韓国を叩けば視聴率が上がり、週刊紙は売れ、SNSが炎上。そして内閣支持率が上がる。この嫌韓ムードは、いったい何でなんだろう。
徴用工問題の焦点は1965年の日韓基本条約に伴う請求権・経済協力協定であるが、そこへ至る経緯と態様に対する事実認識の違い―日本側(政府)は日本による韓国併合と統治は合法であり、半島民には恩恵を多々与えはしても、そんなに損害・苦痛を与え犠牲を強いたという加害意識はなく、戦後補償問題は協定によって「完全かつ最終的に解決された」(なのに徴用工訴訟で韓国司法はそのことを無視している)との認識。それに対して、韓国側は日本による韓国の併合と統治は不法であり不当な植民地支配だったとの認識で、協定では国家間の請求権問題は解消されたとしても、それでもって被害者個人の請求権までも消滅したわけではないし、国が持つ外交保護権を放棄したとしても被害者個人の日本企業に対する慰謝料等の請求権自体が失われたわけではない、という認識。
近現代日韓関係史における日本側(西郷隆盛らの「征韓論」以来の朝鮮圧迫・派兵、日清・日露戦争を経た韓国併合・植民地支配、その間)の加害事実など事実認識の違い・ギャップは平行線のままだ。
1965年の日韓請求権協定で日本政府は、「謝罪」を抜きに、カネは「賠償金」ではなく、韓国政府への「経済協力金」として済ませた。植民地支配に対する謝罪はその後、1995年の村山談話、1998年の小渕・金大中両首脳の共同宣言、2010年の菅直人首相談話などがあって、それらには「反省」と「お詫び」の言葉が明確にあったが、2015年の安倍首相の「戦後70年談話」では「反省」・「お詫び」の言葉は入っているものの、それは「先の大戦における行い」について連合国に対してのお詫びであり、朝鮮半島の植民地支配に対しては「お詫び」どころか、韓国併合に至らしめた日露戦争を「植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」などと恩着せがましく。
ドイツの場合は、第二次世界大戦の端緒となったポーランド侵攻から今年80年、そのポーランドで行われた記念行事にドイツのシュタイン・マイヤー大統領が訪れて「どのドイツ人もこの蛮行から無縁ではありえない」「ドイツの歴史的犯罪に許しを求める」「ポーランド人の苦しみを決して忘れない」「ドイツ人は痛みを伴う歴史を受け容れ、引き継いでいく」とのスピーチ。安倍首相の韓国に対する姿勢はこれとは対称的だ。日韓は過去の清算・和解が未だなんだな。
日本人の場合は、明治以後、福沢諭吉の「脱亜入欧論」(日本は欧米の文明を受け容れていち早く近代化し、遅れているアジアを脱して欧米列強の仲間入りを目指すべしという主張)以来、アジア諸国を一段下に見る優越意識を持つようになり、相手が米欧なら黙ってるものを中国や韓国・北朝鮮となると目をむく。それがともすると互いに必要以上に(「反日」対「反中」「反朝」「嫌韓」などと)いがみ合う動因になっているのでは。
日本と近隣アジア諸国の間では、侵略・被侵略の事実関係や加害・被害の事実関係について(ドイツと近隣ヨーロッパ諸国の間では、ほぼ共通認識に達しているのとは異なり)事実認識に違い・ギャップがあり、大戦後の「和解と過去の清算」が、日本と北朝鮮との間だけでなく、日韓の間でも未だまだということが今回明らかになったということだ。
しかし、その(近現代日韓関係史における日本の朝鮮国家侵食・植民地支配・加害事実など事実認識の)違い・ギャップは平行線のままにせず、少しでも埋め直して共通認識に達する努力が必要だ。但し、それは双方が同等に譲り合って歩み寄るというのではなく、いわんや、被支配国・被害国の方が支配国・加害国に歩み寄るのではなく、主として支配国・加害国の方が歩み寄らなければならない。なぜなら、「いじめ問題」などでも「いじめた」側はとかく「そんなことをした覚えはない」などと無自覚であったり、「そんなに酷いことをしたとは思っていない」などと、さほど罪悪感をもたないが、「いじめられた」側は、その心の傷はいつまでも痛みが残って憶えているもの。いわゆる「足を踏んだ側は、踏まれた側の痛みがわからない」ということで、加害者側は被害者側の痛み(精神的損害)に対して評価が甘くなりがちだからである。また、加害者側には、その罪を免れるか軽減するために加害事実を隠蔽しがち(事実、旧日本軍が文書焼却など証拠隠滅を行っている)であるが、被害者側には被害事実を隠蔽する必要などあり得ないからである。尚、国際司法裁判所や第三国に仲裁・判定を頼む場合でも、その判断が公正かといえば、必ずしもそうとは言い切れない。なぜなら、その場合でも「当事者ではない彼らには『足を踏まれた』被害者の痛みが分からないからである。それに証拠調べでも、加害者側による焼却・隠滅によって失われた場合にはどうしようもないからである。
支配国・加害国(足を踏んだ側)がどっちで被支配国・被害国(踏まれた側)はどっちかは、どちらかといえば、日本の方が支配国・加害国(足を踏んだ側)であって、その逆ではないことだけははっきりしている以上、日本側が自らの事実認識や解釈を正当化して相手の韓国側に押し付けてはならず、可能な限り、被支配国民・被害国民の側(韓国側)の認識・理解を優先的に重視して、その方を基にして共通認識・合意にこぎつけるようにしなければならないだろう。
さもなければ日韓は永遠に「和解」に達することはなく、真の善隣友好関係に達することはないだろう。
この場合、我々国民は、それらのことは自国ファストの政府・為政者の主張を応援してその判断に任せればそれでいいとか、日本側・韓国側どちらの事実認識が正しいのか、その判断は歴史家・専門家に任せればそれでいいというものではなく、国民自らが考えて然るべきものだ。何故なら我々は皆、この国の国民である以上、この国の過去と未来の歴史に対して日本人として民族的責任を負っているのだから。
日本は、韓国とは日韓基本条約で一応国交正常化。しかし、北朝鮮とは未だに国交も何もなく、あるのは核ミサイル問題と拉致問題。朝鮮半島の南北分断。それは日本が朝鮮に遺した負の遺産にほかならない。そういったことには我々国民にも民族的責任があるのでは。