米沢 長南の声なき声


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護憲か改憲かなど、憲法を争点にするのは賢明ではない?
2023年08月16日

(1)先日の朝日の書評欄(境家史郎氏の著書に対する東大の前田行政学教授の書評)に書いてあったのは次のようなこと。「野党が旗印としてきた憲法」「50年代には憲法問題は野党を結集させた」。ところが、それが「憲法は野党を分裂させる争点となったのだ」「憲法9条の解釈変更を巡ってイデオロギー対立が激化。その結果、野党の分裂が進み、それが自民党を利してきた。」「だとすれば、今後の野党の運命は憲法とは異なる争点を新たに提起できるかどうかにかかっている」ということのようである。要するに護憲か改憲かなど、憲法を争点にするのは賢明ではないということか。しかし、果たしてそうなのか?
 野党には、政権党に対する選挙の争点を提起してそれを国民に示し、自らを政権交代の受け皿としてアピールするという目的もあるのだろうが、我々国民が政治(政権や政党・議員)に求めるのは、憲法の前文に掲げる平和的生存権―恐怖と欠乏からの自由―確保と「政府によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」してもらうことであり、そのために憲法9条をあくまでも守り、改悪して欲しくないということ
 政権党である自民党は1955年立党以来、改憲を党是としてきて、安倍政権はその実現に意欲を注いできたが、その亡き後、岸田政権がそれを引き継いで実現を果たそうとしている。それでは困るのだ・・・・などと思っている護憲派は少数派か?
(2)そもそも国政選挙の「争点」には①その時々で直面する政治課題、生活に直結した問題―賃金・雇用・労働問題、物価問題、税金問題、マイナーカード問題など、②懸案の政治課題―産業・経済政策。環境・エネルギー対策、外交・安保政策、子育て・教育・福祉・社会保障政策など、③イデオロギー(理念)問題で、平和主義をめぐって不戦・非軍事平和(9条護憲)か軍事的抑止力平和(9条改憲)かなど憲法問題、或いは共産主義をめぐって共産党に対して「反共」か「容共」か、などの潜在的な(隠れた)争点がある(共産党は100年前帝国憲法下で結成されたものの、権力から目の敵にされ、非合法扱いされて弾圧され続け、戦後新憲法下で合法化。自民党は「反共」だが、「非自民」でも公明・維新・国民民主などの党派、或いは労組でも連合系、宗教団体では統一教会などが「親自民・反共」で共産党を「目の敵」、立憲民主・社民・新社会・れいわ等は「反自民」で、共産党に対しては野党共闘から排除したりはしない「容共」の立場。)
 これら3分野の「争点」のうち①の直面する具体的な政治課題では「一点共闘」も適宜あって然るべきだが、政権を意識して野党共闘を組む場合は③の政治理念や②の基本政策共通点があって一致できるか折り合える課題では野党共闘が組まれるわけである。
(3)国政選挙では政党が幾つか並び立ち、政権与党と野党とに分かれる。わが国では1955年以来、現在に至るまで一時期を除いて大半は自民党が政権を担当。
 55年当時は主に3党しかなく、自民党(自由党と民主党が合併―保守合同―して成立)が政権党で、野党は社会党(右派と左派が再統一)が自民党に対して2大政党として対峙し、改憲を阻止する3分の1以上議席を占めていた。それ以外の政党は共産党しかなかった。そして60~70年安保闘争や選挙では社共両党が(革新3目標①安保反対、②改憲反対、③増税・福祉切り捨て反対で)野党共闘。社会党は9条解釈では「非武装中立」論で、共産党(「自衛中立」論)との違いはあったが、共に日米安保条約反対であり護憲で、共産党とは「容共」で共闘を組むことができていた。
 ところが社会党は政権獲得(過半数議席獲得)のため、共産党の他に(60年)社会党右派から分かれた民社党と(64年)新たに結成された公明党とも組んで全野党共闘をめざしたが、公明・民社と共産党との間で互いに相手を拒否、そのあげく社会党は非共産の社公民路線を採ることになった(1980年代)。その後社会党は石橋委員長の時から、それまで否認していた自衛隊を「違憲合法論」へと転じ、非自民・非共産(社会・公明・民社に新党が加わった8党派)の連立政権である細川政権に参加(1993年)を経て、1994年自民党との連立(自社さ)政権の首相となった社会党党首・村山首相の時から自衛隊を自民党に合わせて合憲論に転換。1996年社民党と改称も、非自民・非共産の新党(新進党・さきがけ等)各党が合流して新たに結成された民主党社民党の中からも大半が移籍。2009年その民主党が政権交代を果たした(連立政権には社民も当初加えられたが離脱)。しかし、2012年自公が政権奪還安倍長期政権が続くことになった。ところが、その安倍政権下で2015年強行採決した新安保法制に反対して市民連合が結成され、その後押しで野党共闘に結集する機運が盛り上がったが、16年参院選ではリベラル野党は(1人区で候補者一本化)共闘して善戦したものの、改憲派3分の2以上議席獲得を阻止できなかったし、17年衆院選でも共闘はしたが、改憲派議席3分の2以上を阻止できず、19年参院選では3分の2を割り込ませることはできたものの、それ以外は21年衆院選も、22年参院選も、野党共闘はしぼむ一方で、改憲派(自・公・維新・国民民主など)の3分の2議席以上獲得は阻止できずに終わっている。
 その野党共闘の弱点は、外交・安保政策などで閣外協力さえも政策協定を直接結べず、相互推薦・支援も行わず、本格的な選挙協力になっていないという限界にある。立憲民主党については、その最大支持母体である労組「連合」の会長が「連合としては共産党、市民連合も含めて、到底受け入れられないことですので」と云っているとのことで、その「連合」労組もネックに。  
 野党共闘は、自公政権(民主党政権の間途切れはしたが16年以上も続いている)に比べて、うまくいかなかったことは確か。しかし、それは憲法を争点・旗印にして野党を結集させようとした、そのせいかといえば、上記のような経緯を見るかぎり、そうとも思えない
 むしろ、それは逆で、憲法(理念・理想)よりも現実の政治状況・選挙情勢から見て政権与党に対して選挙に勝つためにはどんな手(戦術)を使って対抗すれば有利か不利かだけを考え、理念(目的)に照らしてなすべきこと(戦略)をよく考えずに、適当な争点をとらえて、非自民・非共産の「中道」か「非自民保守」イメージを売りにしてやった方がいい、などといったやり方でやってきた。野党共闘がうまくいかなかったのは、そのせいなのでは。
(4)折からのウクライナ戦争の影響で近隣のアジアにも台湾海峡や朝鮮半島などで「有事」の気配が醸し出されているが、岸田政権はそれに対して「戦争」も想定・覚悟のうえでの(「戦争準備」であるかのような)対応に意を注いでいる。(折から麻生副総裁が台湾を訪問して講演し、中国を念頭に「今ほど日本・台湾・米国をはじめとした有志の国々に強い抑止力を機能させる覚悟が求められている時はない。戦う覚悟だ。」「最も大事なのは台湾海峡を含むこの地域で戦争を起こさせないことだ」が、「お金をかけて防衛力を持っているだけではダメで、いざとなったら台湾防衛のために防衛力を使うという明確な意思を相手に伝えることが抑止力になる」などと説いている。)
 護憲派野党は「再び戦争の惨禍が起ることのないように」何としても暴走を阻止し、改憲も阻止するべく、今こそ共闘体制を整えて力を結集すべき時なのでは。
そう考えると護憲派野党は9条解釈の違いなどを巡って背を向け合ってセクト主義をひきずっている場合ではなく、「小異を残しても大同で団結」して、改憲派与野党に対抗し、政権奪取(交代)とまではいかないまでも、改憲発議に必要な3分の2以上獲得阻止を果たすべく、共闘体制を再構築しなければならないのでは。その観点からすると、朝日の書評者が云うような、野党が「憲法とは異なる争点を提起」すべきであるかのような言説には、とても同調できない。
(5)それにつけても、立憲民主党は護憲派・改憲派どっちなのか曖昧で、当てにはできないのかもしれない。いずれにしても野党各党にはしっかりした政治理念があって、その立場から取り組むべきなのであって、理念を抜きにして、ただ単に政権交代の受け皿となりさえすれば、「第2自民党」でもよいとか「非自民・反共産」であればいいとか、政権獲得を自己目的として、適当な争点を取り上げて、有利・不利で他党と組んだり組まなかったりするような党利党略的な野合となってはならないわけである。
 護憲派は憲法の条項解釈には違い(「小異」)はあっても、政治理念が憲法理念(「大同」)で一致できるかが問題なのでは。
(6)現行の日本国憲法には民主主義・基本的人権・平和主義など理念が掲げられているが、とりわけ憲法前文に掲げる「全世界の国民は等しく恐怖と欠乏から免れ平和に裡に生存する権利を有する」という平和的生存権は憲法理念としては最重要な核心点とも云える概念(国連憲章にも、日本以外のどの国の憲法にも明記されていない先駆的な理念)。9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)は、その条項だけで解釈すると違う解釈が分かれるが、前文の平和的生存権の理念を踏まえて解釈するならば、国(政府)は国民が日々平和の裡に暮らせて生命が安全・安心でいられるように保障しなければならないことを定めたものと解するのが至当と思われる。その場合、国民の平和的生存権とは、国(政府)はいかなる目的遂行のためであっても(たとえ国を守る防衛のためであっても)国民諸個人の生命と平和を犠牲にしたり侵害する戦争行為や武力行使を手段とするのは極力避けなければならないというもの。そして「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」としているわけである。
(7)ところが、自民党政府は、その(国民の)平和的生存権を国が外敵の侵害から守ってやらなければならない、そのための手段としてならば武力の保持・行使は許されると解釈し、さらに13条(国民の生命・自由・幸福追求権を国政上最大の尊重を必要とするという条項)を根拠とし、国民の生命・自由等の権利を外敵の侵害から守るためにやむを得ない必要最小限度の武力行使なら許容されるし、むしろそれが政府の義務だとして、9条の「戦力」を越えない「実力」として武力を保持、行使する分には、自衛隊は合憲だとして合理化してきた。
(8)現実主義か理想主義かでいえば、現実主義を標榜する政治家は現実を(重視して、それを踏まえるのは当然としても)むしろ優先・先行して、理念・理想を現実に合わせようとする。しかも、その現実(国々が持ち合っている軍備或いは核保有、日本では自衛隊と日米同盟、ウクライナでは戦争、極東では台湾海峡や朝鮮半島で「有事」の危険性、それらの現実)はそれぞれ過去の為政者たち(過去から現在に至るまで国々で政権を担ってきた政党・政治家たち―わが国では主として自民党、アメリカでは民主党か共和党の政権党政治家たち)とそれを支持した国民によって作り出され生成してきたもの。「核兵器のない世界」「戦争のない世界」「戦力不保持・交戦権否認・戦争放棄の日本」「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利が保障される全世界の国民」などの理念・理想は単なるお題目として唱えるだけで、ひたすら現実に執着し、(現実を理想に近づけ漸進的に9条実現しようとするのではなく)「理想の方を現実に近づけようと」(「核なき世界」を、アメリカの核兵器を「抑止力」として維持することによって、ロシア・中国・北朝鮮の核兵器使用を抑止すれば、非核世界が実現できるかのように)しているのが(自ら「徹底した現実主義」と称している)岸田首相であり、核禁止条約に背を向け9条改憲策に血道をあげているのが政権与党及び補完政党
 現実を憲法の理念・理想に近づけようと努める平和優先主義(あくまで平和的手段を優先して不戦平和を追求する非軍事主義)か、それとも現実に理念を近づけ(合わせ)ようとする軍事優先主義(軍事的抑止力平和主義)か。政権与党とその補完政党に対する野党の対決は、まさにこのような憲法を巡る対決であり、やはり憲法こそが野党結集・共闘の基軸になるのでは。
(9)境家氏と書評者の見解は、野党は政権選択選挙で勝って政権交代をめざすべきで、旧社会党・旧民主党のように、イデオロギーにとらわれた反自民・反改憲(意識)から憲法を争点にしてしまい、結集どころか、かえって分裂を招いて自民党を利し、その一強優位・長期政権の存続を許す結果を招いてきた。だから、そのような(憲法を争点にする)のはもうやめて、ただ政権交代だけを目指して、憲法とは異なる新たな争点で結集(共闘)できるようにすべきだ、ということのようである。しかし、そもそも9条護憲は、政権選択選挙で勝つための野党結集の単なる手段(便法)ではなく、あくまでも目的なのであって、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」し、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利を有することを確認」して定めた憲法9条を護り抜き、改憲を阻止するという、そのこと自体が目的なのであって、それを野党結集の旗印にすれば政権選択選挙に有利になるとか、ならないとかの問題ではあるまい。それはまた、イデオロギー(思想)でもなく、ただ単純に「戦争はもう懲り懲りだ」という日本人の民族的実体験から無意識のうちに(潜在意識として)心の奥底に染み付いた戦争アレルギー(集団的超自我)からきているものにほかならないのでは。(憲法前文にある「平和的生存権」として概念化されている「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存」できるようにし、「戦争の惨禍が起ることのないように」して欲しいだけなのであって、必ずしもイデオロギーの問題なんかではあるまい。)
 そもそも憲法問題が(9条解釈を巡って野党間に違いがあって嚙み合わないところがあるからといって)野党の共闘を妨げ、分裂させる原因になっているというが、野党でも(維新・国民民主・参政党などのような)改憲を容認している党派は、護憲派野党(共産・社民・新社会・れいわ等)と共闘を組むことなど初めからあり得ないのだ。
「野党の運命は、憲法とは異なる新たな争点を提起できるかどうかにかかっている」というが、維新・国民民主・参政党など改憲派に限っていえば、そんな野党の運命なんかどうでもいいのであって、そんな野党の運命などより「憲法9条の運命」がどうなるのか、その方が、国民にとっては何よりも切実な問題なのである。なのに憲法問題をことさら難しいイデオロギー問題にして争点化を避けようとする、その方が問題なのでは。
 野党共闘を妨げ分裂させている原因がイデオロギー対立にあるとするなら、それは平和主義など憲法理念よりも、むしろ反共主義の方にあり、共産党を共闘から除外する(反共)か、受け容れる(容共)かのイデオロギー対立であり、そんな反共イデオロギーにこだわっているかぎり、憲法問題とは異なるどんな争点を提起したところで、その共闘に共産党を入れるか排除するかで分断が生じることには変わりあるまい。
(10)境家氏は「憲法改正という争点を『軍国主義か民主主義か』というイデオロギー的問題として捉える枠組みから日本人が解放されない限り、この国の戦後は終わることがないだろう」と書いているとのことだが、はたしてそういうものだろうか。
 「憲法改正という争点」は(自衛隊に必要最小限度の「実力」以上の―「専守防衛」を越える―能力や活動範囲を認めて軍隊化を強め、戦争につながりやすくして再び戦争を招きかねなくする)9条改憲に賛成か反対かという争点。「戦争なんてもう御免だ」との思いで、そんな改憲に反対するのは、格別イデオロギーを持ち出さなくとも、日本人なら誰もが当たり前に思う次元の問題で、上記で触れ通り。
 「戦後」とは(78年前に戦争が終わって)戦争のない平和な時代になったということであって、それが「終わることがない」のであるなら、むしろそれにこしたことはないのでは。逆に、それが終わるということは再び戦争時代が始まるということであって(最近タモリが「新たな戦前」と云って鋭い指摘をしていたが)それでは困るのだ、というふうに考えれば、むしろ「戦後は終わってほしくない。いつまでも戦争のない平和な時代であってほしい、否そうなるようにすべきなのだ」というべきなのでは。
 



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