米沢 長南の声なき声


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生活者の論理と為政者・経営者の論理
2004年12月08日

 物事を考える場合、一般の生活者と為政者・経営者とで視点・発想・論理に違いがある。

 例えば、「能力・努力の足りない人の賃金が下がり、リストラや経営難によって困窮するのはしかたのないことであり、能力・努力が実って成功した人が金持ちになるのは当然」という考え方は、どの立場に立った考え方なのか。

 また、「イラク戦争と自衛隊派遣問題」ならば、生活者の立場では、まず人々の命が何よりも大事と考える。それで、アメリカのイラク攻撃・占領にも、それを支持したうえでの自衛隊派遣にも法的正当性は疑わしく、そのためにたくさんのイラク市民が犠牲になり、日本人も拉致・殺害されているが、自衛隊員も含めてこれ以上の犠牲を避けるため、アメリカ軍も自衛隊も撤退すべきである、という考え方をするだろう。

 それが為政者の立場では、国家戦略・国益・国家の威信など国家を主に考える。それで、フセイン政権の圧政と脅威を取り除くためのアメリカのイラク侵攻には正当性があり、それに支援・協力するための自衛隊派遣にも正当性がある。抵抗勢力のテロとそれにたいする掃討作戦に巻き込まれたイラク市民の犠牲も日本人の犠牲も痛ましいことではあるがやむをえない。テロに屈せず自衛隊駐留を続け通す、という考え方をする。

 また経営者の立場では、現地での企業活動の権益と石油の安定確保のため、アメリカと自国の国家的バックアップ(米軍と自衛隊の警護)を得るという戦略上、アメリカのイラク戦争と自衛隊派遣・駐留を支持する。イラク市民の犠牲も日本人の犠牲も、それらはやむをえない、という考え方をする。

 我々が政治問題や経済・社会問題を判断する場合、(各政党によって提起され、マスコミによって論評される)いくつかの選択肢があるとすると、それらは、それぞれ(生活者・為政者・経営者のうちの)どの立場にたっているのか吟味して選ばなければなるまい。そして、当の自分は、いったいどの立場にたって考えているのか。為政者・経営者でもないのに国家の論理や企業の論理で考えたりしてはいまいか、自分を確かめる必要がある。


 我々は、とかくメディアの論評を真に受けやすいだけに、そのメディアはどの立場にたちどういうスタンスにたっているのか、よく確かめなければなるまい。とくに読売や産経の系列、それにNHKには気をつけなければならない。なぜなら、それらはとかく国家の論理か企業の論理で問題をとりあげ論評していることが多いからである。読売・産経の場合は社のイデオロギー(思想)にもとづいているが、NHKの場合は、権力(政府与党)あるいは野党が報道の中立性をたてにとって何か言ってくるのを恐れる結果、報道のしかたや論評は当たり障りのないものとなり、結果的に権力の意に添うものとなっている。

また、権力やイデオロギーにはとらわれることなく「単に面白ければよい」だけでやっているメディアであっても、それは、「とにかくそれがウケて視聴率・読者を稼げればよいのだ」という企業の論理に支配されていることになる。

 歴史教科書で、為政者(国家指導者)の立場(視点・発想・論理-国家戦略論など)で書かれている教科書がある。例の「新しい歴史教科書をつくる会」編の教科書である。(この歴史教科書のことについては別項で取り上げることとしたい。)


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