首相が原発再稼働宣言。「夏場の電力不足・停電が起きた場合の国民生活・経済への影響を考えると、精神論だけではやっていけない」と。「『決められない政治』からの脱却」をやってのけ、その力を示したつもりのようだ。それに対して橋本大阪市長は「負けたといえば負けたといわれても仕方ない」、「机上の論理だけではいかないのが現実の政治」だと。
確かな根拠も示さず安全・大丈夫だと言い張ることこそ精神論ではないのか。確かに、互いの思惑と力関係と駆け引きでせめぎ合うのが現実の政治であるには相違あるまい。しかし、福島で起きた原発事故の現実を抜きにして、机上の計算とコンピュータ・シュミレーション実験データだけをもって「暫定的安全基準」をクリアしているから大丈夫だといって再稼働を決断し、それをあえなく容認して、このような安全判断を(安全神話と同様に)信じ込んでこの夏場を原発再稼働でしのぐのだと頑張ることこそ非現実的・精神論的対応ではないのか。
「決められない政治からの脱却」と称して、多くの人々が望みもしないことを、多数の反対を押し切って決定を強行する、それは強権政治にほかならない。
「決定できる民主主義」とは、彼らにとって都合のいいことを決定できる民主主義の形(選挙・議会・多数決など)であるべきだということであり、彼らにとって都合のいい決定を通すための民主主義の形式(手続き)を踏んだ強権政治にほかならない。ヒトラーも選挙で選ばれ、国会の決議に基づいてあの強権政治を行ったのだ。
衆参の「ねじれ」などは民主・自公3党の談合でかたがつくが、問題なのは政府・国会あるい自治体の首長・議会・原子力専門委員などと国民・住民との間の意識のねじれなのだ。