米沢 長南の声なき声


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なぜ歴史を学ぶのか
2005年07月20日

 かつて大日本帝国時代は、国民は、天皇の臣民として、天皇とその国家・大日本帝国の偉大さ・尊さを歴史から知って、その(天皇とその国家の)ために尽くし、命さえも捧げる気持(愛国の情)を抱くようになるために、歴史を学んだ。学校の歴史教育は、その立場で行われ、教科書(国定)はその立場で編纂された。したがって、その教科書には、専ら天皇とその国家の偉大性・正当性を裏付けるような内容が盛り込まれ、歴代天皇と皇室、かれらに忠実に従った者たちの治世・業績・苦心を美化・正当化し、それを貶めたり、汚したり、傷つけたりするような事柄(国にとって都合のわるいこと)は一切カットされた。

それに対して、今、我々が歴史を学び、子どもたちが学校で歴史を学習するのは、国家の都合(必要)のためではなく、自分自身の必要のためなのである。

我々も、子どもたちも、自分が社会で生きていくには、社会の歴史を知っておく必要がある。国内外の社会に生起する諸現象―産業・経済・政治・文化など―はいかなる歴史の下に(歴史を経て)成立しているのか(生成してきたのか)を知る必要があるし、また知る方法(歴史的な物の見方)を身につけておくことも必要である。そして自分とその子孫が生きていく未来はどうなっていくのかを展望し、未来社会はいかにあるべきかを考えることができるようにならなければならない。生徒は、このように自分自身がこれから社会(国内および国際社会)で、一人よがりではなく、皆と相和して生きていくために必要な、歴史に関する知識や歴史的な物の見方・考え方を身につけなければならないということである。

その時代その時代の社会で、人々はどのような衣食住生活・文化を営み、どのようなシステム(協力もしくは支配・被支配の関係)の下で生活し、為政者(権力者)はどのような統治をおこない、どのように内外の敵と争ったのか。そこには、どのような苦心・努力があり発展があったのか、またどのような合理性があり、或は不合理(理不尽、過ち)があったのか。その下で人々は、どのように生活と身の安全が保障され、或は搾取され、虐げられ、戦に駆り立てられ、辛くて苦しい思いをしたか。それに自国は外国とどのような関わりを持ち、どのように交わったのか。平和的な交流、文明・文物の摂取はどのように行われたか。或は断絶・対抗して国の独立は保たれたが、近代以降には近隣諸国に対して侵略・戦争を行い、併合(植民地支配)も行われた。それが、さらにはアジア太平洋戦争・世界大戦へと拡大・発展した。それらは何故、どのようにして行われたのか。それらによって諸国民にどのような惨害をもたらしたのか。連合国の反撃によって沖縄と本土にどのような被害をこうむったのか。日本人はそこから、何を教訓として得、何を反省しなければならないのか。それらのことを、生徒たちは自分自身のために、よく知る必要があり、教科書はそれらを包み隠しなく生徒に伝えなければならないのであり、それに適した教科書を採択しなければならないわけである。

 ところが、そのような生徒の立場からはかけ離れた、あたかも大日本帝国時代の「国史」教科書のような書きぶりの教科書が検定に合格・出版されて、一部で採択されようとしている。扶桑社版の「新しい歴史教科書」である。それは、天皇はいかに尊く、その下でおこなわれた為政者たちの統治や判断はいかに賢明で、戦争はやむをえざる選択であったか等、自国の為政者にとって都合のよいことが、都合よく(正当化して)書かれ、都合のわるいことは省かれているか、薄めて書かれている。要するに、脚色されて書かれ、ありのままの真実が書かれていないこの教科書からは、生徒たちにとってはとうてい歴史の真実を学ぶことはできない。このような国家主義的な色彩がつよく、独善的で、戦争や植民地支配の真実(侵略・加害の事実)を隠蔽するような教科書は諸国民・国際社会のためにもならない。たとえば、従軍慰安婦問題について、女性たちが慰安婦にされた被害国でも、国連人権委員会でも、日本は学校できちんと教えるべきだと求めているにもかかわらず、そんなものは無かったことだとして、教科書には一切載せない(この問題については、扶桑社版をつくった「新しい教科書をつくる会」の影響で、他のほとんどの教科書も載せなくなった)。それらの加害事実は、たとえ日本人が知らないでいても、周りの国々では皆知っていることなのだ。皆が知っていることを自分だけが知らないということは恥ずかしいことであり、他からはとうてい尊敬されない。また加害事実をいさぎよく真実と認めず、自国民に伝えないそのやり方は、日本人拉致のことをいさぎよく認めて真実を明らかにしようとしない北朝鮮を、我々が卑劣だと思うように、諸国民からは卑劣だと見なされ、日本人の誇りをかえって損なうことになるだろう。

 子どもたちは日本人として誇り高く生きるとともに、恥を知る人間にならなければならないのであって、国を誇るだけでなく、国の恥をも知らなければならないのである。

 いずれにしても、生徒たちは国家の必要のために歴史を学ぶのではなく、あくまで自分自身と(国際社会も含めた)社会の必要のために歴史を学ぶのであって、その教科書はそれに役立つ教科書なのかどうかである。


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