米沢 長南の声なき声


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どうすれば幸福に?(再加筆修正版)
2014年01月16日

国連の調査―「世界の国民幸福度」―各国で幸せを感じている人の多さ順位(2013年)
 1位デンマーク、2位ノルウェー、3位スイス・・・・・
 17位アメリカ・・・41位韓国 、42位台湾、 43日本(先進国の中では際だって低い)

幸福とは―心が満ち足りること      (参考―NHK・Eテレ「“幸福学”白熱教室」)
(1)幸福の客観的条件
  ①暮らし・収入の安定(ただし一定の高さ―アメリカでは7万5千ドル―に達すると、それ以上収入が増えても幸福度は頭打ち。金持ちは貧しい人よりも幸せだが、その差は大きくない。)
  ②健康、住環境(自然・生活環境)の快適さ
  ③人生経験(世代・年齢)
  ④恵まれた(良好な)人間関係(家族・隣人・同僚・上司・部下)―貧しい家に住んでも、家族や子供に恵まれていれば幸福だとか
  ⑤治安―社会の安全・平和
 豊かさ・快適さ・安全・平和に慣れてしまうと、それが当たりまえのこととなり、(主観的には)その有難みや楽しみは薄れるものだが、それが失われると耐えがたい不幸に陥る。それらは各人それぞれの幸福実現の客観的条件として、各人の努力とともに、国には「健康で文化的な生活」「教育」等の最低限度の保障義務が課せられている(憲法で)。
(2)主観的な(人それぞれで多様な)幸福―喜び・快感・満足感(自己満足)
    客観的条件(生活条件、年齢的、身体的・能力的条件、社会的・環境的条件)は同じか、違いはあっても、その条件(境遇)下で各人がそれぞれ追求して得る幸福感(家が貧しいとか条件には恵まれなくても得られる幸福感、或いは挫折や逆境から脱し再起して得られる幸福感)

どうやって幸福にありつくか
 ①運によってありつく(幸運)―「宝くじに当たる」など
 ②他の人からもらって得る幸福感(喜び)―ごちそう・娯楽・スポーツ・芸術鑑賞など
 ③自らの努力(心を集中、苦心)によって―目的(夢・志)・目標(最終目標、あるいはそれへの過程を一段一段その都度)達成して得られる(達成感・満足感)
 ④互いの協力(それへの参加)によって分かち合って得られる幸福感
 
度合い(幸福度)
  *物質的欲求の満足(物の豊かさ―贅沢―常態化していつものことだとか、慣れてしまうとどうということがなくなる)より精神的欲求の満足(経験、夢・目標達成)のほうが幸福感が心に残る
  *③と④で、自らの努力によるものほど高い(幸福感が大)
      要した努力(困難・苦心)が大きいほど高い(満足感が大)
  *自分だけでなく人からも共感(拍手)を得られ、或いは人から感謝されるものほど高い(満足感が大)―お金は自分のためよりも他人のため使った方が(但し、強制されてではなく自発的に)―与える喜び(それは人間の生まれ持った性質と考えられる。豊かな国でも貧しい国でも、生活環境や文化の違いにかかわらず、どちらの国も、自分のためよりも人のためにお金を使ったことを思い出す方がより幸福感が高いという点で一致。子供はおやつをもらった時より分け与えた時の方がうれしい顔をする。実験・データで明らか)
 (自己満足といっても自分さえよければ何をしてもいいということにはならない。人に迷惑はかけない。できれば人々から喜ばれ共感してもらえてこその自己満足、いわば「自他満足」。
 自己満足といっても世のため人のためになるものほど、その満足感は大きいということだ―利己よりも利他)   仕事・事業・他者への投資・ボランティアなど社会貢献、
          スポーツ選手・アーチストの活躍、冒険・偉業など(―人々の感動を呼ぶ)

 小野田少尉―諜報員としてスパイ教育を受けた情報将校で、フィリピンの密林に潜伏してゲリラ戦、戦争終結しても任務解除の命令が届かず、29年後、発見されて帰還。
 彼は日本に帰還するまでは最悪の条件下で生きてきた(生きるために動物を殺し、或いは敵人をも)が、任務(解除命令がないかぎり、生き延びて全うするしかない任務)とともに日々生きるための目標をもち、目標達成に「生きる喜び」(辛いながらも、それなりの満足感)を感じて生き抜いてきたのだ。そして、その後、帰国して間もなくブラジルに渡って牧場経営、自然サバイバル塾を開いて日本国内でも青少年を鍛えようということで、それに打ち込んだ。
 靖国神社を信奉する「日本会議」の代表委員を歴任、田母神氏らに同調していた等のこともウイキペディアに出ている。いずれにしても、彼はそれで自己満足して(主観的幸福を感じて)いたに違いあるまい。
 著書には「人間はもともと殺し合うようにはできていない」としつつ、「人間は生きるために生まれてきている。潜在能力を引き出すためには、明確な目標を持ち、目標を達成するために覚悟を決めることが大切である」と書いている。
 (最近、肺炎にかかり91歳で亡くなった。)

 当方のやっていることは、ほとんどが、まるっきりの自己満足でしかないのだが、それでも、いささかなりとも満足感があるばかりも(というか、それで気が済んでいるんだから)よしというものだろう。ささやかながら、それで生きがいを感じ、それで生きていられるのだから。但し、世のため人のためには役立っていないだけ幸福度は低い(でも、しかたない)。

 それはともかく、人の幸福は、客観的条件はどうあれ(どんな時代に生まれ、どんな国や家に生まれ、どんな体や頭に生まれようと、年収がどれほどだろうと、どんな学校や大学を出ようと、どんな仕事に就こうと、連れ合いがどんなだろうと、どんな服を着、どんなクルマに乗っていようと)、健康で文化的な最低限度の生活が保障され、能力に応じて均等な教育の機会が保障され、幸福の追求権が各人に保障されていさえすれば(現行憲法はそれを認めている)、あとは自分の意思と努力しだい、といってよいのではなかろうか。



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