米沢 長南の声なき声


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大阪ダブル選挙の争点は、本当は何なのか―民主主義(加筆)
2011年11月21日

 マスコミは専ら橋本前知事の大阪都構想の是非が最大の争点であり、あとは橋本氏の手法をめぐる問題であるかのような矮小化した取り上げ方をしている。しかし、本当のところは何が問題なのか。
 当米沢の我々にとっては大阪都構想などあまり関係のない話だが、橋本氏の政治手法の問題―「独裁」の話しになると黙ってはおれない。その上、その独裁的手法によって彼ら(維新の会)が強行しようとしている教育基本条例と職員基本条例、これらにも黙ってはいられない。こんなやり方があちこちに波及して、どこでもそんな独裁的手法で行政運営・教育管理をやられたらどうなるのか。そうなると余所ごとではいられない。争点は、それら独裁的手法の是非、教育基本条例と職員基本条例の是非、それこそが最大の争点なのだと思われる。
 マスコミや評論家、恵まれた層の人たち、それに事の本質をあまり考えようとしない人たちはとかく、その手法で断固としてやり遂げた「改革」とその成果(単なる数量的実績)―府の財政赤字を解消させたとか―だけで、「よくやった」「たいしたもんだ」ともちあげがち。
 しかし、それによって切り捨てられ犠牲にされた大事なもの―庶民の生活・人権・民主主義―に対しては無頓着なのだ。

 君が代起立斉唱条例それに議員定数削減条例も、府議会で「何を話し合う必要があるのか」と問答無用で強行採決され、既に制定されてしまっている。

 その強烈な個性、過激な言動と強引な実行力によって「変革」をやり遂げるヒーローとして人気を博する。あたかも信長か秀吉の再来でもあるかのように。世の閉塞状況にうっぷんを募らせている庶民は、そのような人物に引き付けられるのだ。彼らに言わせれば、「独裁者?いいじゃないか、何が悪い」「逆らう方が悪い」「抵抗勢力に屈したらアカン」となる。 

 その背景―経済不況、就職難・格差・貧困など社会の矛盾噴出と閉塞状況。
そこから、わが身と子どもの将来への不安、政治や行政や教育などの既成のシステムとそれらの推進者・従事者(既成政党・議会・公務員・学校・教育委員会・教員など)に対する不信・不満・バッシングの蔓延。    
 それらを背景にして「ヒーロー」が登場、いわく「このざまはなんだ!」「日本を変えるために、日本全体のシステムを変えるために、この大阪からたちあがろう!」と。
  
 橋本氏―独裁を肯定―「日本の政治の中で一番重要なのは独裁」「独裁と言われるぐらいの力が日本の政治に求められる。政治はやっぱり独裁でなきゃいけない」と。
 知事と議会のあり方―選挙で勝ちさえすれば、何でもできる。議会は数の力で押し通せばよい。議論・話し合いなど不要(選挙で争った者たちの間でいくら話し合っても、話しがつくわけないのだからと)。
 橋本氏の率いる「大阪維新の会」―4月の選挙で、一挙に府議会で過半数、大阪市・堺市ともに市議会で第一党。
 それらの手法(ファッショ的独裁的手法)を肯定する向きが多い―
 争点を「大阪都構想」に賛成か反対かと単純化し、敵・味方を分け、自らを「改革者」とし、相手を「抵抗勢力」とか「既成政党」と言い立てる。(マスコミがそれに合わせる。朝日なども)―小泉元首相のように(「郵政改革」だけを争点にして、反対者を「抵抗勢力」と決め付けた)。庶民はそれを面白がる(「小泉劇場」)。

教育基本条例案―教育理念「グローバル社会に十分対応できる人材の育成―世界標準で競争力の高い人材を育てる」(教育を人格の完成―一人ひとりを人間として、また主権者国民として育てる―ためではなく、企業や国策に役立つ人材を育てるための教育に)。
  教育目標は知事が設定、従わない教育委員・教職員は罷免・処罰。
    知事の教育への政治介入を合法化―教育行政の政治的中立性(その役目は教育条件の整備にとどまり、教育内容には介入しないという原則)をくつがえす。        教育目標や教育方針は知事の選挙ごとに変わることになり、学校関係者は知事の意向や選挙の動向をたえず気にしなければならなくなる。
    教育委員会(この制度には問題があることも事実―戦後創設当初は住民の公選だったのが、首長による任命制に変えられた。但し、首長は、誰を委員にするかを決めて任命するが、それより先は口出しできないことになっている。ところが委員は専門家でもなく、非常勤。月に1・2回集まるだけの会議で、役所のつくった案をそのまま追認するケースが多くなってしまうので、「首長から独立」という強い権限が与えられている割には、十分な体制とは言えない、というのも事実)―その現状に不備があることを理由にしてその独立性を奪う。
    校長―公募で任期付き任用―予算要求権を与えられ、教員人事に関与。
       教育者としてよりも、首長が設定する目標の忠実な執行者としてのマネージメント(経営管理)能力が重視。
    教員を5段階評価(相対評価でS-5%、A―20%、B―6%、C―10%、D―5%に振り分けて評価―5%は必ずDにされてしまうことに)―それが給与・任免に反映、2回連続D評価されれば「指導研修」それでも「改善」見られなければクビ。
    教職員の職務命令違反―1回目は戒告もしくは減給、2回目は停職、5回目または同一の違反3回目には直ちに免職。
     (本来は、上司による教員への監督指導は強制力―法的拘束力―のない「指導助言」が相応しいやり方なのに、「命令」と。)
     (教員は生徒よりも校長の顔色ばかり気にするようになる。また教職員同士の協力関係と自由な(本音でつながる)絆が損なわれ、教育現場が萎縮するようになる。知事や校長などの目には「いい先生」でも、生徒にとって「いい先生」はいなくなってしまうということにもなる。)
     憲法(99条「公務員の憲法遵守義務」)よりも職務命令が優先。
     憲法が定める「思想・良心の自由」(19条)「学問の自由」(23条)それらよって支えられた「教育の自由」が奪われる。
    学力テスト、結果を学校ごと公表(序列化)―点数競争のさらなる激化を促す。(橋本知事が、「このざま(大阪が全国最下位)はなんだ」と言って、点数公表を迫ったのに対して市町村がそれを拒否したという経緯がある。)
    公立高校は3年連続定数(入学定員)割れすれば統廃合―学校が民間の会社のように生徒獲得競争へ―(長期的な視点にたった教育活動を充実させるよりも)人々の目に見えやすい短期的な成果(大学進学実績や非行・不登校の表向きの減少など)を追求する傾向を助長―進路が異なり、家庭的な背景や社会的条件の異なる子どもたちの多様な教育要求と矛盾。学校とは、学力も家庭環境も異なる多様な生徒がいて、一緒に学んで人間的成長を図るところなのに。それに学校というところには「地域の核」として住民をつなぐ役割もあるのに。)
     学区は撤廃―学校選択制―自由に学校を選ばせる―結果は自己責任に。
    学校協議会―委員は保護者及び教育関係者から校長が委嘱―①校長や教員を評価、②教科書の選定(推薦)に関して協議、③部活動の運営に助言―現実には保護者たちは忙しく、そんな時間的余裕はないので、結局は地域のボスが牛耳ることに。
     教科書の採択―校長が保護者と教育関係者(といっても教職員は除く)からなる学校協議会と協議して校長が推薦し、それを尊重して教育委員会が採択。(授業を直接担当する教職員の意向が入る余地まったくなくなる。)

 条例案をつくった起案者たちの考え・意識にあるもの―旧来の価値観・人間観・学力観―「強くて頭のいい人間」―エリート至上主義―まずは格差を受け入れてでも、秀でた者を育てる。
 企業の論理(競争主義など)を教育に持ち込む―競争で競わせて切磋琢磨することよって向上するのだとか、競争によって緊張が生まれ活性化するのだとか、厳しく追いたてて強靭な肉体と精神を鍛えるのだ、と。
 優勝劣敗・弱肉強食は自然の習いであり、勝者と敗者が分かれるのはしかたのないことだと。
 「私学助成が削減されると、私立高校に行けない子が増える。教育を受ける権利を奪わないで」と訴えた高校生に「日本は自己責任の国。いやなら日本から出て行くしかない」と。
 「人格形成だけでは生きていけない」といって、市場競争社会を生き抜くための競争的な学力・仕事力・生活力のほうを重んじ、生きていく根っことなる社会性・協調性・情緒的人間的成長・創造力など度外視。
 政治的中立の原則を否定―「教育が過度に政治から切り離された結果、国民の意見を反映させることができなくなった。結局、現場を支配したのは文部官僚。教育を無責任な官僚から国民の手にとり戻すのだ」と(坂井氏・「大阪維新の会」市議で条例案を練った人―朝日新聞)―市民から支持されて当選した知事は民意を代表する―その知事が口出しすることを通じて教育に民意が反映される。結果の是非は選挙で判断を仰ぐ。選挙で勝てば、自らの意見は(公約していないことや選挙で触れてないことまで)すべて市民から支持されたものとみなされ、民意を代表するものだ、というわけ。
 
 実状―大阪の教師の精神疾患の比率は全国平均の3倍、といわれる。

職員基本条例―職員は教員と同様に、5段階評価され、職務命令違反で処分されることに。
 (公務員は「全体の奉仕者」であって、住民の暮らしや福祉のために働く奉仕者であるはずなのに、知事への奉仕者になってしまうことに。)
 人件費削減をねらい、リストラ・整理解雇が可能となる。
 知事や上司にたいしてイエスマン・ゴマスリが増える一方、職場の自由闊達な雰囲気も士気も損なわれ、「全体(住民)の奉仕者」に徹しようとする真面目な職員の意欲が低下―住民にたいする公共サービスも劣化することになる。

大阪都構想―「大阪都」、だったら東京都と肩を並べられるようになるのかと、いかにも庶民の夢がかきたてられる(そこが着け目―イメージ先行)。
 大阪府の大阪市(政令指定都市で税収・予算規模が大で、府税収の中核をなす)との二重行政の無駄を解消するためにと、市(堺市も)を解体(特別自治区に分割、公選区長・区議会を設け)、市の権限と財源を取り上げて大阪都に一本化(「指揮官が一人の大阪」に)して権限と財源を集中させる。例えばカジノ構想など「僕(橋本)は賛成、平松市長は反対だが、大阪の方針はいったいどっちなのか、大阪都制度になればバチンと決まる」というわけ。
 (大阪がラスベガスのようなカジノ都市になり、その昔、信長や秀吉に抵抗した独立の気概溢れた堺の町は大阪市とともに消滅してしまうことになるわけだ。)
 「二重行政の無駄」―余計(不必要)な公共施設を建てるとか、余計な公共事業をやるとか、そのような無駄をなくするのはいい。しかし、そんなことは府と市それぞれが、その施設、その事業はどうしても必要なものか、余計なものか(他方に任せたほうがいいのか)互いに相手の考えを確かめ、或は打ち合わせて決めればいいだけのこと。そのためにわざわざ市を無くして「都」に一本化しなければならない必然性はあるまい。
 指揮官を都知事一人にして役所を都庁一つにし、議会も都議会一つにすれば、即断即決ができて効率がよく財政コストも省けるという理屈なのだろう。しかしそのことは何もかも(諸条例・諸方針)が一つの意志(一人の都知事・一つの都議会の意志)で決まってしまうということだ。
 橋本知事と府議会与党「大阪維新の会」議員の意志で、「君が代」起立斉唱条例と議員定数削減条例は既に決まって制定されてしまっている。そのうえ教育基本条例・職員基本条例が決まれば、都下の教育委員会・教職員・役所職員はすべて、それらの条例に従わなければならなくなり、これまでのように市長・市議会・市教育委員会がそれに反対し、それに相反することを決めようにも、その場がなくなってしまう、ということ。
 すなわち大阪都構想が実現すれば、一人の都知事とその翼賛議会ですべて決まってしまう独裁が貫徹しやすくなるということだ。

 教育基本条例・職員基本条例の両案とも、橋本前知事と「維新の会」が提案、現在は継続審議中。

 このダブル選挙で橋本氏と維新の会が勝てば、これらの条例案はすべて府民からも市民からも支持されたものと見なし、一気に強行採決して施行し、実行に移されるだろう。それに「都構想」が実現するようなことになれば、大阪市も堺市も無くなる運命に置かれことになる。
 そんなことになっていいのか、わるいのか。
 まずはファシズム独裁になってもいいのか、わるいのかだ。

 民主主義の良さとは、自分あるいは自分たちの考えが一番正しいという思い込みの上にたつ独断専行を避けるというところにある。自分あるいは自分たちの考えが一番正しいとは限らず他の人々の考えの方が正しいのかもしれない、だから皆の意見を(全ての民意、住んでいる地域や階層で立場・利害を異にするそれぞれの民意を代表する議員の意見、少数意見でも)聞かなければならない(話し合い・論議を尽くす)。そのうえで、なるべく(最大限)多くの人の納得が得られるようにして決める。それが民主主義なのである。ただし、それには時間がかかって非効率であり、コストもかかるという難点はある。しかし、間違いや不満を最小限にとどめることができる。
 ボトム・アップ(下の意見を聞いて決めるやり方)で住民が主体的に参加・関与し、連帯・協力。
 それに対して独裁はトップ・ダウン、住民は受身に(為政者・権力者に頼り、恩恵を期待)。
 「企業でもワンマン社長でうまくいってる例がよくある。松下幸之助や本田宗一郎のような」と(「報道ステーション」でコメンテータが言っていた)。トップ・ダウン(上意下達)型もわるくないというわけだ。
 独裁―選挙や議会開催など形式的法的には民主的手続きをちゃんと踏んでいるとしても、論議・話し合いを尽くさずに、支持する議員の数にものをいわせて多数決で強行採決をするなど、(朝日などでは「ケンカ民主主義」などという言い方もされているが)それも実質的には独裁にほかならない。
 独裁なら即断即決ができて効率よく、安上がり。
 独裁で、その時はたまたま、彼(または彼ら)が有能かつ人徳に優れ、あるいはそれらはさほどでもないのに弁論術など(ワンフレーズ・ポリティクスの術―「既成政党に抗して、既存の役所の既得権益をぶっ壊す庶民革命をめざすのだ!」などといった歯切れのいいワンフレーズで、人々を彼の言う全てが正しいと信じ込ませる術―など)には秀で、結果的にもうまくいって、それで彼(もしくは彼ら)の考えは正しかったという場合もあるにはある。しかし、間違いも犯しやすく(人々はその間違いを見落とし見逃してしまい)、とんでもない結果―不合理・混乱・争いや多くの犠牲―をまねいてしまうことにもなる(歴史上、英雄や名君はいるが、最近のリビアのカダフィ大佐もそうだったように、当初は英雄とみなされたが、やがて暴政、暴君と化し、民衆を窮状に陥れた)。
 住民・市民が「~派か反~派」のどちらかに分断されてしまい、地域社会に亀裂が生じ、多様な意見や価値観を認めない画一的な同調社会になりがちとなる。真の連帯、自由な心の絆は失われていく。 

 このような多数派独裁でいいのか、わるいのか。そして教育基本条例・職員基本条例など制定されたりしていいのか、わるいのか。それらこそが争点なのでは。
大阪府民・市民が持ち前の(威勢のよさばかりでなく、かつて黒田知事を選んだ時のように)良識を発揮されることをひたすら乞い願うばかりである。

 <参考>世界11月号に掲載の大内裕和(中京大学教授)と平井一臣(九州大学教授)両氏の論文。同12月号に掲載の金井利之氏(東京大学教授)の論文
 10月26~28日の朝日新聞「大阪府教育基本条例とは」(3回シリーズ)


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