米沢 長南の声なき声


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恥さらしな政権と政治家(加筆修正版)
2013年05月15日

 選挙に大勝、高い支持率に増長して傲慢・厚顔
(1)歴史に無反省―国際社会から批判、対北朝鮮問題など米中韓との結束と東アジアの協力関係緊密化が必要な時に、それらを妨げる障害をもたらし、日本孤立化を招く恐れもあり、国益を害している。
 麻生副総理ら閣僚の靖国参拝、首相の真榊奉納。
 「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」「歴史家・専門家に任せるべきだ」論。
 批判に対して「どんな脅しにも屈しない」と居直り。

 韓国大統領―「歴史に目をつむるも者は未来を見ることはできない」「東北アジア地域の平和のためには日本が正しい歴史認識を持たなければいけない」と。
 アメリカではメディア(主要紙)が批判論評。
     議会調査局の報告書―安倍首相の歴史認識について「侵略の歴史を否定する歴史修正主義者の見方を持っている」、閣僚の中に「ナショナリストや国粋主義者がいる」、安倍首相や閣僚の歴史認識をめぐる言動が「中国や韓国をはじめ周辺諸国との関係を緊張させ、米国の利益を損なう可能性がある」と指摘。

 高市・自民党政調会長―1995年戦後50年の国会決議では「私は(戦争の)当事者とは言えない世代だから反省なんかしていない」と。
 橋下・維新の会代表の慰安婦問題発言―「当時は日本だけじゃなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、どこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要(なのは誰だってわかる)」と。
 それに橋下代表は、沖縄で米軍司令官に兵士たちのために「風俗業の活用」を進言したところ、「司令官は凍りついたように苦笑いになって『禁止している』と言った。『行くなと通達を出しているし、これ以上この話はやめよう』と打ち切られた」という。
 石原代表も彼に同調、「軍と売春はつきもの」だと。

 各国軍隊の周辺でも、軍専用の慰安施設・売春宿の設置・利用はあったとしても(終戦直後日本に進駐した米兵のために日本政府が金をだして業者たちに開設させた軍専用の施設もあったが性病の蔓延で閉鎖)、第二次大戦中、国防軍が軍中央の命令で占領地に大量の軍専用売春宿を設置していたというドイツ軍とともに、日本軍のそれが特異だったのは軍と政府の中央(参謀本部・陸軍省など)がそれを軍の制度として推進し、慰安所が設置・運営されたということである。
 娘たちを首に縄つけて引っ張っていくような暴力的連行を直接軍や官憲がやったという「強制連行」の事実を示す証拠となる公文書はないと否定論者は言う。 しかし、朝鮮半島など植民地で「人さらい(奴隷狩り)まがいの徴募」を直接やるのは周旋業者であり、女を差し出すよう要請をうけた地元の有力者だとしても、元締めとなる業者は軍の身分証明書をもち、背後に軍や総督府がひかえていて慰安婦の人数確保を待っている等のことがあるかぎり、軍がそれらをやらせていると見なされるのは当然だろう。それを裏付ける証言(元慰安婦や元軍人の証言)や記録(報告書・業務日誌、アメリカ側の日本人捕虜尋問報告、元軍人の日記・回想記や体験記)など資料は数多く存在いているのである。それに、中国・東南アジア・太平洋地域では地元の女性が徴募され、直接軍や官憲が暴力的に集めた事例も多々あるのである。ただ証言や記録はあっても、軍その他当局が出した公文書資料が(焼却や隠ぺい工作によって)残っていないか、非公開になっているものが多く、非常に限られているが、在ることは在るのである。

  「国と国との関係でどちらから見るかで違う」という人たちには歴史に対する相対主義的な考え方(現在における真偽・善悪の基準を当時にあてはめて裁断するのは間違いという考え方)がある。
 国の立場、時代によって(当時と現代とで)歴史(過去の戦争・植民地支配・慰安婦制度など)に対する見方・考え方は異なるものだとする。

 しかし、殺人・暴力は国や時代によっては「当たりまえ」のこととして行われていたなどということはあり得ないし、売春などはあったとしても、それが当たり前のこととしておこなわれ、それで女性はなんら心に傷つくこともなく平気でいられた国や時代があったなどということもあり得ない話だろう。
 普遍的な真理、普遍的な道徳というものはあるのであって、どの国どの時代であっても客観的に正しい行為だったか否か、理不尽な行為だったか否か、人の道に反する恥ずべき行為だったか否か(侵略行為だったか否か)は事実関係(事の真相)ととに解明(に近づけることは)できるし評価・判断もできるのである。
 そして、それを踏まえて(歴史に対する民族的反省のうえにたって)、先人の過ちを繰り返すことなく相手国の政府や市民に適切に(外交なり付き合いなり)対応しなくてはならないわけであり、それを「そんなことは歴史家に任せればいい」「自分が生きてもいない昔のことなんか知ったこっちゃない」というのでは心の通い合った外交も付き合いもできないわけである。(政治や外交は単なる駆け引きではないのであって、信義・信頼がなけれ成り立たないもの。)
 
 過去の欧米人がおこなった奴隷制度と植民地制度に対して、2001年に国連人権委員会主催の「人種差別反対世界会議」でアフリカとカリブ海諸国が、それらによって利益を得た国々に対して謝罪を求め、一部の国は金銭的な補償を主張した。これに対して欧米諸国の多くは難色を示したが、オランダは補償に応じている。どんなに昔のことであろうと、「ならぬものはならぬ」というわけである。

 第二次大戦で敵対したフランス・ドイツの間では歴史共同研究がおこなわれ、共同の歴史教科書を作り上げて今、学校で使っているのである。

 尚、侵略の定義に関して―国連では1974年総会決議で「侵略とは、国家による他の国家の主権・領土保全もしくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」であると定義。この定義にもとづき「侵略犯罪」を定義した国際刑事裁判所の「ローマ規程」改定決議が2010年採択されている。
 そもそも、国連発足にあたって国連憲章(53条)に日本・ドイツ・イタリアがとった政策を「侵略政策」と規定し、その「再現に備え・・・・侵略を防止する」ためにとして国連結成。
 「後世の歴史家」任せにするのなら、現実に起きている国際紛争についても(侵略行為か否か)判断できないことになる。

(2)原発輸出―国内での原発事故をよそに、再稼働を企図するとともに。
 首相はサウジアラビア・トルコ・アラブ首長国連邦などに原発メーカーを含む企業経済人を大勢したがえて訪問して回り、トップセールス―原発売り込み、原子力協定締結。(トルコは地震国なのに。)サウジでも原子力協定の締結交渉に入る方針を確認しあう。
 事故を逆手にとって(事故経験から学んだのだからと)安全性技術向上を売り込む―「世界最高水準の安全基準に達している」と新たな「原発安全神話」をふりまいて。
 原発事故は未だ原因未解明、収束の見込みもたっておらず、「核のゴミ」(「死の灰」、使用済み核燃料)の処分法のないままに―福島第1原発では放射能汚染水の貯水タンクも水槽も満杯、「海への放出」に動くなど収拾がつかない事態になっている。なのに。

 それに(唯一の被爆国政府でありながら)―NPT(核拡散防止条約)再検討会議に向けたジュネーブでの準備委員会で日本政府代表が、「いかなる状況下でも核兵器不使用」とした共同声明に署名拒否。
 これまでも核兵器禁止条約の国際交渉を求める国連総会決議に棄権。
(3)都知事の「イスラム諸国で唯一共有しているのはアラーだけ。けんかばかりしている」発言
 「トルコの人々も長生きしたければ、日本のような文化をつくるべきだ」とも。
 猪瀬知事は2020年オリンピックの東京への招致委員会会長。ニューヨーク訪問中に米紙(ニューヨーク・タイムズ)記者とのインタビューでの発言。
 オリンピック招致合戦でライバル都市(回教国トルコのイスタンブール)を悪しざまに言うことによって、自分(東京都)を引き立てようとする思惑から出た言葉。
 IOCは行動規範で他の候補都市との比較を禁止しており、トルコ側も閣僚が「発言はオリンピック精神に反し、残念」とコメント。
 知事は、記事は曲解だと否認したものの、反論されて認めざるを得なくなって陳謝。
 安倍首相は、その後トルコへ原発売り込みに訪問し、「イスタンブールが五輪を射止めたら私は誰よりも先に『イスタンブール万歳』と言いたい。もし東京が射止めたら誰よりも早く『万歳』と叫んでいただきたい」とスピーチして友好ムードを取り繕った。
 尚、知事はその後の定例記者会見で、「トルコ側に直接会って謝罪・釈明する意思はあるか?」と尋ねられ、「考えています。それだけではなく・・・・・大げさに言うと、世界史とかそういうことを語り合いたいなという風に思っています」と語ったという。
 猪瀬知事は博識な作家であるが、世界史を「語る」前に、一方的な思い込みではなく、相手側・イスラム諸国民の立場にもたって謙虚に世界史を学び直すことが肝要なのでは。
 
 数か月前、朝日新聞の「声」欄に「地震国トルコに五輪譲ろう」という投稿があって、それには、「親日のトルコ人に『謙虚の美徳』を示しましょう」と。それにひきかえ、その地震国トルコ(1999年の地震では死者1万人超)に、地震で原発大事故を起こして収まりつかないでいる日本の首相が原発を売り込みに赴くという厚かましさ。それに、イスラム諸国民とその国の文化のあり方を不当にけなしてオリンピック招致を何が何でも勝ち取ろうとする厚かましさが際立っている。 

 次は日本国憲法の前文の一節である。 
 日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。我らは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」「我らは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。」
 
 われわれ日本国民は、このことを国際社会に対しても公約しているのである。
 それなのに、何ということを・・・・・・・・・・
 この憲法を変え、この前文や9条を破り捨てようとさえしているのだ。


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