世の中、「恵まれている人・生活にあまり困っていない人」と「恵まれない人・生活に困っている人」とに分かれている。選挙はそのどちらにつくか、ということにほかならない。
当方の場合、それはイデオロギーなどからではなく、生まれ育った境遇(カネや財産にも、力やアタマにも恵まれないということ―人々の印象によっては「そうかな」と思われる向きもあるだろうが、内情をよく知っている人なら肯かれるだろう)から 自分と同様に恵まれない人の側につく。それは子どもの頃からの(ケンカやいじめにしても、いつも弱い方の側についた)習性のようなもの。大学で思想を学んだり、誰かから感化されたからではない。選挙というと結局、「恵まれない人・生活に困っている人」の立場にたって政治に取り組んでくれている政党や候補者かどうかで選んでいる。
今回の争点は、なんといっても消費税と安保(米軍基地問題)。恵まれている人は消費税など増税してもたいして困らないのだろうし、安保・米軍基地問題など現状のままでも別に困らない、それどころか、米軍駐留と基地があるお陰で利益をこうむり、既得権を得ている者もいるわけだ。それに対して消費税を増税するなんて困るし、米軍基地が置かれているおかげで危険・(それに税金を注ぎ込まれていることも含めて)迷惑を被っている人たちがいる。
当方は後者の立場にたって消費税増税問題・安保(米軍基地問題)に対応している党や候補者に投票しようと思っている。そもそも、当方がここで発している「声なき声」、その見解・意見も特定のイデオロギーからではなく、生来のパーソナリテー(性格)やメンタリテー(心性)からきているものと思っている。それは子供時代に、育った境遇の中で形成された。だから、政治・経済・教育・社会などの諸問題や諸政策に対する選択判断基準は一貫している、と思っている。
当方の生まれ育った境遇から来ているその心性とはどんなものかといえば、「バカでお人好し」「嘘がつけないバカ正直」「自分より相手の方を思いやる」「欲が無い」「人と張り合うのを好まない」、「弱い方に味方したがる」「自分を誇ることを好まない」「自慢する人、威張る人、傲慢な人、人を見下す人間、人をバカにする人間を嫌う」等など(そうかな?と思う向きもありだろうけど)。
当方のイデオロギー的傾向(思想傾向)も、それら生来のメンタリテー(心性)から来ているのだろう。当方が違和感をもつイデオロギ-は国家主義・自国優越主義・権威主義・多数派独裁主義・官僚主義・資本至上主義・反共主義・競争主義など各党は「恵まれている人・生活にあまり困っていない人」「恵まれない人・生活に困っている人」それぞれどの立場に立っているか。
報道各社は「不偏不党」の建て前からどんな読者や視聴者からも受けるような八方美人的な報じ方をしているようにも思えるが、結局そのスタンスは自民・民主二大政党に偏している(批判するにしても両党のどちらかの立場に立って一方を批判。消費税増税と日米同盟堅持では基本的に一致している両党に同調)。「二大政党」とともに、中間層以上の「恵まれた人・生活にあまり困っていない人」―読者・視聴者の多数派―に的を絞って報道しているからだ。むのたけじ氏(ジャーナリスト、社会評論家)いわく「弱い者、小さい者、貧しい者の側の人間なんだから、そちらの側に立ってものごとを考えよう」(生活クラブ生協連合会発行の月刊誌掲載の対談から)。そうだ。そういうことなんだな。
ねたみ?
朝日新聞(6月28日付)に「若者の夢を奪う税の累進性強化」と題した投稿があって、次のようなことが書いてあった。「累進度の世界に冠たる高さ」「累進性のさらなる強化は若者から『努力すればより良い生活を手に入れられる』という夢をますます奪い、社会の活力を損なうのではないか。」「格差とは、身分制度のように努力しても乗り越えられない壁」なのに「単なる所得の違いから子どもの成績まで格差として表現する、ねたみとも言えるいまの風潮」と。はたしてそうか?
まず、我が国の税の累進度は高いというが、それは逆で、むしろ低い方。所得税の最高税率は、以前(1970年代)は10%から75%まで19段階もあったこともあったが、今は10%から40%まで6段階だけ。給与水準の違いによる税負担率の差は、OECD加盟30ヵ国中下から3番目に小さい。
いま若者に「努力すればより良い生活を手に入れられる」という夢を持たない者が多くなっているのは確かだが、それは累進税率が高いせいではなく、高い税率で税を納めなければならないほどの給与が得られないことのほうが問題。40%(最高税率)を納めなければならない1,800万円以上もの給与なんてどうせいつまで経ってもありつけそうにない。それどころか、どんなに努力しても正社員になれない、就職さえできない、ということのほうが問題なのだ。
格差とは、同じ能力を持った者が同じ努力を払っても同じ待遇が得られず、差があることだ。今は昔のような身分制度はなくなっているとはいえ、経営者・株主と従業員、大企業の社員と中小零細企業の社員、正社員と非正社員、公務員と民間社員とでは、同じ能力を持った者が同じ努力を払っても同じ待遇は得られておらず、それぞれ大きな差がある。そのように不合理な(身分制度のように努力しても乗り越えられない壁による)格差があることは厳然たる事実である。それを批判することは単なる「ねたみ」などではあるまい。
子どもの成績でも、家庭環境(家計所得など)によって成績に差があることは厳然たる事実であり、そのような教育格差を批判することは、できる子をうらやましがる単なる「ねたみ」とは事が違うだろう。
ところで夢(志)とは自己実現欲求から生まれるのだと思うが、それには利己的欲望(自分だけ『より良い生活』が手に入れられればよい)だけではなく、利他的欲求(他人のために尽くして感謝される喜びを得ようとする欲求)あるいは共同的欲求(他人と共にやって喜びを分かち合う)もあり、他の人々と共に『より良い生活』を、ということを夢と考える人もいるわけである。
税は(憲法上、民主国家として国民に納税義務を課している我が国では)市民にとって、搾取ではなく、福祉・教育・公共事業・公共サービスなどの財源(資金)を互いに出し合うことによって、いわば『より良い生活を手に入れられる』という夢を広げるものであって、その夢を奪い、やる気を損なうようなものではないはず。
但しその税は各人の負担能力に見合った公平・適正な税(応能負担)でなければならない。ところが消費税は(たとえ「福祉目的」のためという名目であっても)負担能力の有無にかかわらず、子供でも、年金暮らしの老人でも、ワーキングプアか職の無い若者でも容赦なく取られ、所得の低い人ほど負担が重くのしかかる不公平税制であるので、それは、国におカネを出し合って社会に貢献するなどというものではなく、まるで国からピンはねされる搾取のようなもの。
このような消費税を増税することこそ子供・老人それに若者から夢を奪うものと言うべきだろう。