米沢 長南の声なき声


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対抗的軍事戦略か協和的平和戦略か(加筆修正版)
2023年01月16日

<はじめに>
 昨年は「今年の漢字」が「戦」だった(公募で1位、10位が「和」)。コロナ・パンデミックとの闘いがあり、ワールドカップなどの試合もあったが、ウクライナ戦争があって、そういう漢字になったというわけ。タモリは「2023年は、どんな年になりますか」と訊かれて「『新しい戦前』になるのでは」と。それは、今年は、この後にこの日本にも関わる新たな戦争が控えている、というわけか。それは中台戦争か朝鮮戦争(再開)にアメリカが介入・参戦し、日本も集団的自衛権に基づいて米軍を支援・参戦することになるだろうと予想されることから、敵基地攻撃能力の保有・配備などその準備岸田内閣の「国家安全保障戦略」などとして閣議決定され、バイデン政権と岸田政権がその気になっていて、国民世論にもそれを感じている向きがあるからだろう。
 岸田政権は、強大な戦力を持つアメリカを盟主にG7やNATO諸国と結束して中・ロ・北朝鮮・イランなどが戦争を仕掛けるのを抑止し、仕掛けられてもその都度撃破し制圧することによって平和を実現することができるとの考え。
 国民の間でも、ロシア・ウクライナ戦争や中国の台湾を巡る軍事的圧力、北朝鮮の相次ぐミサイル発射実験を報道によって見せつけられるにつけ、それ(防衛力強化)は、そうするしか仕方あるまいとして容認し、それに応じる向きが多いのだろう。
 しかし、そのようなやり方(敵対政策・軍事的対決政策)で、敵対国との戦争を制圧・抑止して「持続可能な平和」など実現できるだろうか。核戦争・第3次世界大戦などの悪夢が伴うが、そんなの起きっこないとでも思っているのだろうか。それとも起きてもしょうがない?
 
 わが国にはそもそも平和憲法(9条に戦争放棄、戦力不保持・交戦権の否認)があって、
それに従って戦争をしない、仕掛けられても戦争には応じないという不戦・平和主義の原則があるが、一国だけで戦争放棄、戦力(軍備)も持たないで平和を維持するなんて、そんなのは不可能な絵に描いた餅。
 ならば、日本だけでなくどの国も、(日本の憲法9条のように)戦争放棄、戦力不保持を定めて軍備を全廃すればいい、などというと、それこそ夢想家の絵空事だということになるのか?

<1>戦争を止められない国連
 どの国も軍備・兵器を持ち合っていても国連憲章に従って戦争や武力には訴えず、紛争は話し合いで解決するという原則を取ってきたのが国連。その話し合い、外交解決への努力を尽くさず、武力に訴え、戦争を仕掛ける国(侵略国など)があれば加盟国全体で制裁(経済制裁・軍事制裁)(―そうすることによって戦争を抑止・制圧するというのが国連の集団安全保障)。それらは安保理の決議に基づいて行われるが、その決定と国連軍編成・出動までの間は(暫定的に)当事国独自(個別的自衛権)で抗戦、もしくは同盟国とともに(集団的自衛権で)抗戦する自衛戦争は容認する、というのが国連の建前。
 ところが安保理の5大常任理事国には拒否権があり、その一国でも反対すれば侵略行為の認定も制裁も決定できないことになる。今回のウクライナ戦争は常任理事国ロシアの侵攻から始まり、その拒否権で、安保理は機能せず、国連の集団安全保障は機能していない(一致した決議に基づく制裁措置は講じられておらず、結局ウクライナ軍だけが前面で戦い、アメリカなどNATO加盟国が軍事支援するにとどまり、それらの西側諸国とともに日本はロシアへの経済制裁には加わっているものの、それ以外の国々は経済制裁にも加わっていない)。要するに国連は戦争を抑止も制止もできずに、ウクライナ戦争は未だに続いている。双方とも攻撃・反撃の応酬を繰り返し、NATO(米欧)の軍事支援も続けられ、戦争とそれに伴う人々の悲惨は絶え間なく続いており、ウクライナ市民の悲惨はもとより、経済制裁を被っているロシア市民ばかりか、両国からの石油・天然ガスや小麦などの穀物の輸入がストップしてエネルギー危機・食糧危機など、その影響は全世界に及んでいる。今の国連ではどうしようもない、といった状態

<2>そもそも、どうして戦争などするのか
(1)戦争とは、敵・味方双方とも殺傷・破壊用の武器を用いて戦い殺し破壊し合うもの。武器にはハードウエアにソフトウエア(サイバー能力や情報通信能力)など様々あるが、中でも不可欠なのは殺傷破壊用武器で、それを用いる戦闘で殺し合い破壊し合う、それが戦争。
(2)敵・味方どちらかが、相手に力づくで要求を押し通そうとし攻撃、それに対して抗戦するその場合、それぞれ正当性(正義)・不当性があって、不当な侵略や攻撃に対して、正当な自衛・防衛抗戦もしくは懲罰制裁反撃などはあるとしても、いずれにしろ殺傷(人命の犠牲)を伴う。自分の側に正義(正当性)があろうとなかろうと、生きるか死ぬかの殺し合いとなれば(「なにくそ、殺されてたまるか!」とか)、或いは(「こん畜生!」と)敵愾心に駆り立てられて、撃ちまくるしかなくなり、交戦法規とか「必要最小限」の限度を守らなければ、なんて綺麗ごとをいってはいられない、となって最大限撃ちまくり、過剰防衛・過剰反撃となってしまい、それだけ多くの人命が犠牲になる。それが戦争というものなのでは。
 その意味では戦争し合うこと自体が悪。その場合、軍事(暴力)対軍事(暴力)の戦争自体を回避するため、一方から仕掛けられても抗戦・武力抵抗はせずに、非暴力抵抗に徹するという方法もある。(非暴力抵抗といえばインドの反英独立運動の指導者ガンジーが有名であるが、その「非暴力」の研究者でアメリカ人のジーン・シャープ博士は非暴力戦術として198もの実践方法を考案し、リトアニアのソ連からの独立運動など成功に導いている。)
(3)戦争の要因には3点―①戦う理由(動機)があること、②戦う能力(殺傷破壊用武器・武力・軍備)があること、③戦う意志があること
 まず①理由・動機となるのは、民族・居住地域・国々の間で、食料・エネルギー・水や土地・資源などの領有・支配、利用権などの利害の対立そしてトラブル(もめ事)があること。それらは交渉、相談、協議して合理的な方法を見つけ出して分け合うとか、共用するとか、譲り合うとか、ウイン・ウインで納得・合意に至るまで、意を尽くして話し合えばよいわけである。ところが、そこに②武器・兵器・軍備(強制手段)があると、それにものを言わせて力づくで無理やり相手に対して強要し、要求に応じさせたり、奪ったりもできるようになる。それに対して相手側にも武器・軍備があれば抗戦してそれを退けることができるようにもなる。そして双方に③戦う意志があれば(互いにその気になれば)戦争になるわけである。ただその際もう一つ必要な考慮は勝算(勝ち目があること)と人命の犠牲・損害などリスク計算上のコスパ(費用対効果)があること。但しこれは「破れかぶれ」(自暴自棄)になれば度外視(お構いなし)。
 上の3つの要因のうち決定的なのは②(武器・軍備があること)で、戦争をするのはその手段となる武器・軍備があるからにほかならないわけである。それ(武器・軍備-それに軍事同盟・軍事ブロック)さえなければ対立やもめ事はあっても戦争にはならないし、戦争する気にはならないはず。
 ②で武器・武力を持つ集団や国が出てくると、それを持たない方は脅威を感じて互いに武器・軍備を持ち合うようになる。すると互いに脅威を感じて戦々恐々となり、相手が戦いを仕掛けてくるのを恐れ、それに対抗できるように、相手側に勝るとも劣らない武器・武力を備えて自衛する。そうして互いに戦力・自衛力を強化し合う。そうなると、自衛のためといっても、相手側から仕掛けてこられないように「攻撃は最大の防御なり」と先制攻撃をかけるといった「先制自衛」の戦術をとったりすることにもなる。そのように武器・軍備それに軍事同盟それ自体が戦争の火種となる。武器・軍備を持つということは火種そのものを持つということであり、自分に点火する意志はなくても相手にその意志があれば戦争になってしまうのだ。
 (ロシア・ウクライナ間でも、双方に武器・兵器などあるが故に、互いに紛争の相手国に対して、協議・交渉を拒み、問答無用で戦争に突入し、一方のウクライナには米欧NATO加盟国が武器供与・軍事支援して激戦が続き、国連も止められなくなっている。まさに武器・兵器それにNATOなどの軍事同盟が火種になって、火をつけたのはロシアの方だが、その火に油を注ぐかのようにアメリカやNATO加盟国の武器供与・軍事支援がウクライナ軍に対して行われ、燃え広がった戦火は、もう消すに消せなくなっている、という感じ。)
 戦う能力(兵器・戦力・軍備)があっても、戦う意志はなく、他の国が自国を相手に攻撃を仕掛け戦争をするのを抑止するために保持するだけだ、という抑止力論がある。戦力あるいは自衛力として防衛力とか軍備を持つことによって、「戦ったらかえってひどい目にあうぞとか、攻撃を仕掛けても撃ち返されるだけで無駄だぞ」とういうことで、相手側の戦う意志をくじき、戦う気を起こさないようにして戦争を避けるというわけ。(戦争を「仕掛ける意志」はないといっても、「仕掛けられたらやるぞ」という意志を示す、ということだ。) 
 あるいはまた、「外交には軍事力による裏付けが必要だ」という考え方もある。軍事力を持っていることによって、それを背景にして外交交渉を有利とし、不利にならないように外交力を補強するという、いわゆる「棍棒外交」とか「砲艦外交」で、力による外交の手段。
 いずれも、武力・軍備を威嚇に用いるやり方で、相手に脅威を感じさせるやり方。思惑どおりうまくいって、それが成功するという保証はなく、結局戦争になってしまう(過去の事実―日中戦争では圧倒的な日本の軍事力は中国に対して抑止力も外交力も効きめがかったし、太平洋戦争ではアメリカの圧倒的な軍事力は日本に対して抑止力・外交力としては効きめがなく、悲惨な戦争になってしまっている。またアメリカのアフガニスタン侵攻・イラク侵攻そしてロシアのウクライナ侵攻も、その圧倒的な軍事力をもってしても抑止力・外交力は効かなかったことの証左なのでは。
 尚、戦争「抑止力」には次の三つがある(それらが戦争を抑止する)。
①互恵的協力・外交関係構築―対話・交流
②法(国際法・国内法)で禁止―国連憲章で武力による威嚇、武力行使の禁止
  東南アジア友好協力条約(ASEAN加盟国以外に日米中ロ韓国・北朝鮮も加入)でも
                         武力による威嚇、武力行使の禁止          
③国に戦力(軍備)を持たず、どの国とも戦争には応じないことを国際的に約束。日本国憲法9条はその(他国に対して不戦・非軍事で対応する)立場。
 戦争は武器・軍備を持った対戦相手(国や勢力)がいることによって行われるが、いなければ戦争をやろうにもやりようがないわけである。つまり武器・軍備を持った国があって、その国が戦争を仕掛けようにも、自国が軍備を持たず、相手にならなければ戦争にはならないわけ。
(日本は憲法で本来はこの立場のはずなのだが、制定後まもなく、米ソ冷戦下で国はまだアメリカ軍の占領統治下、その米軍基地が日本に置かれ、朝鮮戦争に際してはそこから米軍が出撃、その隙を埋めるため警察予備隊を創設。この朝鮮戦争の間にアメリカは日本と講和条約とともに安保条約を結んで、占領は解除しつつも、基地と米軍駐留は継続、警察予備隊は自衛隊へと改称・増強され、安保条約も改定、日米同盟は強化されて現在に至っている。かくて日本はもはや不戦・非軍事国家ではなくなって、アメリカに組みし、今は中国や北朝鮮と戦争するかもしれない国に化してしまっている。戦争「抑止」なら次の④でいいのだというわけ。)
軍備(武力)による抑止―「拒否的抑止」(攻撃を仕掛けてきても迎撃・阻止されるばかりだから無駄なことはやめよと)、「懲罰的抑止」(攻撃を仕掛けてきたら、「報復・倍返しされ、かえってひどい目にあうぞ、だから攻撃しかけたりするなよ」と
 問題は、そのうちの③で、武力は、要求を相手に無理やり応じさせる手段になるが、逆に、それに対して抑止力にもなる。そして攻撃を仕掛けてきたら武力抵抗(抗戦)し、反撃―つまり戦争になる
 双方の戦力が拮抗すれば、互いに牽制して(冷戦期の米ソのように)均衡抑止になるが、差がつくと崩れ、どっちか戦力が上回った方が仕掛けてくるかもしれない、そうならないようにと、互いに戦力アップ(防衛力強化)に努め軍拡競争になる(安全保障のジレンマ)。その間、互いに相手を脅威としてそれにとらわれ、戦争の不安と恐怖から逃れられなくなる。それでは持続可能な平和(恒久平和)は訪れない 

 それにつけても、必ず襲来し回避のできない自然災害(天災)なら防災の備え(防備)は不可欠だが、戦争はその気がなれば、しなくて済むものであって、防備も軍備も不要なわけであり、むしろ、軍備などあることによって(戦争が選択肢となって)人をその気にさせる(つまり戦争を誘う原因ともなり火種となる)
 
<3>戦争が当たり前から戦争禁止時代になるも制裁戦争と自衛戦争は容認
 歴史的に文明の発展にともなって武器や戦術が(刀剣・鉾・槍・弓矢・騎馬戦・戦闘用馬車・軍船・投石機・火薬・鉄砲・大砲・軍艦・戦車・装甲車・戦闘機・空母・潜水艦・地雷・魚雷・生物化学兵器・弾道ミサイルや誘導弾・核兵器・電磁波パルス攻撃・AIロボット兵器へと)進化・発達し、現代に至っている。この間5000年余り、現生人類20万年の歴史からみれば極わずかの期間でしかない言わば「戦争時代」に。最初の武器は槍や弓で狩猟用に使われたのが、戦いの武器になって、そこから武器を持ち武装し合って戦い合う戦争時代が始まって、戦争があって当たり前であるかのような歴史をたどった。
 しかし、第1次世界大戦まで来て、その後(100余年前)国際連盟規約から戦争は違法化されるようになり、不戦条約で「国際紛争解決の手段として戦争に訴えることは禁止」(戦争放棄、但し違反した国に対する戦争・自衛戦争は可)となったが、第2次世界大戦後の国連憲章では、「すべての加盟国は国際関係において武力による威嚇又は武力の行使・・・・慎まなければならない」としながらも、違法な武力行使・侵略行為に対して鎮圧のために、より明確に集団的措置(安全保障理事会の決定のもとに理事国自ら或いは加盟国が提供する兵力によって軍事的強制行動)をとることを定め、その措置がとられるまでの間に限って当事国の自衛権(個別的自衛権とともに集団的自衛権)を国家に「固有の権利」として認めた(つまり武力行使禁止原則の例外として安保理による軍事的強制行動とともに各国の自衛権行使も可能とした)。
 ところが、それらが、各国の戦力(軍備、武器、核兵器さえも)保有・維持を正当化・容認する結果となっているわけである。戦争や武力に訴えることを違法としておきながらである。
 そして、現に戦争は行われており(ウクライナ戦争は、以前ソ連とともにWATOが解体して以後西側NATOの東方拡大に脅威を感じてきたロシアが、緩衝国のはずのウクライナまでがそのNATOに加盟しようとしているのを阻止するためとか、ウクライナ東部のロシア系住民の多い地域で2国が分離独立しようとしてウクライナ政府軍と戦っているその独立を集団的自衛権の名目で守るためとして侵攻して始まった)、アジアの近隣でも「朝鮮半島有事」・「台湾有事」への戦争準備ともいうべき軍拡、同盟国・同志国間の結束強化(共同訓練・共同兵器開発など)がにわかに行われつつあるわけ。
 それら各国の軍備・軍事力はいずれも自衛・専守防衛・戦争予防・抑止力の名目で保持され、その増強・軍拡が互いに脅威となり、戦争の火種になっているのだ。そして憲法で戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認のはずの日本の自衛隊が「反撃能力」と称して相手国領土内「敵基地」への攻撃能力の保有をも計画するに至っているのだ。

<4>そもそも自衛権は
 国連憲章では「国家に固有の権利」とされているが、それは基本的人権のような自然権(自然の理法で、国家というものができて法律が制定される以前から、人間に生まれながらにして備わり、国家によっても侵されることのない権利)ではないのである。又、国家を守る自衛権は、個人の正当防衛の場合(襲われて人や自分の生命を守るために、そうする以外に他に手段がなくて、被害者当人か警察官がやむを得ず取った殺傷行為は刑法上例外的に罰せられないの)とは異なる
 アメリカでは憲法(修正2条)でアメリカ人民の武装権(銃などを所持する権利)が認められているが、日本では刑法で正当防衛が認められているからといって、護身用に銃刀を所持することは法律(銃刀法)で禁止されている。(その結果、殺人発生率は人口10万人当たりアメリカ5.3件に対して日本は0.2件で圧倒的に少ない。)
 したがって、国連憲章の規定(51条)が改廃(削除)されて各国の軍備が全廃されたとしても、それが自然権などに反することにはならないわけである。

<5>戦争にもルールがあり、先ずはそれを守って軍縮へ、との考えはどうか
 一気に軍備全廃とまでいかずとも、まずはルールを守るようにすればいいのでは、とか、地道に軍縮を積み重ねていけばいいのであって、そうして軍備全廃なんてできっこないという向きが多いのだろうが、はたしてそうだろうか。
(1)戦争にもルールがあり、国際法があり、交戦法規というものがある
 だから、それを守ってやればいいのであって、守らない奴が悪い、国連憲章に違反して侵攻を仕掛けた方が悪いのであって、戦争そのものが皆悪いわけではない、という理屈もある。
 しかし、現在の国連憲章にも不備がないわけではない。国連は「国際平和機構」というが、憲章は第2次大戦で協力した米ソなど連合国の国際交渉における妥協の産物だったことの反映。その平和は「人権・民主主義に裏打ちされた平和」で、「諸国民の力を合わせる」という意味での「力による平和」という建前だが、基本的に「力による平和」であっても、大国(米ソなど5大国)が(安保理常任理事国となって)力を合わせるという意味での、昔ながらの「力の平和」にすり替えられるようになり、それが冷戦期米ソの対立・相互不信に陥り、ソ連解体(ロシアの他にウクライナなどの小国に分裂)後は、ロシアが安保理常任理事国として残ったものの中国とともに米国側と対立するようになり現在に至っているわけ。そして加盟国の集団安全保障(侵略行為に走った国があらわれた場合には一致協力して制裁措置を実行するというシステム)による平和もまた軍事力に支えられ、大国の軍事力に依存せざるを得ないという具合になっている。その集団安全保障は、侵略を未然に防止するという非戦のシステムであり、理論的には戦争を否定する立場に立っていながら、実際には軍事力行使を完全に否定しきれないジレンマが伴う。しかも実際、侵略行為に走った国があらわれた場合に安保理がそれを認定して国連軍を編成し制裁措置をとるまでの間は、個別的および集団的自衛権の行使を容認し、制裁戦争とともに自衛戦争という戦争を容認する結果なっている。
 国連憲章には「敵国条項」(第2次大戦中の連合国の敵国であった日本やドイツなどの国に対する措置を規定したもので、これらの国が侵略政策を再現する行動など紛争を起こした場合は安保理の許可がなくても、当事国や関係国が軍事制裁・武力攻撃を行うことができる)というものがあって、かつての連合国の敵国日本などが紛争を起こした場合は安保理の認定・判断にとらわれることなく当事国が勝手に自衛・制裁戦争ができることになっていた。今は、国連総会でその条項の削除決議が行われて死文化しているが、条文そのものはそのままで削除されてはいない。
 安保理による制裁措置は冷戦期には米ソ、その後は米ロ或いは米中、つまりアメリカとその対立相手のどちらかの拒否権で決められず、その機能はずうっと麻痺状態で憲章42・43条は死文化同然。その代わり紛争当事国とその同盟国が個別的に、或いは集団的に自衛権を行使して、その名目で戦争が繰り返されている
 アメリカのアフガン侵攻(同時多発テロ事件の報復、タリバン政権打倒)やイラク戦争(イラクをテロ支援国家で大量破壊兵器を隠し持っているとでっち上げて侵攻、フセイン政権打倒)は「制裁」「先制自衛」の名目で行われたアメリカ軍の侵攻で、国連憲章を無視して強行された侵略行為にほかならない。
 そしてロシアのウクライナ侵攻も、NATOの東方拡大とそれへのウクライナの加盟の動きを脅威だとして強行した「先制自衛」作戦であると同時に、ウクライナ東南部に多く居住するロシア人を守るために「生存をかけた特別軍事作戦」だと称して行っている。それは、かつて日本が「自存自衛のため」と、満州事変から始めた日中戦争・太平洋戦争とまるで同じ理屈で行われた侵略戦争にほかならないわけである。そのようなロシアの「自衛」の観念は、どちらかといえばプーチン大統領をはじめとするロシア国家の支配層の「大ロシア主義」という大国意識からする「国家の自存自衛」のための戦いではあっても、国民の中にはウクライナに攻め込んで戦うのが「自衛」のためだなどとは思えないという向きがあり、士気・熱意が高まらない。それにひきかえウクライナ側は、侵攻して撃ち込んでくる敵軍に対して「軍民」ともに「なにクソ」と立ち向かい、自らの住む町や村、家族と土地を侵略者から守り抜くのだという「国のみならず自らの生存がかかった自衛」の戦いで、「徹底抗戦」の掛け声のもとに意気高く善戦し、それを米欧NATOが武器供与して支援。しかし、それだけに戦争は長引き人命の犠牲と惨害はかさむ一方。石油・天然ガスなどの輸出大国ロシアに対する西側諸国の経済制裁と穀物輸出大国ウクライナからの輸入も滞ってエネルギー危機・食糧危機を招くなど世界に深刻な影響が及んでいる。それを国連は止めることができず、手をこまねいているばかりといった状態―国連総会ではロシア非難決議に加盟国の多数が賛成しても、棄権、反対もあり、法的拘束力がなく実効性がない
 それらアメリカの戦争もロシアの戦争も国連は止めることができずにいる。国連の集団安全保障の原則(侵略行為・平和破壊に対する軍事制裁措置)が機能しないところに、個別的・集団的自衛権の行使が容認されている、その結果なのではないだろうか。そのために自分の国は自分で守るか同盟国とともに守るためにと、互いに軍備を持ち合い、それに依存するようになる。対立・紛争があると対話・交渉を尽くして外交的解決に徹するよりも、武力に「ものを言わせ」がちとなり、このような戦争にはしりがちとなるわけである。
(2)交戦法規や国際人道法
 それらには残虐兵器・大量破壊兵器の使用禁止・民間の非戦闘員や非軍事施設など無差別攻撃、捕虜虐待など、やっていいこと悪いことがある。それさえ守っていれば、侵攻を仕掛けられて抗戦し、戦争になっても、敵はどうあれ、こっちさえルールに反していなければ大丈夫。とはいっても、戦争になれば、犠牲者が双方に出るのは避けられない。標的は戦闘員や軍事施設でも、ピンポイントで攻撃して命中するわけではなく、乱射して撃ちまくる。飛んでくるミサイルも迎撃して撃ち落とそうとしても百発百中命中というわけにはいかず、周辺の民間人・民間施設に被害が及ぶことは必至であり、スポーツ・ゲームのようにフェアプレイなどと綺麗ごとは済まない。敵愾心・怒り・憎悪の感情あるいは勇気・ヒロイズム・プライド・意地などの情念あるいは攻撃欲動や死への欲動(自暴自棄)に駆られて撃ちまくって殺し合いそして止まらなくなる。それが戦争というもの
 だから戦争そのものが起きないようにしなければならない。そのためにはどうすべきか、その方を考えなければならないのでは。戦争そのものを無くすこと。そのためには戦争手段(軍備)を無くせばよく、それを無くさない限り戦争は無くならない、とは考えられないのだろうか。
 ところが「悪いのは銃ではなく、それを使う人間だ」という人もいる(トランプ)。
 30年前、アメリカのルイジアナ州で留学中の日本人高校生が射殺された事件があった。その時、高校生はハロウィーンで仮装して訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と思われて撃たれたのだ。その家に銃などなかったならば、よく話して「ここは違うよ」「ああ、そうですか。失礼しました」で済んだはずが、銃を持ち出して、「動くな!」といっていきなり発砲した、という。刑事裁判では、発砲した人物は無罪だった(「悪いのは銃の方で、それを使った人間ではない」というわけか)。いったいどっちが悪いのだろうか。
 「悪いのは核兵器ではなく、それを保有する国による」。アメリカやNATOの国あるいは日本を守るために保有・配備する核兵器ならいいが、ロシアや中国・北朝鮮などの核兵器は悪い」などといえるのだろうか。それとも核兵器であれ通常兵器であれ何であれ殺傷兵器はどの国が持っても悪い、というべきなのでは。
(3)軍縮
 軍備全廃といっても、一気に全廃というよりも、段階を踏んで徐々に軍縮を積み重ねていって、まずは核軍縮から初めて、通常兵器を重火器から軽火器・小型兵器へと段々に縮小していくという漸進的なやり方を取った方がいいのだ、などというが、現実は、核兵器禁止条約さえ核保有国やその同盟国は被爆国の日本でさえも調印せず、NPT(核拡散禁止条約)でも、5大国以外の国には核拡散禁止で、北朝鮮の核実験には非難・制裁を科しているが、5大国の核軍縮は一向に進んでいない。一つ一つ段階的にといっても、それをやる度に交渉・かけ引きが行われ合意に達するまで延々と時間がかかり、重火器から軽火器・小型兵器に達するまでには、はてしなく長期間、後世までかかってしまい、それこそ非現実的だ。やはり、思い切って一気に全廃といかなければダメなのでは。

<6>軍備全廃
 それは「戦争根絶の唯一確かな道」(花岡しげる氏)。とはいえ、その実現を可能とするには、難題があることも確かである。各国がそれに合意したとしても全廃を実行するか、しているか、点検・確認の検査・査察・検証をどの国にも属しない国連機関によって行うことが不可欠
 密かに兵器や兵力を隠し持って武力行使・侵略行為を行う「テロ国家」・「ならず者国家」や武装勢力などが出てきたら、どうするか、それを取り締まり、鎮圧・制圧する国連警察軍が必要不可欠。これまでは、何かがあるとその都度、安保理の常任理事国になっている大国の軍事力に頼るか、加盟国(安保理が特別協定を結んだ国)が分担して兵力を提供し合って編成された国連軍によって軍事措置が行われる建て前になっていたが、大国の対立・拒否権で、それらは機能しなかった。それを変えて新たに兵員は国連職員(国際公務員)として各国から直接募集し、資金は各国で分担するが、どの国にも属しない常設の国連警察軍を設け、然るべき統制機関の下に運用するようにする、といったものが必要となるわけであるが。
 各国とも対外的に国を守る戦争や軍事活動を行う軍隊は廃止されても、国内の治安を守る警察活動は、そのままで、それまで軍隊に頼ってきた分むしろ守備範囲(責任・権限)が拡大するとも考えられ、テロ組織や武装集団に対処、武器の密造・密輸や国境警備に当たるも(日本では海上保安庁に自衛隊もそれに当たってききたが)、任務はあくまで犯罪の取り締まり。
 かつて国連で軍備全廃案が提案され議論されたことはあったのだ。
1927年、国際連盟の軍縮会議準備委員会に、ソ連が「即時完全全般的軍備撤廃協約草案」を提出するも、具体的進展なし。(但し、その翌年の1928年、パリ不戦条約―戦争放棄に関する条約が成立)
1946年(現在の国連創設の翌年)ソ連がそれを提案―それをきっかけに「軍縮大憲章」(「軍備の全般的な規制及び縮小を律する原則」)を全会一致で採択も実効性のないものだった。
1959年、ソ連首相フルシチョフが国連総会で演説―「全面完全軍縮に関する政府宣言」
     3段階に分けて4年間で全廃を提案。
   その後その年、国連総会で米ソ両国起草の軍縮決議案が全会一致で採択—米ソが中心となって交渉へ。
1962年、ソ連「厳重な国際管理のもとにおける全面的完全軍備撤廃条約草案」
   アメリカ「平和な世界における全面的完全軍備撤廃条約の基本的規定の概要」提出。
   両案を国連軍縮委員会などで審議—3段階を踏んで各国とも軍備を撤廃することとし、国内の治安維持と国連平和軍のための兵力だけを残すというもの—しかし、撤廃の実施期間とか各段階における撤廃の順序や程度など主張が対立—撤廃措置の実施中・実施後における自国の安全保障に不安があるなどの問題で進展せず、それっきりに。

 しかし、この日本では(今ここにきて憲法9条の戦力不保持・交戦権の否認の規定を変えて、自衛隊保持を集団的自衛権の行使まで可能としたり、敵基地まで先制反撃を可能とするような解釈改憲や明文改憲をするよりも)今こそ、その戦力不保持・交戦権否認の規定を世界化して、国連憲章の方を変えて(51条を削除して)自衛権行使のための軍備も各国とも全廃し、どの国も戦力・戦争手段を持たないようにすれば恒久平和は実現する、その方に向かって政府・国民とも全力を傾注すべきなのでは。
・・・・これって、やっぱり夢想家の絵空事?
 日本国憲法制定当時、9条の「戦争放棄」などの発案に際して、時の首相・幣原喜重郎はマッカ ーサーに「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし100年後には、私たちは予言者とよばれますよ」といったそうだが(マッカーサー回想録)。そういえばジョン・レノンは「イマジン」で次のように歌っていた。
 「想像してごらん、国なんて無いんだと、そんなに難しくないでしょう、殺す理由も、死ぬ理由もなく、そして宗教もない、 私のことを夢想家だというかもしれない、でも私一人じゃないはず、いつかみんな一緒になって、世界は一つになるんだ」と。

<7>9条の世界化への努力
 現在、軍隊・軍備を持たない国はコスタリカ・アイスランド・ドミニカなど、いずれも小国だが27か国にとどまっているが、それを国連加盟国全体に広げていく努力があってもおかしくないのでは。
 日本も、憲法上は軍隊・軍備を持たないことになっているが、実態は歴代自民党政府の自衛隊と日米安保条約に基づく防衛政策によってかなり骨抜きにされている。しかし、憲法9条(単なる「戦争放棄」だけでなく「戦力不保持・交戦権の否認」)の条文自体は世界に冠たるもので、軍備全廃の先駆けともいうべきもの。

 アメリカのオハイオ大学の教授で今は亡くなったオーバビー博士が、日本の憲法9条をアメリカの憲法に書き加える運動に取り組み、その影響で、日本の各地に「9条の会」ができ、「9条にノーベル平和賞を」の運動も、彼が始めたのだといわれる。1999年にはオランダのハーグで世界会議に参加し、「日本国憲法第9条こそ世界の憲法に採用すべきだ」と訴えたりもした。晩年は「日本の憲法9条は原爆の炎の中で無念にも犠牲になった無数の魂が不死鳥となって甦った賜物である。決して死なせてはならない」と。死の直前には、日本国民向けのビデオメッセージで、「日本の皆様、全力で憲法9条を生かし続けてください。第9条の理念こそ、地球上の全人類にとって最も重要な宝物ですから」と訴えられておられたという。
 1999年(1899年のハーグ平和会議100周年を記念して開催され、オーバビー博士も参加した)「ハーグ平和アピール市民社会会議」では、「各国議会は日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」と宣言。日本国憲法は軍備と戦争がない世界への理想を示しているという(花岡しげる氏)。
 我が国政府はもとより、どの国も、これとは全く反対のことをやっており、やろうとしているわけであるが、そのほうが悪夢に向かっているのでは、と思えてならない。

 日本は、中国・北朝鮮・ロシアなど権威主義の国の脅威に対抗して、「自由と民主主義」の大義を掲げる米欧・オーストラリア・韓国・台湾など同盟国・同志国と組んで、「反撃能力」など防衛力を増強すれば戦争になっても大丈夫だといって戦争戦略でいこうとするのと、9条の戦争・戦力放棄・交戦権否認を堅持して、どの国も軍備全廃・恒久平和をめざす平和戦略でいこうとするのとでは、はたしてどちらが「平和ボケ」なのだろうか。


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