米沢 長南の声なき声


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原発・放射能の危険性、わからないならどうする?(加筆版)
2011年07月18日

 今後、また原発事故が起こる危険性ははたしてどれだけあるのか、よくわからない。福島第一原発のような古い従来型の原発ならともかく次世代型なら大丈夫だという向きがある。ところで地下式原発推進議員連盟というものが結成され、自民党から谷垣・森喜郎・安倍晋三ら、民主党から鳩山・渡部恒三・羽田ら、国民新党から亀井、「たちあがれ日本」から平沼、といったメンバーが名を連ねているが、彼らは地下原発なら大丈夫(安全)だと思っているのだ。(原発は膨大な熱を放出するので、その熱を海や川に逃さなければならず、取水口・排水口それに排気口を必要とする。一たび事故が起きてしまえば、放射性物質はその排水口・排気口から漏出、閉じ込めることはできない。核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)でさえ地下を掘って埋めようにも埋められないでいるのに。地震は地下何キロ~何十キロの所で発生し、岩盤を破壊しながら断層を地表まで押し上げることもあるという。そんな所にいくら頑丈な収納庫を造っても、地震がくればひとたまりもないのだ。)
 いずれにしろ、事故が起きる危険性は「ある」と断言する人はいても、「ない」と断言できる者は誰もいまい。(事故の可能性を打ち消すことはできないのだ)。
 放射能ははたしてどれだけ健康に害があるのか、これも、よくはわかっていないらしい。それほど大したことはないとも言えるし、大いにあるとも言える。とりわけ低量被曝は「どんな健康障害を引き起こすか世界的にも歴史的にも全く解明されておらず、安全か、安全でないかわからない」という。(元自民党参院議員で現・東電顧問の加納氏などは「むしろ低線量の放射線は体にいい」とも。)「山形大学医学部放射線腫瘍学講座教授の根本建二氏は「未だよくわかっていないことをわかってもらいたい」と言っていた(6月29日、山形県置賜総合支庁主催の講演会で)。
 現段階では、学者・専門家によって見解が異なり、いずれも、どちらが正しいか、よくはわからないものらしい。

 推進・維持派と脱原発派それぞれに自分に都合のいい情報・データ・数値のみ着目して取り上げるものだ、という。
 推進・維持派とは、原発で飯を食っている人たち、原発関連事業で利益を得ている人たち(経産省などの官僚、交付金を受けている立地自治体、学者・研究者も含む)、それに原発関連業界から政治献金を受けている自民党などの政治家、原発関連業界から広告をもらっているメディアなどである。これらは原発事故の可能性や放射能の危険性よりも安全・安心材料をことさら取り上げる。

 しかし、一般庶民にとっては(人間・子ども・子孫・生き物の)生命と健康が何より大事であり、お金や便利・快適さなどは二の次なのだ。

 原発・放射能は大丈夫なのか、大丈夫でないのか、情報も見解も異なる学者・専門家のどちらの言うことが正しいのかわからない、そういう場合、「ならば気にすまい」という楽観的な判断と「ならば最悪の場合のことを考えて原発はやめてもらおう」という二通りの判断になる。どちらの判断が賢明だろうか。どちらが本当に安心が得られるのだろうか。
 前者(楽観論)には、「母親が神経質だから、子どもにストレスが溜まっているのだ」といった言説も。長崎大学の山下教授(長崎の被爆二世で、世界保健機関WHOの放射線プログラム専門科学官を務めていて、福島県知事から放射線リスク管理アドバイザーに任命され、「妊婦や乳児でも年間100mSv以下であれば大丈夫。時間当たり10μSv以下であれば外で遊ばせても大丈夫」と安全宣言)は「100mSv以下では発癌リスクは証明できないのだから、不安を持って将来を悲観するよりも、今安心して安全だと思って活動しなさいと言い続けた」という。
 これに対して福島の親たちの間では「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」が結成され、それに呼応して全国小児科医ネットワークも結成されて、その活動をバックアップしている(世界8月号掲載の白石草氏のルポ「『安全キャンペーン』に抗する福島の親たち」)。彼らは福島県知事に対して「山下氏をすべての県の役職から解任することを求める県民署名」を継続中。それには「山下氏の言葉を信じた県民が今どのような気持か・・・・・。己が信じた愚かさから我が子を被曝させ、後悔と罪悪感に苦しむ親たちの気持を感じて下さい。そして将来を想像し、言い知れぬ恐怖に耐え続けている県民の気持を理解してください。」「山下氏を新たに『県民健康管理調査』検討委員としたことは到底受け入れられるものではありません。被曝させられた私たちの健康影響を調査する者に最もふさわしくない人選です」とある。
 (一般公衆の年間被曝限度は1mSv。文科省は学校での安全基準を1~20mSvとして、20mSvが許容範囲であるかのような決め方をしたが、抗議にあって、「当面1mSvを目指す」と軌道修正)

 神経質にならずに、平気でいなさいと幾ら言われても、またどんなに鈍感力を鍛えたところで、次々想定外のことが出てきて不安の種は尽きることがない。その不安を無くするにはどうすればよいか。それには、まず最悪の事態(原発事故と被曝の最悪の事態)を想定してかかって、そのような事態に立ち至ることのないようにする方法を考えることだが、その方法としては、技術上・管理上どんなに安全対策を講じたところで限界があるし、原発そのものをやめてしまう(停止・廃炉・撤去)以外にないだろう。
 「原発さえなければ・・・・」なのだから。
 
 (停電になったら困ると言うが、電力供給不足は省エネと再生可能エネルギーでカバーすればいいのであって、原子力エネルギー技術などより、これら自然エネルギー技術の開発・向上・普及と発・送配電分離など制度の改編を早急にやればいいのだ。
 財界は、原発を再生エネルギーなどに切り替え、固定価格買取り制度などをやったら、電力料金が上がって、企業は海外に逃げていき、産業の空洞化を招くなどと言い張る。しかし、そんなことより、現に起こっている原発事故と放射能禍で、企業どころか、人がそこに住めなくなって県外各地に避難し、海外から日本に来る人が減っているし、日本からの産物輸入も敬遠されているではないか。原発のリスクやデメリットのほうがはるかに深刻なのである。)
 
 原発事故・放射能の危険性は、年輩者が自分のことしか考えないで生きていく分には「どうせ、よくわからないのであれば、気にしたってしょうがない」とも言えるのかもしれないが、そうでないかぎりは「わからないからこそ、気になって(不安で)しようがない」というものだろう。
 台風や地震・津波などの場合は、無くすに無くせない、いつか必ずやって来る、回避できないものなので、備え(防災対策)が必要。しかし、原発のばあいは、事故への備えは(多重防護など)容易ではない(「備えあっても憂いあり」というものだ。原子炉そのものは膨大な量の放射性物質を内部にかかえいるが、どんな事態が起こってもそれを内部に閉じ込めておく完全な技術は存在しない。それに放射性廃棄物や使用済み核燃料の処理方法も確立していない。ひとたび大量の放射性物質が外部に放出されれば、もはやそれを抑える手段が存在せず、被害は空間的にどこまでも広がり、時間的にも将来にわたって危険がおよぶ)。しかし原発そのものは無くすこと(廃炉・撤去)ができ、無くしさえすれば、備えの必要はないし、それこそ何も気にしなくてよくなり、安心していられることになる。

 なお、原発事故というものは、可能性(確率)は、たとえどんなに低くても、それがちょっとでもあったら最悪の事態(計り知れない惨害)に立ち至るもの。だから、確率はどんなに低くても、念のために、もしかして起きるかもしれないと考えて手を打っておかなければならないものなのだ。
 今回のフクシマ原発事故は、事故としては、あれでも「中規模」で、まだ「最悪」ではない。そういう意味では、あれで済んでよかった。もし、格納容器が爆発すれば、いっきに1号機から4号機まで次々といって全滅、チェルノブイリ級では済まないことになっていただろう、という(後藤政志氏・7月24日朝日ニュースター「パックイン・ジャーナル」)。
 「もしメルトダウンした時に圧力容器の底に水があれば、溶けた核燃料が水に触れて急激に蒸発し、『水蒸気爆発』―圧力容器が飛び散り、外側にある格納容器も壊れ、建屋も吹き飛んでしまう。そうなれば、今の5倍、10倍の放射性物質が放出、周辺地域の住民に大変な被害(何千~何万人という急性死者)をもたらすだけでなく、大量の放射性物質が東北各県や首都圏も汚染することになるから、破滅的な状況に陥る。これまで水蒸気爆発がおこらなかったのも、たまたま炉心の落ちたところがよかったからで、注水が続く中で小康を保っている状態。しかし、これから先のことは分からない。いかなる原発事故も、『絶対に起きない』と断言することはできない」とも(小出裕章・著書「原発はいらない」)。

 とにかく、原発は、わからなかったら最悪のリスクを想定してやめてしまうにしくはないのだ


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