米沢 長南の声なき声


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競争社会から友愛社会へ―教育のあり方
2009年12月15日

我が国の現状と歴史的経緯
 弱肉強食、「勝ち組」と「負け組」の分化、バラバラ分断された社会。
 学校では競争・管理教育、受験教育、テスト選別教育、偏差値教育―教育が学歴格差・階層社会を再生産。
 我が国では高校にも大学にも序列が付いている。親も、先生も、生徒も、人々の頭に、日本社会とはこういうもので、我が国の学校・教育とはこういうものだと刷り込まれているのだ。

 教育を国家や企業の「人材」育成とみなす(明治以来、後発資本主義国として欧米先進国に「追いつけ、追い越せ」と)。
選抜試験制度には中国の「科挙」(官僚採用試験制度)の影響。
 
 しかし、(精神科医・国際医療福祉大学教授の和田秀樹著『教育格差』PHP文庫によれば)戦前は基本的には「世襲社会」。それが、敗戦直後、旧政治家の公職追放と財閥解体で、世襲政治家・世襲企業オーナーに替わって高学歴者(東大出など)が政治家・企業のトップに就くようになり、「学歴社会」の様相を帯びるようになった。しかし、60年代後半以降には「世襲」が復活。

 一方、1949年、文部省(の学校教育局)は(「新制中学校・新制高等学校、望ましい運営の方針」で)「入学者の選抜はやむを得ない害悪であって、経済が復興し、適当な施設を用意することができるようになれば、直ちに無くすべきもの」とし、51年には「志願者はすべて入学させるべきものだ」という通達をだしていた。
 しかし、63年、学校教育法施行規則が改訂、「志願者が定員を超えなくても入試実施」と。
 61年全国一斉学力テスト~66年まで。

(和田秀樹氏によれば)高度経済成長が続いている間は、「大卒であろうと高卒であろうと一定の職に就くことができたし、終身雇用と年功序列制の下で、どこの学校を出ていても、最終的に悪くても係長クラスにはなって、そこそこ豊な暮らしと老後を送ることができた。」「大卒の新入社員は出身大学によって初任給に差があるわけではなく、学歴が貧富の差と直結していたわけではないし、学歴による収入や地位の格差も言われているほど大きなものはなかった」という。
 しかし、90年代、終身雇用・年功序列制が崩れ、「情報社会」から21世紀「知識社会」へという産業社会の変化にともない、「学歴社会」が本格化するようなった。
 知識労働者(自分で考えて仕事をする)とサービス労働者(単純に言われたことをこなす)が分化、格差が広がる―「一流大学卒と高卒者の格差」から「大卒正規就職者(年収1,000万円)とフリーター(年収100万円)の格差」へ。
 企業が採用時点「学歴不問(学歴による差別はしない)」と言っているのは「タテマエに過ぎない」。「実際には一流大学の人を採る企業は多い。学歴を問わなくても、学力試験を課すことによって、結果的に学歴の高い学生しか採らないようになっているのだ。」「学歴格差は就職時点での格差に始まり、人生そのものに大きな格差を生み出してしまう」と(和田氏)。(氏は「日本社会は『世界で最も成功した社会主義』といわれるほど『結果の平等』が保たれてきた国だが、今後は『結果の格差』が広がってきているし、今後もさらに広がっていくと予想される」と書いておられる。)

 この間(90年代)、国際化・情報化など変化に対応、詰め込み主義を反省―「新しい学力観」―「自ら学び、自ら考える力」「生きる力」(「情報」を収集・取捨選択・加工して自らの「知識」として応用・活用できる理解力・思考力・応用力・創造力など)を重視、「ゆとり教育」「体験学習」「問題解決的・問題探究的な学習」「総合学習」等が試みられるようになる。
 しかし、受験制度が変わらなかったため、それらは不徹底なまま以前に逆戻り(「反ゆとり教育」「詰め込み・訓練型学力観」―ペーパーテストの成績・「受験学力」に矮小化)。
 教育に市場原理が導入―学校を企業と同一視―生徒・教員・学校同士を競争させ、「競争こそが教育だ」と。
 高度成長期は(それでも)ボトムアップ(底上げ)型だったのに、プルトップ型教育へ(エリート教育に傾く)。
(1999年当時、教育課程審議会の会長・三浦朱門氏いわく「できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。・・・・非才・無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」と。)

 国の経済力・国際競争力の維持・強化が教育の目的に。
 教育の国家管理―統一的な国家カリキュラム(「学習指導要領」)で画一的な一斉授業。
 全国学力テスト復活(07年)

 学校と教師には数値目標・ノルマ達成が課せられ、文科省・教育委員会等から「調査報告書」が求められる―成果主義・効率主義・官僚主義。


 こうして、学校は教師による単なる知識・技能の伝達(「注入」)の場、競争と選抜の場と化し、学校にはテスト・入試(受験)・ランク・学費負担は付き物だとなっていった。
  テストといえば、ペーパーテスト、記述式は少なく、記号や番号を選ぶ択一式(正解が一つだけに単純化)。
 授業といえば、一斉授業、詰め込み・訓練的授業(ドリル)。
 教師はテスト準備・採点、順位付け作業に時間を取られる。(仕事を家庭に持ち帰る)
 子どもたちと、一緒に活動するとか、個別指導をするとか、個人的に会話を交わす時間が無くなる。日々の授業をじっくり反省する時間も、同僚たちと話し合い、学び合う時間も無くなる。
 授業ではテストに出そうなところしか教えず、テスト科目・入試科目以外の授業がおろそかになる。

 子ども・生徒たちも、テスト科目・受験科目、テストに出そうな問題しか勉強せず、点の取りやすい科目に精を出す―テストが終われば忘れてしまう(実生活の中で活かされず、使わなければ忘れてしまい、学力は定着しない―学力低下の原因)、狭く薄っぺらな学習に。
 授業中、社会的な努力や責任について学ぶ機会や時間的余裕が失われ、社会性も育ちにくく。
新政権
 鳩山首相は、小泉政権が掲げていた「自助」と「競争」に対して「友愛社会」「絆の社会」を打ち出し、「無血の平成維新」を掲げて「変革の断行」に挑もうとしている。
(10月26日の国会・所信表明演説などでのキーワード:「弱者のための政治」「少数の人々の視点を尊重」「人は他人のために存在する」「支え合って生きていく日本」「共生と自立」「市民の連帯を大事にする横社会」etc)
「共生と自立の原理」
 共生―互いに協力・交流・共感・支え合い。
 一人ひとり自立―働いて役に立ち、評価され、感謝され、必要とされる(障害者にも「出番」・「居場所」)。
 子育て・教育は個人(家庭・親)任せではなく、社会全体の責任で行うべきものとして、「子ども手当て」「高校授業料の無償化」などの政策を実行しつつある。
 昨今の大不況で学費が払えず、高校・大学を中退もしくは進学断念に追い込まれている生徒・学生が急増している、この折に新政権が高校教育無償化・奨学金の給付制(返済不要)化に踏み切ったことは画期的なこと。
 しかし、それだけでは問題解決にはならない。上記のような受験競争教育体制をそのままにしては、親も本人も(とかく見栄にとらわれ、ただひたすら大学の名前がほしいばかりに)そのお金(「子ども手当」「授業料無償化」など、それらで浮いたお金)を塾や予備校・家庭教師などにつぎ込む家庭が増えるだけの結果にしかならず、それだけでは「競争・格差社会」を「友愛社会」に変えることは不可能だろう。
 新政権は、そこ(受験競争教育体制)に大改革の手を打ってこそ、「日本の歴史を変える」「平成維新」政権として相応しいものとなろう。
 すなわち、競争・管理教育をやめて「共生と自立」のいわば「友愛教育」に切り替えること。それに相応しいのはフィンランドのような人間自立支援教育なのではないか、と思われるが、それは次のような教育である。
共生と自立の友愛教育
 民主党のマニフェストには、そんなことは取り上げておらず、当方の思い付きに過ぎないのだが・・・・。
 学ぶのは、国家や企業などのためではなく、自分(自らの人生)のため。じっくり考え、発想をめぐらし、学んだ知識・技能を自分の(自立した)生き方・社会のあり方と結びつけて応用し活用できようになる、その応用力・思考力・創造力・学習力(自ら学ぶ力、世の中の変化に応じて新しいものを学び続ける能力)を身につける。
 知識とは、教師によって(教科書そのままに)与えられるものではなく、事実(教師から知り得た事実もしくは自分で調べて知った事実)を基に自分なりに作り上げていく(それぞれ個人によって構成される)もの。
 子ども主体の学習。教師は単なる知識の伝達者ではなく、子どもの学びを支援し、人間としての総合的な能力を育てる支援者に徹する。
 子ども・生徒は自ら進んで学ぶ(教師は強制せず、本人のやる気が起きるまで待つか、あの手この手でその気になるように仕向ける)。結果は自分の責任。
 教師は叱咤・激励はするが、強制せず、他人の邪魔になったり、危険行為などがあった時だけ注意・叱責。

 教科を超えた学力を重視し、教科横断的なカリキュラムを編成。

 どこの学校に入っても、一人ひとり(違う個性・特性を持っている)を大切にする平等教育―画一的ではなく個別化した学び。
 個々の生徒の成績に順位を付けて比べるためのテストや選抜競争試験による入試制度はやめる。試験は検定試験、高校卒業認定試験・大学および専門学校の入学資格試験あるいはPISA(OECDの学習到達度調査)のような学力調査だけに。(全国学力テストは、新政権は全国一斉をやめて、抽出方式に切り替える方針。)
受験競争がなければ、お互いに教え合えるし、受験勉強にとらわれず、自分の人生に本当に必要な勉強ができるというもの。
 以上は、当方の提言。
フィンランドの教育
 フィンランドの教育とはどのようなものか。(参考:都留文科大学教授・福田誠治「競争をやめたら学力世界一」朝日新聞出版)
 この国―学力世界一(OECDのデータ)、国際競争力1位(ダボス会議「世界経済フォーラム」の評価)
 その教育の特徴―平等と福祉の原則
①一人ひとりを大切にする平等な教育(機会の平等)
学級定員(上限)―小学校25人(教師一人当たり16人)、中学校18人(教師一人当たり11人)
 一人たりとも落ちこぼれはつくらない、切り捨てない。
②子どもが自ら学ぶことを基本
 教師は支援、「かまい過ぎ」ない。(教師が「教える」のではなく、生徒が「学ぶ」)
「知識は主体(生徒)自ら学び編成していくものだ」と(「社会構成主義」、唯一絶対の知識・否定―答えは一つにあらず)
 一斉授業は少なく、たいていグループ学習(テーマ学習など)で教え合い。個人学習、マイペースで学べる工夫も。
 「異質生徒集団方式」(能力混合クラス)
 自由だが、結果にたいしては自己責任、他人を利用して楽をしようとはしない。
③教師を専門家として信頼
 学力調査などは、子どもと教師の支援のために使われ、学校や教師の出来・不出来を公表したりはしない。(人事考課制度―個人別教師評価・比べる査定―はない)
④権利としての教育を福祉としての教育が包み込んでいる
 「教育の基礎は家庭の問題だと突き放すのではなく、家庭でできないことは社会福祉として社会全体で受け持つ」
 小学校から大学まで授業料・無料
 高校までは教材・学用品・給食・通学費まで無料
 高校生・大学生の下宿代に補助金
 教育を提供する責任―(子どもの居住地の)地方自治体に
とりあえずは我が家で
 現在のような入試制度(競争選抜)を廃止し、テスト競争・管理教育はやめてくれるよう、訴えるものであるが、新政権がその気になってくれるわけはないか・・・・。
 とりあえずは我が家で、孫たち(その親たち)にだけでも、この考え方で、次のようなことを促している。
①テストなど気にするな(競争に乗るな、成績順位など気にするな)。世間で語られる高校・大学序列(ランキング)など気にするな。他人と比べる必要はない。
③「勉強しろ」「練習しろ」(「さもないと負け組になるぞ」「ひとに置いていかれるぞ」)等と、押し付けたりプレッシャーをかけるようなことは言わない。親や先生やコーチは助言・支援(叱咤・激励も)。
 勉強(サッカー・水泳も、モダン・バレーも、バイオリン・ピアノも)は自分のため、自分の好きなようにやればいいんだ。結果にたいする責任も自分で負えばよいのだ(ひとのせいにはしない)。
                             がんばれ!孫たちよ。
       


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