政治家・政党・メディアに対して評価・判断する場合は、政治家なら識見・才智・弁舌・手腕・人物(人間性・人柄)、政党なら理念・政策・活動力、メディアなら啓発力、それに政治家・政党・メディアとも公正さ、これらの点でそれぞれ、どれだけ評価されるかである。
政治家・政党・メディアなどに対する評価・判断―その発言・主張やそれが打ち出す政策や発信する情報に対する評価・判断と、それ以前に彼ら人物(人間性・人柄・メンタリティ―=性向や心情などの心的傾向)に対する評価・判断が必要。
判断には「知性(才智)による判断」と「感情(心情)による判断」とがあり、その一方だけに偏らず、双方バランスを取りながら判断するのが的確な判断。
裁判では裁判官は法律の専門家でその知性によって判断するが、それが、ともすると一般市民の常識から外れた判決になってしまうことがある、というので導入されたのが裁判員制度だが、それは一般市民の中から抽選で選ばれた裁判員を加えることによって裁判に市民感覚(市民感情)を取り入れ、判断に際する知性と感情のバランスを図ろうするものだろう。
「信ずる」という場合、「言ってること・書いてることが尤もらしいから(信じたくないが感情を抜きに)信じる」という主知主義的な場合と「信じたいから(理屈抜きに)信ずる」という主情主義的な場合とがあり、後者の場合は、かつてヒットラーの演説に熱狂したドイツの大衆や、今はトランプ大統領のツイッターを真に受けるアメリカの大衆の中にそれが見られる。その意味で判断には知性と感情の双方からのバランスのある判断が必要なわけでる。
その言説・主張・政策・情報が、はたして妥当なものか(つじつまが合って理屈に適っているか、事実根拠に基づいているか等)の判断には知性・才智が必要だが、それだけでは、たとえ弁舌や論述は一見もっともらしく思われても、嘘やごまかしがあったり、真偽が疑われたり、肝心なことが抜け落ちていることもあり、人によっては心情的に納得し難いことがある場合がある。そこで、それら(言説など)を発する政治家や政党・メディア構成員の人物(メンタリティ―=性向や心情などの心的傾向)に対する判断が必要となる。その判断は感情(心情)によっておこなわれる。それは、あたかも伴侶(生活のパートナー)を選ぶ際の判断が、相手の生活力・経済力・将来性などを見極める知性だけでなく、一緒にいると心がなごむとか、心が豊かになれるとか、信頼でき安心していられるとか、人間性を見極めるその判断が感情(好き・嫌い、性が合う・合わない等の心情)によっておこなわれるのと同じなのだろう。「政治家」というと、「偉い人」というイメージとともに、とかく「立ち回りがうまく、どこか信用のおけない人物」といったマイナスイメージでとらえる向きも多い。(朝日3月1日付『日曜に想う』に「政治家ではない人を『あの人は政治家だ』と言うとき、それは大抵ほめ言葉ではない。立ち回りがうまく、どこか信用のおけない人物像が浮かんでくる」と。)
政治家・政党・メディアを評価・判断する場合の心情による判断は、当方の場合、その評価基準は、同テーマのその1に列記したようなことである。
ところで安倍首相についてだが、才智(狡知?)・弁舌(「口達者」)・手腕(「やり手」・政治力)・強運(?)などの点ではともかく、人物(人間性・人柄)・公正さなどついての評価はどうか。
安倍首相はいまや人物評価では首相信認に値しないことが明らかになっている、そのような事態に立ち至っているのでは。
モリ・カケからサクラときて、疑惑問題で、このところ当方に限らず、「人柄」に対する不信感が強まり、支持率が下降気味。それでも(野党はもとより、与党内でも)「他よりよさそうだから」といった理由で下げ止まっており、また、それらを単なるスキャンダルに過ぎないとしてそんな問題にいつまでも時間を浪費せずに「もっと大事な問題を」ということで、(産経などの世論調査では「桜を見る会」をめぐる首相の説明に「納得していない」が78.2%なのに)「国会は『桜を見る会』と新型肺炎の問題のどちらを優先して審議すべきか」では89.0%が「新型肺炎」との答え。
しかし、「桜を見る会」問題は単なる卑近なスキャンダル問題ではなく、国費で催される公的行事の私物化であり、公職選挙法違反及び政治資金規正法違反で罷免にも関わる大問題。この問題に関して予算委員会において首相は(「桜を見る会」前夜に安倍後援会が催したパーティーについて野党がホテル側に問い合わせた質問に対する書面回答に首相の説明が食い違いがあることを指摘され、首相にホテル側から書面で回答を得るよう迫られ、それには応じずに)答弁でいみじくも「(ホテル側の書面でなければ)信じていただけないというのであれば、そもそも予算委員会の質疑が成立しないわけであります」と述べたが、そのことは「信用を失っている」首相との予算委員会は、たとえ新型肺炎とか「国難」といわれるほどの大問題であろうとも、審議自体がそもそも成立しないのだということだろう。
「桜を見る会」問題を、「政策問題とか、審議すべきもっと大事な問題があるとか」「こんなスキャンダル問題なんかよりも優先すべき重要問題がある」などといってスルーするわけにはいかないわけである。
一事が万事、何を聞いても信用できない人物とでは、審議すべき課題にたとえどんなに大事な課題が控えていても審議自体が成り立たず、何も決められないということになる。つまり、何をさしおいても、先ずは首相が不信を払拭することの方がむしろ最優先なでは。<参考>2月27日付朝日新聞―津田大介「論壇時評」