安倍首相は「平和安全法制」など、それらは戦争することを目的にしてはおらず、むしろ、それを抑止することを目的にしているのだと。
しかし、軍事的抑止力とは軍備(物理的・システム的備え)の運用・武力行使を控えることではなく、それを運用・行使する、その意志(戦争の覚悟)があることを前提としている。しかも、それを行使するのは、相手が自国にたいする攻撃に着手してからそれに応戦して行うとはかぎらず、その前に(先制攻撃)やらなければ(迫りくる「存立危機事態」に)間に合わないという場合には、同盟国など他国に加えられた攻撃に対しても応戦する―それを集団的自衛権というわけだ。これらは攻撃を思いとどまらせる抑止力というよりは、「いつでも来い」とばかりに迎え撃つ応戦力・参戦力と言ったほうがよく、このような軍事的「抑止力」論は欺瞞というほかあるまい。
軍事的抑止力は相手の受け取りようによって、それを相手がどう見なすかであって、自分は「抑止力」のつもりだからと言って、相手もそう思ってくれるとはかぎらず、自国のそれは「戸締り」「町内会の防犯パトロール」の如き抑止力だ(安倍首相)と言っても、相手はそうは受け取るまい。
単なる「戸締り」や「町内会の協力」なら、家に鍵をかけるだけとか、丸腰で見回りするだけだが、それがどの家も、どの町内も銃刀を所持して、となると穏やかではなくなり、かえってその濫用・殺傷事件の頻発を招く結果にもなるだろう。だから我が国では、警察官以外には銃器の保持は禁止されているし、急迫不正の侵害に対する正当防衛は認められるにしても、予め武器を準備、集合する過剰防衛は禁じれれている。
自国と同盟国の軍備と安保法制を「抑止力」と手前勝手に称しても、相手(中国・北朝鮮・ロシアなど)がその通りに素直に受け取って軍事も軍備増強も控えるかといえば、そういうわけにはいかないだろう。これらの国々にとっては、我々が彼の国の軍備増強や核・ミサイル開発に脅威を感じるのと同様に、我が国の軍備と同盟強化に対して警戒心・対抗心を募らせ、さらに軍備増強と緊張を招く結果になってしまう。
沖縄の基地を「抑止力」だと自分たちは思い込んでも、敵と見なされた相手にとっては、そこを攻撃対象からはずすようなことはありえず、むしろ真っ先に標的にされる可能性の方が強い。
個人に自然権として正当防衛権が認められていても、銃刀の所持は、我が国では法律で禁じられているのと同様に、国の自衛権は認められていても、戦力の保持は憲法で禁じられている。急迫不正の侵害に対して自衛権に基づく実力行使は認められるとしても、自国にではなく同盟国など他国に加えられた侵害に対してまで集団的自衛権の名のもとに(国連憲章ではそれが認められているからといって)その国と連携して武力行使することまでも(たとえ「後方支援」であろうと、それは兵站活動として武力行使と一体と見なされ)我が憲法では到底認められはしないだろう。
いずれにしても、集団的自衛権の名の下に安保法制で構築された同盟協力体制は「抑止力」だと幾ら称しても、相手の中国・北朝鮮などの非同盟国や勢力から見れば、日米の脅威が増して対抗心を駆り立てる以外の何ものでもなく、国際平和・安全を害する以外の何ものでもあるまい。(首相はもう一つの例え話―「不良とのケンカ」で、「私の友だちのアソウさんという人が『おれはケンカが強いから一緒に帰って守ってやるよ』といって一緒に帰ってくれて、そこに3人ぐらいの不良が出てきて、いきなり私の前にいるアソウさんをまず殴りかかった。私もアソウさんと一緒に対応する」と。「対応する」とはケンカの相手になるということだろう。そうなると、それは抑止だけでは収まらない、実力を行使して加勢する―即ち参戦する」ということだろう。)集団的自衛権の行使容認は「抑止力」ではなく、いわば「参戦力」なのだ。
「抑止力」と称して軍備や安保法制などいくら強化・完備しても、それらにはそれを運用・行使するうえで、国民の意志・覚悟(いざとなったら全面戦争も辞さない覚悟)が伴わなければ「張り子の虎」に過ぎず、逆に相手は(北朝鮮やISのように)、たとえ軍備や軍事システムは劣弱でも、意志力が頑強・激烈な(自暴自棄的な決死の覚悟の)相手には、さほど抑止効果は働かない。我々日本国民は、そんな戦意・覚悟など持ち合わせない。だったら今からでも彼らに負けない戦意・覚悟を持つように扇情教育したらいいではないか、なんていっても、無謀・悲惨な戦争のバカらしさをすっかり知り尽くして憲法に不再戦を誓っているという意識が多少ともある日本国民に、そのような戦意・戦争の覚悟などありようはずがあるまい(たとえ首相がその気になっても)。だとすれば我が国がアメリカに合わせて軍備や安保法制をどんなに整えたところで抑止力にはならないのである。「軍事的抑止力」なるものは多分に神話的な思い込みに過ぎないということだ。
60年安保反対闘争、65年べトナム反戦運動、それに70年安保反対闘争も、それで日米安保条約を破棄することはできなかった。それで、その後日本が戦争に巻き込まれずに済んだのは(安倍首相など)「安保のおかげだ」という向きがあるが、実はそうではなく、むしろ多くの国民が参加した安保反対闘争や反戦運動のおかげであり、そこで示された国民の強烈な反戦意志が9条とともに根付いたからにほかなるまい。
戦争や武力攻撃を抑止するのは、「戦争しない」、「武力攻撃しない」という国民の意志であり、戦争するな!武力行使するな!という国民世論にほかなるまい。その抑止力を強めることこそ肝要なのであり。まずは我々日本国民が憲法(9条)に誓っている不戦意思を互いの心に再確認して国の内外に宣明し、アメリカにも、中国・ロシア・北朝鮮にも「戦争するな!武力攻撃するな!」と声を大にして訴えることであり、それこそが抑止力にほかなるまい。
それにつけても、日米同盟・米軍基地・アメリカの「核の傘」そのうえ集団的自衛権行使容認の安保法制、これらはその抑止力を損なう以外の何ものでもあるまい。自らはアメリカの「核の傘」を背に「いつでも、どこでも、切れ目なく」軍事対応できるように、そして戦争もできる準備をしておきながら、相手に「戦争・攻撃しかけるな」などと、いくら言い立てたところでなんの説得力もあるまい。
7月13日衆院特別委員会の中央公聴会で、自民党の議員が「隣の家が火事になったら、公述人も当然火消しに行きますよね」と質問。(木村草太教授から「火事と武力行使を同一視する比喩が成立するのか」と返された。)火事は火を消して終わるが、集団的自衛権の武力行使は、火種を消すのではなく、かえって燃え上がらせ戦争に発展させてしまう、その違いがわかっていないのだ。
「軍事的抑止力神話」に騙されてはならない!