二つの要素
(1)無事・安心―不安がないこと。
将来にわたって、命と健康と文化的な最低限度の生活(生計)が保障されていて、不安がない。
それには、 本人の自助努力によって安心を得るという部分もあるが、政府・自治体・コミュニテー・職場・家庭など社会が安心を提供するという部分もあり、政府には保障責任がある。
(2)感動・充実感・達成感・自己有用感―生きている喜びが実感―生きがい・幸福感が得られていること。
それには①何かに接して快楽・感動が得られている時、②何か(仕事・事業・家事・育児・勉強・学術・研究・スポーツ・競技・練習・芸能・趣味etc)に取り組んで充実感・達成感が得られている時、③「人助け」・「人の世話」など、人から感謝され社会から必要とされる社会的有用感が得られている時、などの場合がある。
(これらは、いずれも各個人の自助努力・自己責任の部分)幸福を追求し実現するのは本人であり、本人が(自分にとって可能な限りの)最大幸福を追い求め、それを実現しようとひたすら努力する。それをサポート(応援)してくれる者や、パートナーとしてそれを共にしてくれる者もいろいろあり得る。政府が引き受けなければならないのは(1)の社会保障であり、安心社会を実現することである。そこに政府の責任がある。(菅首相が目指している「最少不幸社会」はそこのところを指しているものと思われる。)
*誰にも幸福追求の権利―幸福追求権(憲法13条―生命・自由および幸福追求に対する権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)
本人の自助努力・自己責任で幸福実現、国など社会にそれを保障する責任も―今の日本ではどちらが不足しているか?
2月12日放映のNHK「日本のこれから」(「無縁社会」がテーマ)に出演したNPO北九州ホームレス支援機構理事長の奥田氏は「自己責任と社会責任は対立概念ではなく、対概念なのであって、社会責任(社会のバックアップ)あっての自己責任。」「若い人たちは自己責任を果たしたいと思っている。なのに自己責任論社会は社会を無責任化し、自己責任を果たさせないようにしてしまう」と(社会責任のほうが不十分だという考え方)。
それに対して人材プロデュ-ス会社ザ・アール社長で経済同友会幹事の奥谷氏は「社会はちゃんと受け皿としてあるんです。日本では自己責任の部分を言わなさ過ぎ、むしろ社会責任ばかり言い過ぎた甘えの構造ができてしまった。そこに『自己責任』ということが後から遅れて出てきてしまった。それで今、厳しいというかたちになっているのでは」と(自己責任のほうが不足しているという考え方)。
同番組のもう一人の出演者、批評家の宇野常寛氏は「かつては世帯主が正社員で、専業主婦に子ども2人というのが世帯モデルだった、そのような社会構造が巨大な変化を遂げている今、そのような精神論(奥谷氏の自己責任論を指していると思われる)ではどうにもならなくなっているのが現実なのでは」と。
当方の見解―日本で不足しているのは社会責任のほう―人は(動物と同様に)誰しも子どもの時から本能的・潜在的に「自分でやりたい」「自立したい」という意欲をもち、「自助努力・自己責任」などは、他から言われなくても自ら望んでいることであり、何もかも人からやってもらいたいとか、社会に甘えたいとは思わないもの。ただ、それに必要な体力・知識・技能・ツール・環境など諸条件がないからできないだけのこと。だからこそ保育・教育・サポートが必要なのだ。それらは社会から提供されなければならない。そこに社会責任がある。日本ではその方が不足している(奥谷氏ではなく奥田氏の考えに賛成)。
今の日本社会の現実・様相―「競争社会」・「格差社会」・「貧困大国」・「無縁社会」
相対的貧困率―OECD加盟30ヵ国中ワースト4位(15.7%―6人に1人が貧困)、一人親家庭の貧困率はワースト1位(54.3%)―「貧困率の上昇は、安易に非正規労働に頼った企業と、時代にそぐわない福祉制度を放置した政府の『共犯関係』がもたらしたものだといえる。」「いくらまじめに働いても普通の暮らしさえできない」「能力も意欲もあるのに働き口がない。いくら転職しても非正規雇用から抜け出せない」という状況(09年11月4日朝日社説)。
非正規雇用者数が毎年増加して09年1,721万人(雇用者の3人に1人)
学校に行かず仕事に就いていない若者(15~34才)60万人
かつて「国民総中流」、今は少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」に分かれる。
いくら頑張ってもダメという人が沢山・・・・無力感・疎外感
若者の未婚化―単身世帯の増加(一人身の世帯、20年後には3分の1以上に。生涯未婚、女性の4人に1人、50~60代の男性も4人に1人が一人暮らし―NHK「無縁社会プロジェクト」)
孤立・無縁(家族・友人・地域・会社などから切り離され)、生きている意欲すら失っていく人が増加
(「誰にも引き取られない遺体」現在、年間3万2千人)
社会(国・自治体・コミュニテー・企業・NPOなど)の責任
企業―雇用 非正規雇用者数が毎年増加して09年1,721万人(雇用者の3分の1)
国・自治体―インフラ(産業基盤・生活基盤)の整備、国民教育、食糧・資源の確保、環境保全、災害対策、医療・保健衛生
介護・福祉施設
年金保険
結婚の世話も(いくら自助努力しても恋愛結婚はままならず、むかしのように世話を焼き仲人してくれる人もいなくなっていて・・・結婚相談所など)日本は競争社会であるべきか、友愛・協力社会であるべきか?
競争社会は「(本音では)人の不幸を喜ぶ社会」
殺伐たるストレス社会での「いじめ」、無力感・疎外感からの「引きこもり」はどちらから?
国民教育は競争教育であるべきか、友愛・協力教育であるべきか?
(自立して生きられる力を育てるのは当然としても)
上記NHK番組で、出演者の一人・自営業者の方の発言に「親も子どもも弱い。それは『ゆとり教育』など教育が原因。ゆとりある社会などどこにあるか。社会は競争社会。そこでもまれて初めて社会に出てくる。そういう強い人間を育てる教育でなくては」と。
その後で奥谷氏は「自分で生きていく力を付ける教育が大事。どうしようもない弱者を助けるセーフテーネットは必要でも、そのような社会制度が強すぎると、今の財源では消費税20%でも無理」「自立心をもっていなければならないのに、今の若い人は、先に人を頼り、人から何かしてもらうのが先に出てしまう受身のやり方になっている」と「自助努力」のほうを強調。当方の見解
親と学校教師との間に意識のギャップ
建て前と本音の乖離―親はとかく競争教育・受験教育志向、学校より塾に頼る―「この社会は『競争社会』『学歴社会』だ。一にも二にも勉強。さもないと「○○高校」「○○大学」には入れない、採用試験に受からないぞ。「友達と遊ぶ約束?そんなもほっとけ」、息抜きはゲーム(携帯・Bs・Wiiなど)だけでよい。手伝いなんかしなくてよい。犬の散歩は母さんがやるから」と。このような競争教育からは「生きる力」も「自立心」も伸ばしようがない。
競争教育は、受験競争に勝つための教育で、受験学力に偏重し、生活体験学習・自然体験学習・人との交わり・協力・モラルなど二の次。
試験でも資格検定試験のようなものならいいが、選抜試験の場合、全員が合格し勝ち残ることなどあり得ず、勝者があれば必ず不合格者・敗者を生み、学校と人間をランク付け.
そこで生徒たちに養われるのは、受験知識の暗記力・受験テクニックなど受験学力、他を蹴落として勝ち抜く冷徹・非情な強さ・賢さ(狡猾さ)。
我が国に必要なのは、このような競争教育か、それとも社会生活と職業に必要な知識・技能を身に付け、自主・自立的精神とともに思いやり・協力精神を養う自立・友愛・協力教育か。そもそも
誰にも勤労の権利があるはず(憲法27条―すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う)
誰にも教育を受ける権利があり、国にはそれを保障する義務があるはず(憲法26条)
誰にも人間らしく生活する権利があり、国にはそれを保障する義務があるはず(憲法25条①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない)
なのに・・・・はてさて、わが孫たちはいったいどうなるのか、不安でしかたがない・・・
<参考>2月12日放映のNHK番組「日本のこれから」