「民主主義」とはいっても、少数派の人にとっては、自分が支持していない多数派である他人(その政府)から自分の意に反して支配されるというという点では、自分が支持していない専制君主や独裁者から支配されるのと同じこと。
消費税に反対なのに、その意に反して消費税を取り立てられるとか、軍事費の増額に反対なのに、税金でその増額分を取り立てられるとか、沖縄県では多数派なのに、日本全体では少数派で、多数派の政府によって、意に反して支配され、米軍基地を押し付けられている。沖縄県民にとっては、戦前(県知事は中央政府任命で、本土出身者だった)同様、ヤマトンチューの政府から支配されているのと同じようなもの。
他人に支配されるのは不愉快で腹立たしいもの。そして、勝ち誇ってしたり顔な政治家に対してだけでなく、彼らを支持し、彼らに投票したか、或いは「どうせ、誰がなっても同じだ」などと無関心を決め込んで棄権し、結果的に彼らを勝たせてしまったと思われる隣人・同僚などに対してまで、「コン畜生!こいつら!どいつもこいつも!」と思ってしまうものだ。
民主主義―主権在民―人民が国や社会の主人公―人民の、人民による、人民のための政府―とはいっても、それは結局、多数を制して(選挙で勝って)多数派(勝者)にならなければ実現されないもの。
だから勝たねばならない。負ければ「奴隷」(ただ従うしかない)。が、負けても僅差・小差であれば、その主張・意見・政策・要求はそれだけ重要視され考慮されることもあるので、最大限がんばらなければならない(大敗し、勝者に圧勝・楽勝を許せば、敗者の主張・意見は全く無視され、切り捨てられる)。勝つために闘わなければならないのだ。闘って勝つか、負けても善戦・惜敗。自ら闘うことなしに人任せ(お任せ民主主義)にしてはならないのだ。「人任せ」は主権の放棄であり、自分以外の大多数の人(有権者)たちに任せるのであっても、それは一人の独裁者あるいはAIロボットに任せるのと同じことで、ただ従わされるだけということには変わりない。
「闘う」とは―意思表示・投票参加・主張・論争・運動(集会・デモ・宣伝・啓蒙その他)への参加、説得・賛同者の獲得・拡大などのことであり、その闘い方には、勝つための最善の方法・手段―戦略・戦術―を最大限駆使しなければならず、頑張り(勢い)は必要だが、ただ闇雲に頑張ればよいというものではなく、或いは政策・主張・意見が真ともで正しければ(ポリティカル・コレクトネスであれば)必ず勝つとはかぎらず(「きれいごとだ」などと受け取られ)、巧妙な、言葉巧みで、宣伝力に長け、或は(事実無根の、「黒を白」といったデマや虚言など)手段を選ばない大衆扇動家やポピュリスト政治家などの戦術や術策に負けてしまうことがある(相手が100回言い立てたら、101回言い返さなければならないのであって、100回言い立てたられた嘘やデマに対して、たとえ幾ら正論でも(正しいことを言っても)、発言が1回だけに止まるならば負けるのだ)。それが闘いというものだろう。社会状況―グローバル資本主義―商品・資本・人間・情報が国境を超えて高速流動→それに恩恵を受ける層・少数の恵まれた層(勝ち組)と不利な結果を被る層・恵まれない層(負け組)に中間層が分化、格差が拡大―後者(負け組)は既存の政治に不満・不信を募らせる→彼らの心をつかんだ政党・政治家が闘い(政治闘争)を制する―理性よりも感情に訴えて、「キャラが立って、パフォーマンスや言葉巧みに人を引き付け、心を掴んで大衆人気を博した政治家(ポピュリスト)や政党が闘いを制しやすい―例えば、石原慎太郎・橋下・トランプ・・・・・アベ首相は?
過激発言・暴言・失言でも、「はっきり物を言う、人々の本音を代弁してくれる」なら、「生真面目で、きれいごとしか言わないよりはましだ」として、非知識層・反知性主義層・反エリート層・反エスタブリッシ層の間にそれが受けて、かえって人気を博したりする―「情動の政治」(メディア論研究者の石田英敬氏は「ネットが生む『情動の政治』が世界の標準になりつつある」として、これに対しては「あくまで理性に働きかけよ」と―12月6日朝日新聞の文化・文芸欄)。
彼らの手法の特徴は「良識とか、品性とか、ポリティカル・コレクトネス(差別や偏見のない公正な表現)などには囚われずに、ズケズケ物を言うとか、敵を作って攻撃をしかけ、相手を挑発してこき下ろすなど、勝つためには手段を選ばないかのような言動を駆使する。(ライターの松谷創一郎氏によれば「日本のリベラル勢力は、そうした状況を批判してばかりだから退潮しました。対抗するためには、キャラ勝負と割り切り、感情に刺さるベビーフェース<善玉役―タイガーマスクやアンパンマンみたいな?>キャラを発掘するしかないでしょう」と―同上・朝日の耕論欄)また、メディア状況の変化―ソーシャル・メディア(ツイッターやフェイス・ブックなどで言いたい放題)の発達で、ネット情報(人々は見たいものだけ見る)が既存のマスメディア(チャエック機能が低下へ)を凌ぐようになっている。それを巧く利用・活用できた者が闘いを制するかのよう(その弊害―モラル・ハザード―嘘、暴言、ヘイト・スピーチがまかり通る風潮)。
このような状況の中で闘いに臨まなければならないのだ。負ければ(参加もせず、闘わずして負けるか、頑張りが足りないか、主張や方針に誤りがあって大敗すれば)、たとえ一介の有権者にすぎない庶民や18歳ではあっても、どの党、どの候補に投票しようと、棄権しようと、法案・決定に賛成しようと反対しようと、何らかの意思表示をしようと何もしなかろうと、社会や各人(現世代・将来世代)の生活・平和・安全はどうなるのか結果に対する責任は自分にもあり、他人のせいにしてはならず、思いもよらない災いを被る結果になったとしても、自分を叱るしかないことになる(18歳以上で参政権を持つ有権者である限り)。それが民主主義なのだ。
君主主権で、選挙権・参政権が認められていないのであれば、国政(或いは戦争)の結果に責任(の一端)を負わされるようなことはなくて済むが、国民主権で選挙権・参政権が認められている限り、それを(投票権は各人1票しかないが、集会・デモ等それ以外にも可能な権利を)最大限行使することなく(棄権したり、投票はしてもよく解らないまま投票したとか、或は騙されてその党や候補者に投票しただけで、あとは何もせずに)、多数派政権の支配にただ黙って服するだけならば、民主主義は(国民は、たとえその政府、その政策に支持も賛成もしておらず、何もしていなくても責任の一端を負わされ、責任を逃れることはできない、その分)専制政治よりも割の合わない制度なのだ、ともいえるだろう。要するに、民主主義における主権者・有権者各人は政治(関係する知識・情報の獲得、集会・デモ・議論・投票など)にしっかり参加し、闘って(論争・宣伝・応援などに)勝つか、負けても僅差・小差で迫るだけの頑張りが必要なのだ、ということ。