(1)日本国憲法は9条1項に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決付する手段としては永久にこれを放棄する。」2項に「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と定めているのだが、実態は「自衛隊」を保有し、その実力は世界有数 。自衛隊といっても、安倍現政権は、今や(昨年の閣議決定と新安保法制で)個別的自衛権にとどまらず、集団的自衛権の行使まで限定的にではあるが容認し、実質改憲から、さらに明文改憲まで企図している。
そこで、これらの問題を考えてみたい。●そもそも「自衛」とは、自らの生命・権益を武力(暴力装置)で守ること―自衛権とは、その正当化であり、武力(他者への暴力)の正当化―なのだが。
国際法では―国連憲章51条に「この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛権の固有の権利(フランス語版では「自然権」)を害するものではない。この自衛権の行使にあたって加盟国がとった措置は直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない。」
(第一次~第二次大戦後、自衛権行使と国連による不正な武力侵攻・武力攻撃に対する軍事制裁以外は禁止。自衛権行使も、安保理事会が措置をとるまでの間に限った暫定的なもので、集団的自衛権はもとより個別的自衛権も例外的なものとされているのだ。国連は、国連の目的に軍備を利用する以外には、国ごとの個別的な軍備は制限・縮小するなど軍備の規制を目指している。)
国連憲章51条には、このような自衛権の規定の仕方で、時限的・暫定的な消極的な権利として定められており、それによってすべての国が自動的に拘束されるとか、常に国内法に優越するなどという定めにはなっていない。(同憲章の武力行使・威嚇の禁止規定、根本的な人権を保障した条約や国際人道法などの強い「義務」を定めた国際法規の場合は、いずれの国も拘束されるが、自衛権に関するこの規定は、そういうものとは違う。また「個別的及び集団的自衛権は固有の権利」だからといって、無理やりその権利を行使し、その法規を実施しなければ国際法違反になるというものでもないわけである。
国連国際法委員会が2001年採択した国家責任に関する条約案(『国家責任条文』)21条でも、(個別的自衛権の場合も)「自衛は権利ではなく違法性阻却事由」ということで、それは、本来は違法な武力行使なのだが状況から判断して違法性が取り除かれる(免除される)行為として認められるにすぎない、といった規定の仕方になっている。「権利」だからといって乱用してはならない(そもそも権利ではない)というわけ。乱用―「先制的自衛」と称して先制的に使われがち(例:同時多発テロ→アフガン攻撃)
自衛権なるものは、こうしてみると現行国際法上、国々の権利として積極的に認められているとは言い難く、やむを得ざる場合に限られた限定的な権利なのだ。
自衛権行使に必要とされる3要件―1837年、英領カナダで起きた反乱に際して、反乱軍が物資運搬に利用した米船籍のカロライン号を英軍が破壊、米側の抗議に対して「自衛権の行使だ」と主張した英側に米国務長官ウェブスターが提起(「ウェブスター見解」)①急迫不正の侵害があること、②他に、それを排除して国を防衛する手段がないこと、③必要な限度にとどめること。
●集団的自衛権―国連憲章には定義や行使要件など一言も書かれていない(意味内容の不明な概念)―自然権ではない
同盟政策―特定の仮想敵を念頭(想定)―敵対関係を潜在的に抱え込む―集団安全保障とも本来の自衛権(個別的自衛権)(仮想敵を想定しない)とも論理構造を全く異にする。
集団的自衛権とは、本来の自己保存の本能に基づく自然権としての正当防衛権たる自衛権とは言えず、そもそも集団的自衛権なるものは国連憲章51条に書き込まれた経緯から見ても、米国などの政治的思惑による後付けされた概念にすぎないのだ。
第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。
(安倍内閣が前に任命した小松内閣法制局長官も、国会答弁では「集団的自衛権は、国際法学者の一般的見解としては、自然権的なものではなく、国連憲章によって創設されたものであるという見方が一般的だ」としていた。)
要するに、個別的自衛権なら、個人の正当防衛権と同様に、「自然権」・「固有の権利」と言えても、集団的自衛権はそもそもが「固有の権利」などではないのだ、ということだ。
このように、集団的自衛権とは、そもそもが軍事同盟を合理化するものであり、軍事同盟は、国々を戦争に巻き込んだという、とりわけ第一次大戦の苦い経験から、望ましくないものとして否定されてきたものなのだ。(セルビアの一青年がオーストリア皇太子を暗殺したことをきっかけにオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦したが、双方それぞれの同盟国が次々と参戦し、日本までが日英同盟のよしみで参戦、世界大戦となった。)以上のことから確認できることは、日本国憲法9条と国連憲章51条とのあいだに矛盾はないということ。(国連憲章で個別的自衛権・集団的自衛権ともにみとめているのに、日本国憲法でそれらの行使を認めないのはおかしい、ということにはならない。)
9条と自衛隊・日米安保条約には、歴代政権は矛盾はないとし、最高裁もそれらが違憲だとは判断はしてこなかった。しかし、9条と自衛隊・日米安保の現実には乖離があることは事実だろう。とりわけ安倍現政権による集団的自衛権の行使容認と新安保法制はその極限を越えるもの。そこで、9条と現実との乖離を解消すべきだとして、次のような改憲論が説かれる。
いわゆる「護憲的(平和主義的)改憲論」「リベラル改憲論」―改悪ではなく「改正」だとして「新9条」論
中島岳志―「人間は不完全で、暴力性を持たざるをえない。国際秩序を維持する上で、一定の軍事力が必要」
井上達夫―「自衛隊は『戦力でない』から合憲だ、というのは欺瞞」
小林節
今井一 ―「護憲派の欺瞞性」を指摘
加藤典洋
伊勢崎賢治
田原総一郎―集団的自衛権の「新3要件」も容認
池澤夏樹
これらはいずれも、自衛隊の存在を明記し、専守防衛に徹すること、個別的自衛権の行使には交戦権を認めるも、集団的自衛権の行使は(田原氏を別として)認めないことを明確に定めて、拡大解釈の余地のないようにして歯止めをかける、というもの。しかし、9条からの乖離をただすため、9条の方を改正して現実に近づけるべしという改憲論は、本末転倒。
文芸評論家の斎藤美奈子氏は、その9条改憲論のデメリットを次のように指摘している。「私が官邸の関係者なら『しめしめ』・・・・『意外と使えますよ、総理』『だな、改憲OKの気分が先ず必要だからな』・・・・現行の条文でも『地球の裏側まで自衛隊を派遣できる』と解釈する人たちだ。条文を変えたら、おとなしく従うってか。・・・・『あとは新9条論者と護憲論者の対立を煽るだけですよ、総理』『だな、もう新聞も味方だからな』となるでしょう」と。つまり、これら「リベラル改憲論」はいずれも「もっともらしく」はあっても、「他に解釈の余地がないように」どんなに細かく規定したところで、解釈の余地は残るもの。(現行9条では、あのように明確に、はっきりと規定しているのに、それでさえも、都合のいいように解釈されてしまっているのだから。)それに、これらの改定案は個々には(単独では)国会で取り上げられても発議に必要な3分の2以上の賛成は到底得られず、結局は安倍自民党の主流改憲案の方に押し切られるか、取り込まれはしても都合よく利用されるだけになってしまうだろう。また護憲派・安保法反対派を分断す結果にもなるだろう、ということだ。井上教授らは「9条のため憲法上『戦力』は存在しないことになっている。だから戦力を統制する規範がない」などと、現存する自衛隊に対して歯止めが必要だとして9条2項削除を主張しているが、「歯止め」は9条2項(戦力不保持・交戦権の否認)そのものが究極の「歯止め」なのであり、その歯止め(統制)を弱めてきたのは、「憲法尊重擁護義務」に不忠実な政権のせいなのであって、9条自体のせいではあるまい。
自衛隊の設置と統制は、警察・消防などと同様に、憲法に定めはなくても、自衛隊法など法律で規定すれば、事足りるはず。但し、その法律は憲法の規定(9条)を逸脱してはならない。自衛隊は、歴代政権によって「必要最小限の実力」であることには変わりないとして増強されてきたが、安倍現政権によって集団的自衛権の行使を容認する新安保法は極限をはみだしている。そこが大問題なのだ。
自衛隊の実力は「必要最小限」といいながら、当初の「軽武装」からかけ離れ、今やイージス艦や大型ヘリ空母、ステルス戦闘機などを保有し、そのうえ核兵器さえ「持とうと思えば持てるのだ」としているが、それらは装備・その規模など物理的な能力のレベルだけから見れば世界有数の「立派な戦力」には違いない。それ自体、9条の「戦力不保持」に反していると見ざるをえない欺瞞性があるには違いないが、それは9条の規定のせいではなく、それを悪知恵・詐術を弄して都合のいい解釈を積み上げ、増強を積み重ねてきた政権とそれを容認してきた与党のせいであり、その好戦的な軍事志向と憲法に対する不忠実と狡さ(悪いのは9条だと責任転嫁)にあり、その方が問題なのである。それでも(自衛隊はその実力・能力のレベルから見れば世界有数の軍事力だとは言えても)、「軍隊」とは言えない他国の軍隊との決定的な違いがある。それは9条によって交戦権が認められていないことである。それが決定的な歯止めになっており、この9条がある限り、自衛隊はどんなに強大でも戦争はできないことになっているのだ。
万一、急迫不正の侵害・武力攻撃事態が発生し、全国民の生命と安全が危機に瀕した場合には、政府は急きょ超法規的な「国家緊急権」を発動して憲法(9条)を一時停止し、自衛隊に交戦権を付与して戦わせるしかないわけである。
次に、その国家緊急権なるものについて論及。(2)国家緊急権の問題―4月19日、朝日新聞(オピニオン&フォーラム欄、「憲法を考える―国家緊急権」)に掲載された槁爪大三郎・東京工大名誉教授の見解。
「おりしも大災害や戦争・テロなどの非常時に政府の権限を強める国家緊急権を憲法に位置づけるかが国会で議論になっている」が。
国家緊急権とは、想定外の(例えば「大量の放射性物質が漏れ出し、それが首都圏に向かっており、関東全域の住民を48時間以内に強制的に域外に立ち退かせる」などといった緊急事態に見舞われた場合など)非常事態に遭遇し、災害法制や緊急事態法制など予め用意された法令では対応しきれないという事態に際して、憲法が保障する国民の自由や権利を制限する法律など作っている暇がなく、すぐに政府が行動しないと、国民の生命や安全を守れないし、社会秩序も維持できないという場合に、政府が超法規的に行動する権限のこと。その国家緊急権は、そもそも主権者である国民が、自分の生存や安全を守る権利に基づくものであり、その権利は人間の自然権(憲法成立以前に、人間が生まれながらにして有する生存に不可欠な固有の権利)に依拠しており、憲法や法律よりも根源的なもの。主権者・国民は自らの権利を守るために、お互いに契約を結んで(憲法はその契約書)政府をつくり、その政府に権力を付与して(授権)安全や秩序を確保し、自らの権利・自由を保障してもらう。その政府が、もしも権力をほしいままに不当に(憲法を逸脱)行使して人民の権利を侵害したら、人民はそれに抵抗できる(抵抗権)が、緊急事態に見舞われて人民の生命と安全が危機に瀕した場合には、政府が平時の憲法や法律に基づかず、超法規的な権限を行使してでも、必要で適切な措置・行動をとるのは、権限である以上に国民への義務としてやらなければならないこととして人民にとってそれは受け容れられる、というものだろう。そのような国家緊急権の行使は正しい(国家緊急権正当化の根拠)としても、「憲法違反」「法律違反」には違いない。そこで、それが果たして必要やむを得ないものだったのか、それとも恣意的で不適切だったのか、その時の政府の行動を事後に(立法府の国政調査権によって)検証することが必要不可欠となる。その検証によっては、政府(その首脳)は政治責任あるいは刑事責任(「100人救ったが、10人死んだ」などと過失責任)が問われなければならないことになる。政府にはその覚悟なしに国家緊急権は行使すべきではない。
だからといって、自民党改憲草案のように、予め憲法に「緊急事態条項」など盛り込むというのは賢明ではなく、弊害にもなる。なぜなら、それでは政府の国家緊急権の発動が「憲法違反」に問われることもなく合法的になってしまい、事後の検証も政府の追及も安易なものとならざるを得なくなり、その(緊急権の)乱用を許してしまう結果になる。それにダムにあいた穴のように、憲法秩序を掘り崩してしまう結果にもなるからだ。
大日本帝国憲法には天皇が国家緊急権を行使する非常大権・緊急勅令権・戒厳大権も定めらいたが、規定が曖昧で、日比谷焼打ち事件・関東大震災・2.26事件で緊急勅令に基ずく行政措置として戒厳が実施された以外には、いずれも発動されたことはない。
しかし、当時、世界で最も民主的な憲法と思われていたドイツのワイマール憲法にも国家緊急権の条項が大統領の非常措置権限として定められていて、ヒトラー(首相で少数派内閣だった)は大統領(ヒンデンブルグ)にそれを乱発させて国会を形骸化し、しまいには全権委任法を通して完全に独裁権を掌中にし、憲法を事実上葬り去った。これが最悪の結果を招いた典型例。橋爪教授は9条と自衛権については言及していないが、武力攻撃事態(急迫不正の侵害)に際する国家緊急権の発動・行使も考えられよう。
自衛隊に憲法9条では認めていない交戦権を急きょ付与して戦えるようにする、という措置(9条の一時的停止)を断行するなど。
そうであれば、改憲して9条を削除するとか、新規定を設けて「自衛隊を明記して、集団的自衛権の行使は認めないが、個別的自衛権の行使には交戦権を認める」などと、(「中国が脅威だとか北朝鮮が暴発するかもしれないから」といって、わざわざそれだけの理由で)改憲する必要などないわけである(仮にそれらの武力侵攻があれば、その時は国家緊急権の発動―9条は一時停止―という非常措置で対処、ということになるのだから)。
「新9条」で、中島岳志教授の言うように「自衛隊はどこまでやるべきか、何をしてはいけないかを明示」したり、いくら拡大解釈の余地のないように細かく定めても(現に自衛隊法など安保法で定めているリストでも)、それらは歯止めになるよりは、かえって、「合憲・合法なのだから」と安易になってしまい、やろうと思えば何でもやれてしまう結果になりやすい(例えば「集団的自衛権は行使しない」と定めても、「フルスペックではなく、限定的ならできる」などと意訳されてしまう)。こうして見てくると、自衛権(集団的自衛権は別として)も国家緊急権も、憲法には規定はなくても、個々人の「正当防衛権・緊急避難」の権利などと同様に、人間が生まれながらにして持つ生存に不可欠の自然権を根拠として正当性が認められる論拠となり得るわけだ。