活動を妨げてはならない」「宗教団体と宗教事務は外国勢力の関与を受けてはならない」と定める。
 刑法に、巫術・妖術・占い・手相見・人相見・魔術などの超自然的活動の禁止
中国政府は、少数民族に宗教信仰を保障するが、宗教を利用して「人民を分裂させ、国家を分裂させ、社会の安定や各民族の間の団結を破壊する民族分離主義、非合法的行為やテロを起こす」ことに断固反対する、と表明している。
「民族区域自治法」をはじめ、「民法」・「労働法」・「義務教育法」・「人民代表選挙法」にも、宗教が国民の労働の権利、義務教育を受ける権利、政治参加の権利を妨げてはならない、と明記
 「活仏転生」(高僧の後継者選定)に認定制度を導入―事実上、ダライ-ラマやパンチェン-ラマを中国政府が選定―これが反発を招く

8、西部開発
漢民族と少数民族の「共同繁栄」―経済統合(全国統一市場の形成)、格差是正をめざす
インフラ整備―本土と結ぶ道路網・空港、ダム・水力発電・水利施設など
         青海・チベット鉄道  
開墾―耕地拡大
ラサ市の西と北の郊外に工業区、地方の町にも中小工場
各地に小学校、ラサと北京にチベット仏教の専門大学
少数民族地域のための人材育成―2000年から中国の主要な都市の高校に「新疆クラス」とともに「チベット・クラス」が設けられ、そこで学ぶ学生の学費・生活費・旅費を中国政府が全額負担、チベット人科学者・技術者を養成
テレビ・ラジオ受信施設
近代的病院・医療施設・衛生所            
文化・スポーツ・娯楽施設―劇場・映画館・体育館  など建設
中国政府による財政援助―固定資産投資―年に14,9%の伸び
GDP増加率―1999年7,2%
      2000年8,5%
      01年8,7%
      02年10,0%
      03年11,3%
      04年12,0%  (これらのデータは岩波新書「多民族国家 中国」による)
コミュニケーション手段―漢語、 経済活動のチャンス―チベット人に不利(「掃除夫」などしか?)、不公平感
漢族住民の増加→少数民族との摩擦            
観光地化
自然環境破壊
9、チベット社会の現状
チベット人の人口―総計541万6千人  チベット自治区に45,6%(247万人)、 四川省に23,2% 青海省に19,8%、甘粛省8%、 雲南省に2,4%、インド(ダラムサラ中心)に亡命者・難民10万人
農奴などの身分から解放された民衆、官僚に抜擢された人々など―既に40年以上たっていて既得権を得ている
独立運動は「民衆の間で広く支持されていない。民衆の経済的状況と生活水準がめざましく向上しているからである」(王柯神戸大教授)
僧侶―地位ある者の多くはダライ-ラマにならってインドに脱出
寺院・僧侶の数は、ダライ-ラマ亡命当時より上回っている
1980年代以降、中国政府が大蔵経の出版、ポタラ宮殿はじめ寺院修理に大量資金投入
環境保全―「退耕還林」「退牧還草」―草地・耕地を戻す事業、植林
鳥葬―遺体が残留農薬・食品添加物などの大量摂取でハゲタカが食べなくなる?
10、今回の騒乱事件―その全貌・真相は?
破壊・暴行の加害者はどういう者たちか、警察・軍隊・僧侶・一般人のいずれか、その人数は?それに対して被害者・死傷者はどういう人たちか、僧侶・一般人・警察官・兵士・チベット人・漢人のいずれか、襲撃・放火・破壊されたのはどういう施設・物件か、僧侶・僧院、政府庁舎・警察の派出所その他公共施設、ホテル・店舗など民間施設のいずれか、それぞれその数は?
「計画的」か「成りゆきで」か。
背後で指示・命令あるいは策動した者は中国政府関係者かダライ-ラマ亡命政府関係者か、それとも「チベット青年会議」関係者その他か?
 これらについては、中国政府側とチベット亡命政府側またはNGO「チベット人権民主化センター」とで全く異なる発表を行なっており、現場状況の映像などの報道(解説)も、CNNやワシントン・ポストなど西側メディアと中国メディアとでは全く異なり、互いに「歪曲報道」批判をやり合っている。日本のメディアのほとんどは、非は中国政府の方にあり、被害者はチベット仏教徒たちだ、との論調。
 そして聖火リレー通過各国での妨害行為も含めた中国政府に対する抗議行動に好意的、とりわけダライ-ラマに対して好意的な論調が支配的のようだ。
 これから聖火を長野に迎える日本では、善光寺が境内の使用辞退を求め、その理由を「チベット人の人権への弾圧が行なわれていること」「チベットで中国側が無差別殺人を行い、それに対してチベットの仏教徒が立ち上がった。その仏教徒に対する弾圧を憂慮した」からだとしている。
 しかし、このような断定ははたして正しいのか。客観的で確かな根拠に基づいているのか、現地で自らその目で確かめたうえでの判断なのか。どうも解らないわけである。
 ただ、それが中国政府の情報の統制・非公開のために解りようがないという、その点での中国政府のやり方に問題があることは確かだろう。
 いずれにしろ事の真相・全貌が明らかされなければならず、国連などの公平な機関による調査と検証もあって然るべきと思うが、中国政府は「国内問題に介入すべきではない」といって、それを突っぱねるのであれば、ますます諸国民の不信をかうことにならざるを得ないだろう。

11、現在のチベット難民とダライ-ラマ・亡命政府
ダライ-ラマ―(本人の言葉では)中国に対しては「宗教の自由やチベット文化の尊重とともに高度の自治を求めてはいるが、分離・独立を求めてはいない」「政教一致制の廃止も可能」だとし、北京オリンピック支持。
社会主義も肯定、「私は、今の中国の指導者たちよりも、ずっと左翼系ですよ」とも(東京工業大学准教授の上田紀行―昨年12月、本人と対談)。
非暴力、対話による解決を提言。
 若い世代はそれに飽き足らず、「チベット青年会議」など5団体は「チベット人民義起運動」
それに対する中国政府側は不信・不寛容。ダライ-ラマ(その代理人)との対話は再開へ

中国と西側諸国の政府・メディアとも互いに不信感―グルンフェルド教授(ニューヨーク州立大学)によれば「(1950年代の反乱にまつわる)事件に関する中国の説明に対する西欧の不信は、中国側の外国人嫌いと世界のメディアへの不信感を強めただけだった」とし、
 日本も含めて西側のメディアは、ダライ-ラマを賛美、チベット難民に同情的。「大がかりな報道キャンペーンによって、中国が悪役に見えたとしても、ほとんど驚くに当たらない」
と。
 しかし、どの国の政府も(亡命政府を受け入れているインドも含めて)、チベットを一つの独立国家として公式に承認した国は、これまで存在していない。


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