(戦力不保持の9条徹底護憲にたいして)「攻めてこられたらどうする?」とか「テポドンが飛んできたらどうする?」などとよく言われる。それには次のような返し方ができる。
「強盗に入られたらどうする」と云われたからといって「家にピストルや鉄砲を常備する」なんて、そんなことはしないだろう。(それはかえって危険だ、ということで我が国では一般人の銃刀の所持は禁止されている。)ただ、家に鍵をかけるとか、地域を警察官がパトロールするとかはあるわけである。(また、最近では学校などで教室にサスマタや催涙スプレー等の防具を備え、防犯カメラを据え付ける、といったことなどもある。)
そして、国には、領海・領空侵犯(潜水艦や工作船・密輸船などの不審船の侵犯、工作員やテロリスト等の潜入)に対しては海上保安庁・警察(現在、我が国では自衛隊が、それらの不備を補って出動する場合があるが、自衛隊に頼らなくても間に合うだけの充分な装備・人員その他のハード・ソフト両面にわたる対応能力の拡充・整備は必要である。)など警備の備え(領域警備)があるわけである。
しかし、このような領域警備と警察力の備えは必要だとしても、戦争をしないことにした我が国に、それ以上の軍事的備え(戦力)は必要としないわけである。
地震や台風のような自然災害ならば、どうしようもないわけで、起きないように予防したり回避したりするわけにはいかないし、強盗も、いつ誰が襲ってくるか、前もって判りようがないわけであり、予め相手を特定して対応するというわけにはいかないわけであるが、国家や政治集団(非政府組織)が相手の場合は、それらとは事が違い、事前の交渉やコンタクト(やりとり)なしにある日突然攻めてくるということはあり得ず、予め交渉・説得できるのである。
いかに「ならず者」とか「狂信的」といえども、それなりの理性もそのコントロールもあるわけであり、「いつ何をしてくるかわからない」というようなものではないわけである。かれらが事を起こすばあいは、なんらかの正当性(大義)があって、その合理的理由を考え、「こうすれば、こういう効果や結果が得られる」とか、メリット(利得)・デメリット(損失)を計算し、成功する確率を計算したうえで判断して(実行するか、しないかを)決めるわけである。その計算材料(情報、相手国の実情・考え)は相手国との接触・対話・交渉から引き出される。そのことは、相手国にとっても、かれらに計算を誤らせないように対話を通じて必要充分な計算材料(情報)を提供しておかなければならないということでもある。
だから、「ならず者」とか「狂信的」だから話しても無駄だといって、交渉・説得を省いてはならないのである。
たとえ交渉が決裂して宣戦布告をしてきても、あるいは武力攻撃をかけてきても、それには応じない。戦争にも応じず、要求にも応じてもらえないのであれば、相手は諦めるしかないわけである。
かりに相手が、要求が通らず憤激にかられて、一方的に侵攻してきても、応戦しない。(領域警備隊であれ市民ゲリラであれ、アメリカ軍や国連軍などの援軍であれ、どんな形にせよ、応戦すれば我が国の一般市民に計り知れない犠牲者を生む。弾道ミサイルが飛んできたら迎撃ミサイルで打ち落とすなどといっても百発百中すべて打ち落とすことなど不可能であり、原発が爆破されれば原爆を投下されるのと同等の被害をこうむる。だから応戦は控える。)それで相手は我が国をなんなく軍事占領はできたとしても、我が国民の一致団結した不服従・非協力の非暴力抵抗によって、各機関の責任者・管理者・テクノクラート(科学技術専門家)等をはじめ市民から拒絶され協力が得られないのであれば、何にもならないわけであり、そのうえ国際社会の非難・制裁(経済制裁―それは侵略国本土に対しておこなわれ、海上は封鎖。占領軍は日本にとり残されることになる)をこうむり、国際法廷で処罰され、かえってひどいことになる。そのような割に合わない行動をとる国はあり得ないわけである。
そもそも、日頃から、国際公約でもある憲法(不戦・戦力不保持)をよく守り、周辺国・アジア諸国・世界の誰からも不信・反感・憎悪・恨みをかうことのないような平和友好協力政策をとっていれば、そのような武力攻撃やテロ攻撃をうける謂われはないのである。
今のように、アメリカに追従して日米同盟と自衛隊により、隣国や周辺諸国に対して軍事的対決路線をとっているかぎりは、たしかに、「攻めてこない」という保証はないだろう。
だからこそ、軍事的対決・改憲路線はやめたほうがよいというのである。さもないと、それこそ「攻めてこられたらいったいどうするというのだ」というものである。