米沢 長南の声なき声


ホームへ戻る


Mrオーサカ・ハシモト論(加筆版)
2012年02月15日

<参照>1月22日の「朝まで生テレビ」(橋本氏が出演)
    2月4日の朝日ニュースター「ニュースにだまされるな」
    2月12日の朝日新聞「橋本徹・大阪市長に聞く」
    11年6月28日の朝日新聞「争論・君が代条例」(橋本氏へのインタビュー)
    11年世界2月号「大阪構想と橋本ポピュリズム」(高寄昇三)
    11年世界11月号「橋本『独裁』は何を奪うか」(大内裕和)
    11年世界12月号「『大阪都構想』とは何なのか」(金井利之)
    12年世界2月号「橋本維新、躍進の理由」(北野和希)
    その他、報道ステーション(橋本氏が出演)など。
<註>文中「」は上記の番組・論稿から引用
 
 橋本氏は現下の経済・社会の停滞・悪化(労働分配率・失業率・生活保護受給率などとりわけ大阪がひどい)、人心の閉塞感、政治の混迷(政権交代後の政治への失望感、「ねじれ国会」でスムースに決められないことへの辟易感)に乗じて台頭し勢いづいている。
 選挙では大勝し、その「民意」なるものをバックにして政治力・権力を振るおうとしているのだ。
 たしかに弁が達者で、いかにも尤もらしく、はっきりとした物言いで、とうとうとまくしたてる。
 ポピュリズム(大衆迎合)よりもデマゴギー(大衆扇動)とも評される。

 いわく「既成政党・大阪市役所・公務員・労働組合・関電どれもこれも既得権益にしがみついている連中」それに「くそ教育委員会」。
 「グレート・リセット、不連続への挑戦だ。今までのように連続性の中で物事を考えるのではなく、今まで綿々と続いてきた社会システムや統治機構すなわち体制を変えるのだ」
 「僕は大阪府民の皆さんと一緒に夢を見たい、夢に向かって歩みたい」―聴衆もそれにかきたてられる。

 しかし、ほんとうに新しいのか?時代逆行、時代錯誤ではないのか?よく検証してみなくては。
 ただ、その当否は別としても大きな問題提起ではあろう。 

 その考えと理屈を次のようなものだ。
そもそも、どんな日本をめざすのか
 「今以上の日本を無理にめざす必要はないが、僕は少なくとも今のレベル(「五つ星」級)を維持したい」
 「東アジアで、今の日本のレベルを維持したいなら競争で負けないこと、そのためには『国民総努力』(能力の発揮)、付加価値の創出が必要だ」
 「海外で稼いだお金を日本に戻す仕組みを考え、国内ではサービス業などの付加価値を高める環境をつくる。」
 「円高で生まれた輸入業のもうけを、輸出業に回す「デリバティヴ」(金融派生商品―通貨や株・債券などを元につくられた様々な指標で変動する―通貨デリバティブの場合は、5年や7年などの長期間の為替レートを予想させ、そのレートをもとに数ヶ月ごとに一定額のドルや円などの通貨を銀行との間で売買するもの―予想よりも円安の場合は銀行が企業に支払う、円高の場合はその逆となる仕組み―筆者)のような仕組みを考える」
 「競争でいったん格差が生じても、所得の再分配で最低限の生活は保障するし、格差を世代間で固定させないため、子どもたちには最高の教育をタダで受けさせる」
 年金は賦課方式をやめて積み立て方式に―ある程度資産ができた人は、老後の生活をまず自分の資産でやってもらう。資産のある人には掛け捨て型の年金も―「人生一生使い切る型モデル」
 所得税・法人税は税率を引き下げ、消費税は増税、資産課税を強化
 TPPには参加
 外交・防衛は日米同盟を機軸にオーストラリアを加えた3国同盟
 首相公選制にし、参議院を廃止
 改憲発議を衆参各院の総議員の3分の2以上の賛成から「2分の1以上の賛成」へ緩和(改憲しやすく)

 それらは「イデオロギーなど抽象論ではなく、現実に出来るところから積み上げていくもので、まずは、社会が決められたルール通りに動くようなシステムづくりから取り組む。価値観やイデオロギーは後にくる問題で、最後は選挙で住民から審判をうける(めざすべき価値観は住民から決めてもらう)べきもの。」
 「改憲とか核保有とか個人としての考え(イデオロギー)はあっても、今はそれは言わない」(「個人の考えと政治グループとしての公の立場での政治的発言は違うんだ」というわけ)。
 大阪市長在任中に道州制まで方向性ができたら、4年で退く(国政選挙には出ない)と。

システムの改変
 今、直面している諸問題を解決すべく行き詰まりを打開するには、明治から戦後にわたって綿々と続いてきたシステム(統治機構)を一から作り直す(「グレート・リセット」・「維新」)しかない―「仕組みづくりが僕の役割」、そして「大阪から日本を変える」というわけだ。

 そこで、都構想、さらには道州制(日本を8~9つの道州に分けて、それぞれ自立)へ。
 都構想とは、現在政令指定都市(政令市)になっている大阪市と堺市を解体して大阪都(知事・都議会)の下に10余の特別自治区(それぞれ区長・区議会をもつ)に再編

 しかし、(高寄昇三・甲南大学名誉教授によれば)そもそも地方分権の基本は市町村自治であり、市町村の権限・財源・事務の拡充でなければならないはず。戦後の地方制度改革の基本方向は、市町村への財源・権限・事務をその規模に見合った形で分担する段階的事務移譲をすすめていくことであった。大阪都構想は、このような戦後の市町村自治拡充に逆行。(橋本氏の論法では、大阪市の財源・権限・事務を区に移譲するのであるから地方分権であり、市が解体して区が分かれて小規模自治体になれば無駄がなくなり、住民サービスが向上し、住民参加がすすむ、そして現在の大阪市以上の権限・財源・事業が特別区に付与されることになるとしているが、行政実態からしてそれは空論でしかないと。)「大阪都」による集権主義で、市町村自治への支配(内政干渉・圧力)の強化になってしまうだろう、という。

 これまで大阪市・堺市とも政令市として他の道府県の人口70万人以上の大都市と同じく、府の事務権限の一部を移譲されて実質的に府の仕事の多くを自ら実施することができ、事実上の行政的な独立が認められてきた。一方、府は事務事業を政令市に移譲して自らは実施する必要がなく、その経費はかからないので、一般の府税収(政令市から入る税収はその中核的部分を占める)は、ほぼそのまま府の歳入として確保することができ、その財源を政令市以外の一般市町村域に振り向ける、という形をとってきた。しかし、豊富な財源を分け合う東京都とは違い、大阪府と基礎自治体は数千億もの地方交付税に頼ってきた。

 政令市を廃止して都になると、それが、財源(税金)は全部いったん都が吸い上げたうえで、一部を都が(大型インフラ整備・水道事業・消防などに)使い、あとは特別自治区と一般市町村に配分し、区・市町村がそれぞれ住民サービスに使うことになる。

 問題点は、大型インフラ整備をいくつも計画する都と住民サービスを担う特別自治区との間で財源の奪い合いが発生し、特別自治区が都庁から(都の都合に合わせて財政調整が図られ)財政圧縮を迫られる可能性が高く、「大阪市という基礎自治体が『特別自治区』という名のもとに、大阪都という広域自治体の下部団体になってしまう」(森裕之立命館大学教授)、ということ。
 それに、地方交付税制度の廃止をも主張しているが、これまで大阪府・大阪市ともに(合わせて約8千億円)もらえてきた地方交付税がこなくなると、その分財政に穴があくことになる。府市二重行政の解消(水道事業の統合とか、ダブってつくられてきたホールなどを取りやめたり)して無駄が省けるとしても、或は地下鉄を民営化したとしても、それらだけでは間に合わず、かえって財政が難しくなる(4千億円の経済成長で税収をあげるなど不可能であり、社会保障費や中小企業融資など4千億円の経費を大削減するか大増税するしかなくなる)(井手英策・慶大財政学准教授)。

 堺市の市長は議会で公式に「都構想」に不参加を表明している―「市を3つに分割せず一体でいってくれとの市民の願いが大半だ」と。

「決定できる民主主義」―多数独裁(「民主的」独裁)―選挙で得た多数支持をバックに強い政治力・権力を持ったリーダーが強権を振るう―反対を押し切って、思い通りに決定。
 言い分―「協議は必要だが、話し合っても決まらなかったら首長に決定権をもたせる。『独裁』かどうかは有権者がチェック」「体制を変えようとするには話し合いだけでは不可能、最後は民意を背景にした政治力を行使しなければ・・・関西電力などと対決しても見向きもされない」と。
 問題点―選挙に勝ちさえすれば「僕が民意だ」とばかりに、何でも。(君が代条例など)公約していないこと、国民・住民が託してもいないことまで(白紙委任・「お任せ民主主義」を肯定―「選挙は、有権者が『投票した人に任せよう』という意思の表れであり、『選んだ人間に決定権を与える』ことを意味するという理屈)、国民・住民に充分な説明・情報がなく何がどうなっているかよくわからないこと、或は思想・良心の自由、教育の自由(教育内容への権力不介入)、教育行政の政治的中立の原則など憲法や普遍的原則に反すること、或は個人の自由・人権に関わることなど多数決で決めてはならないことまで、何でも決めて実行させられると正当化(「あえて批判が出ることも覚悟のうえで条例を出してあとは選挙で決めてもらう」―選挙で審判を仰いで勝ったならば、その政策は正しいとして受け入れられたことになると)―いわば選挙万能主義・多数民意万能主義だ。
 それを批判すると「有権者を信用していない」と。しかし、かく言う本人は自分に投票し支持を寄せてくれた有権者のことは信用しても、自分に反対した人々、市役所職員や労働組合や教職員は、同じ有権者でも信用していないのだ。
 
 それはともかく、その民意は当選者に投票した有権者(先の大阪市長選の場合は有権者全体の35.9%)の限られた民意であり、それとは異なる他候補に投票した有権者の民意もあり、棄権した有権者の民意もあるのである。
 橋本氏は「選びっぱなしは許さない」と有権者の責任をも指摘しているという。それはその通りだろう。彼に投票した有権者には彼がやることに対して連帯責任を負ってもらわなければなるまい。
 時と場合によってはスピードとか、決断力とかが必要なこともあるが、簡単に決めてしまっては困る。慎重審議、議論を尽くすことも必要であり、国民・住民が求めておらず、決めてもらっては困るようなことならば決まらない(廃案・継続審議などの)方がいいのである。

ルールを定めて厳格に守らせる処分ルールの条例化信賞必罰の法治主義
 そこで教育基本条例、職員基本条例。

 公教育の権限・責任の見直しと明確化―首長(行政権者)・教育委員会・校長・教職員・保護者など
 いわく「今回の条例は教育委員会制度への問題提起なのだ」
 「政治的中立性が金科玉条のようになり、教育現場が治外法権みたいになってしまった」。
 「教育現場は今や保護者の求めるものとかけ離れている」「『政治の不介入の行き過ぎ』を修正しなければならない」と(橋本)。
 しかし政治的中立を守るのは教育の大原則で当然のこと。なのに教育現場は治外法権どころか、諸法令(教育基本法・学校教育法・地方教育行政法―「教育3法」いずれも改定されており―、学習指導要領もある)と「文科省→教育委員会→校長→教職員へ」の上意下達の管理統制・職務命令その他様々な方面からのプレッシャーで教師たちは伸び伸びと持ち前の志・創意・力を発揮できない状態におかれている。 
 いわく「いまの教育委員会は現場のマネジメントができておらず、無責任体制だ」「首長のもとに権限と責任をもたせるようにすべきだ」と。
 
 教育の普遍性―時々の多数民意・政治傾向にいちいち左右されない―原則
 教師―専門性、主体性をもつ(教育の自由―教育目標・教育内容・指導計画の発案・指導方法・教科書選定など)
   全体の奉仕者(国民全体に直接責任を負う)
 のはず、ところが、それらが、変えられていく―文部省・首長・教育委員会その他が介入・干渉、主体性・自主権は奪われていく。
 1958年から勤務評定
 教育基本法は(戦後、憲法とともに制定されていたが)、次のように変えられてしまった。
  「教育の目的」―旧基本法は人格の完成、平和的な国家・社会の形成者として「自主的精神に充ちた」国民の育成など個人が重視されていたが、新基本法では国家にとって「必要な資質を備えた」人材の育成をめざすとして、教育は個人より国家のためにというふうに国家のほうが優先へ。
  「教育の目標」―旧基本法には無かったもので、「道徳心」「公共の精神」などとともに「我が国と郷土を愛する」態度(愛国心)を養うといった目標の達成が義務づけられるようになり(指導要録に具体化)、それが「愛国心通知表」の正当化や「日の丸・君が代」強制の根拠となる。
  教員―旧基本法で「全体の奉仕者」(国民全体に直接責任を負うもの)となっていたのが新基本法では削除され、国家や教育行政が定める使命に教員を従わせる方向へ。
  教育行政―そもそも(旧基本法では)「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を行われるべきもの」で「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」となっていた。
 それが、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行わなければならない」と―教育は「国民全体に対し直接に責任を負って(教員が主体性をもって―筆者)行われるべきもの」が削除。「教育は不当な支配に服することなく」は残したが、「不当な支配」の意味を教職員組合や「左翼」などの党派的勢力による「不当な支配」の意味に変質。また、「この法律及び他の法律(指導要領なども―筆者)の定めるところにより」、「国と地方公共団体との役割分担及び協力の下」に「行われなければならない」として、政府・地方行政権力の教育内容や教育方法への介入の正当化がはかられるようになった(愛国心教育、「日の丸・君が代」強制の根拠にもなる)。
 また、「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」「地方公共団体は、地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない」として、教育内容に関する国家的目標・基準の達成をめぐる競争を組織―全国一斉学力テストなどを実施して、学校・こども・教員を競争に駆り立てるようにされる。

 橋本・大阪教育基本条例はこれら教育基本法の改定に便乗したもので、さらにその徹底化をはかるもの。

 教育委員会制度
  それは、そもそも(制定当初は)公選制であった。それが1953年首長による任命制(首長の考えと合いそうな人物が抜擢、但し首長はそれより先は口出しできないが)に変えられた。―文部省から教育委員会への上意下達の一機関化、教育行政の中央集権化とともに、地方行政首長に従属化するようにもなる。
  いわく「教育委員会の現状は、権限と責任が中途半端で、教育現場をしっかり管理できる体制になっていない」と。
  確かに、委員(6名)は非常勤で月に1~2回の会議にでるだけで、いくら地元の名士でも教育現場のことを詳しく知っているわけではないから、会議で意見は言っても、実際は教育長が率いる事務局(官僚)のつくった案をそのまま追認するケースが多く、「首長からの独立」という強い権限が与えられている割には十分な体制とは言えない。
  だから、それを首長の下に権限と責任をきちんともたせるのだと。

大阪の教育基本条例
 教育行政への政治の関与の必要性を明記(首長に教育目標の設定権、教育委員の任命権だけでなく罷免権をも認める)(議会は教育委員会が教育目標に従っていないと教委に報告を求めるなど)
 実は、それは、教育行政の権限を教委から自治体の首長に移すという、これまでの(06年自公政権の教育基本法改定案への対案として民主党が出した「日本国教育基本法案」や09年選挙の際の民主党マニフェストなど)民主党が提案してきたものと軌をい一にする。
 高校の学区を府内全域とし、府内のどの高校をも入学志願できるようにする―受験競争が激化へ。
 定員に満たない学校は統廃合―学校間競争―進学率や生徒指導など短期的成果を追及(個々の生徒の人生を見据えた人間教育がそっちのけになる)
 「教育の個性化」を唱えながら、教育の画一化へ(多様性を奪う)
 管理統制―「首長→教育委員会→校長→現場教員」へと首長の意向が貫徹(上意下達を文科省のかわりに知事が発する)―集権的システム(官僚制も)再編成
 校長(裁量権強化、その一方任期あり、評価うける)による教員への管理統制の強化―人事評価、教員任用・人事異動(教委は校長の意向を尊重)、教科書推薦も
 教員・職員の服務規律の厳格化(締め付け)―職務命令に服従させる―違反を処罰
  「服務宣誓」(任用にさいして法令・服務規律の遵守、職務命令に服すことを宣誓)しておきながら、それに背くとは何ごとか、と。
  しかし、服務規程は、そもそも公務の公共性を守るためのものであって、首長や上司の個人的な嗜好性(好み)を守るためにあるのではない。
 公務員たる教員・職員―「全体の奉仕者」のはず(であって「首長への奉仕者」ではない)。
         職務命令に従うなど公務員法には従わなければならないが、思想・良心の自由を認める憲法(優先的)によって守られるべき。
 いわく「教育基本条例は、基本的には仕組みの問題なので、条例の中身に価値観やイデオロギーは入っていません」と―しかし、首長や委員や校長がイデオロギーでこれを運用しない保証はない。現に「君が代」にこだわって、不起立を職務命令違反として処分することを当然視している。
 教員評価―いわく「今の教員評価システム(教育委員会の事務局の人事課の評価)では、誰がどういう基準でやっているのかデタラメ、D評価は小中では1万人に1人(0.1%)しかつかない。タウンミーテングでは「もっと厳しく」という意見があった」と。
 そこで、基本条例では、それを保護者および教育関係者から校長が委嘱した委員で構成される学校協議会が行うこととし、「5段階評価で、S5%、A20%、B60%、C10%、D5%の割合で評価をつける(相対評価)。2年連続でD評価がつくと免職を含む処分の対象とするが、「指導研修」を加え、そこで適格性がないと判断(その場合は絶対評価)されたら免職(その後、教育条例案から「免職」だけは削除へ)。
 学力テスト―市町村別・学校別の結果をホームページ等で公開―いわく「大阪の子どもが、グローバル世界で、せめて就職でき、自立してメシを食えるくらいまで能力をつけさせたい。
 学力状況の悪い子どもには人と予算をつけないといけない。それはある意味で『えこひいき政策』だから、なぜ人と予算をつけたのか皆に示さなければならない。だから、それを行うのだ。
 詰め込みなどあんなことをやっても企業で採用されないから、中身には問題があるが、学力状況をちゃんと把握し、オープンにしなければならない」というわけ。
 これに対して「大阪の学力の低下(40年前は6位だったのが今は45位)は現場教師の責任だけではないはず。大阪の経済の地盤沈下、生活環境の悪化、離婚率など様々な要因がある。人権教育(部落問題)・民族教育(在日朝鮮人問題)・外国人教育など教育要求の厳しさに対応しなければならず、子どもに深く関わって疲れきったとか、教員の病気休職者率は全国平均の2倍、精神疾患は3倍というのが実態だとの異論。
 越境入学をするのは、先生がどうのこうのではなく、貧しい地域では学力の足を引っ張るからというので、そこを避けて他へ行こうとするからだとも。

 日の丸・君が代―国旗・国歌―起立斉唱―職務命令で強制(不起立は処分)
  いわく「思想・良心の問題ではない。公務員が法令や条例に基づいてしっかり仕事をするかどうかの問題だ」と。しかし、そうは思わない人(単なる職務の問題ではなく、思想・良心の問題だと思う、という人)もいるのだ。

  いわく「日の丸・君が代を軍国主義の象徴ととらえるような歴史観をもった人は極く少数、起立しないことを認めるデメリットの方が大きい」「不起立でもって自分の歴史観を子どもに伝えるというのは言語道断だ」と。
 しかし、起立しないことによって、式典の秩序・雰囲気をこわす「迷惑」と、たとえ一人でも、「踏み絵」のようにその人の思想・良心に反する行為を強いて、憲法に定められた自由・人権を侵害するデメリットとどっちが大きいか。「起立しないことを認めるデメリットの方が大きい」なんて、そんなことはあるまい。子どもの前で、良心を偽り信念を曲げて、そらぞらしく起立して歌ってみせる―そのようなことを無理強いすることこそ言語道断と言うべきだろう。
 いわく「大阪の子供たちの犯罪率は全国一、教師が子どもたちを指導する時に『ルールをちゃんと守れ』と徹底していうことが重要、しかし、教育委員会が決めたルール(君が代起立斉唱命令)を守らない先生がいるのに、『お前たちルールを守れ』と生徒に言っても、生徒は聞くわけない」「いまの民主主義のルールのなかで、維新の会が過半数をとって多数決でルール(君が代起立斉唱条例―筆者)を決めた、そのルールに厳格に従っていきましょうと、いま、大阪市内で徹底的にやらないと、もし警察が取り締まりをやった時に、『おまえ、これどないなってんのや、ルールを守れ』といっても、『いや、思想・良心の自由です』といって言い訳を簡単に許してしまうのでは・・・・」と。
 なんか変、賢い子どもなら「これって、屁理屈じゃない?」というのでは。
 この国は、かつての大日本帝国や北朝鮮のような全体主義の国ではなく、自由の国、個人の人権を守る国のはず。
 市民には色んな思想・信条をもった人々がいて、反社会的犯罪行為を犯さぬかぎり、居住・職業選択の自由があり、思想・信条を理由に差別されることなく、国民大多数の思想・信条とは違うからといって迫害されることも処罰されることもないはず。
 日の丸・君が代に起立斉唱しないものは公務員(国会議員・国務大臣・裁判官その他)になれないなどという定めは憲法をはじめどこにもない。憲法にあるのは、信教の自由(20条)とともに思想・良心の自由(19条)であり、そして公務員の憲法尊重擁護義務である(99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う」)。
  
 日の丸・君が代を起立斉唱するぐらい国民の大多数の人にとっては「どうということのない」当たり前のことかもしれないが、思想・信条からどうしてもできないとか、どうしてもその気になれないという人がわずかでもいて、彼らがそれを強いられた場合、その人権―思想・良心の自由―を保護する、それこそが憲法(19条)。
 学ぶ子どもの立場にたって言えば、ある子どもが、ある理由があって、みんなが起立して歌っているのに立たず歌わない、「そんな我儘や身勝手は許せない」といって、その子がいじめられた場合、その子は保護されなければならない。教師も同じだろう。
 昔は「非国民・アカの子ども」といって、いじめられたそうだが、そんな「いじめ」を許すほうがおかしいのでは?
 いわく「公務員として仕事をするんであれば、卒業式で『君が代』ぐらいは歌ったって下さいと言ってるんです」と。だったら、式典の進行を妨げる物理的な妨害行為ならいざしらず、「歌わないぐらいで処分することなどないではないか」と言えるのでは。「立て!歌え!」などと、そんなことを命令するほうがおかしいのだ。
 「朝なま」で視聴者からの意見が一つ紹介されて「日本を嫌になるような教育をしている方がおかしい。『君が代』と『日の丸』が嫌いならクビにしてもいい。日本の公務員が自国の国旗・国歌嫌いとかあり得ない」と。
 橋本氏いわく「公務員として嫌なら私立に行けばいいのだ」と。
 しかし、それは暴論もはなはだしい(「それこそが恫喝」との批判発言あり)。「不起立」を物盗りやセクハラなど非行か体罰と同列に論じるのも暴論。
 司法判断―合憲判決の問題
  君が代起立斉唱の職務命令は「思想・良心の自由」を「間接的に制約する面がある」としながら、「制約」には必要性・合理性があると。君が代起立斉唱行為は「慣例上の所作」だと。地方公務員法に公務員は職務命令に従う義務ありと。
  しかし、そんなことを理由に「制約」を認めるのは安易に過ぎる。それは単なる「間接的な制約」などではなく「直接的侵害」。
 職務命令「違反」として(戒告・減給・停職・「再発防止研修」など)処分するのは強制であり、人権侵害。
 「思想・良心の自由」(19条)、ひいては教育の自由ともなる「学問の自由」(23条)、「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(15条)それに「公務員の憲法尊重擁護義務」(99条)は最高法規である憲法の定めであり、地方公務員法その他すべてに優先さるべき規定。なのに、この合憲判決は憲法よりも地方公務員法など方を優先している。

 最高裁判事(14人)多数意見は内心と外形的行為を分けて、内心まで改めさせることは許されなくても、起立して歌うという行為を命ずることは許され、命令違反を罰しても内心の自由侵害にはならないとして起立斉唱の職務命令は合憲判決になったが、2人は反対意見、7人は補足意見で処分は抑制的であるべきだと注文をつけており、実質的には制約のある判決なのであって、手放しで合憲と認められたという筋合いのものではあるまい。

 職員基本条例
  自治体・公務員を民間会社・社員と同然視―公共性(地域住民全体の奉仕者)・専門性(継続的に蓄積された技能)を度外視
 「全体の奉仕者」(憲法15条)として地域住民の側に立つことよりも首長の方針に忠実に実行することが求められる。
 住民全体の普遍的権利(人権保障)のためというよりも特定の顧客に対する個別的利益に応える。
 5段階人事評価 ―D評価―2回連続で「指導研修」それでダメとなったら分限処分
―リストラ(「整理解雇」)
 首長から幹部・職員へのトップダウン―強固な官僚システムが新たに形成
 幹部(部長・局長など)―「準特別職員」―公募―民間企業からも任用
            マネジメント(経営管理)能力重視
 職員間序列化・分断(連帯断ち切り)、上司への同調志向(「市民・住民のため」というより、「首長や上司のため」に忠実)、職場の空気は萎縮

 安倍晋三元首相は、「戦後レジームからの脱却」を掲げて(尤も、彼の祖父岸信介の代から自民党長期政権下で、実質的脱却政策が着々と進められてきたのだが、その完全脱却をめざして)改憲手続法を制定し、教育基本法改定を断行してレールをしいたが、橋本・維新の会はそれを具体化して実践させようとしているのだ。
 
 単に大阪だけに止まらず、このやり方を国中に広げようとして、教育基本条例・職員基本条例のような制度を国の法律に定めよ、とも。
 朝日新聞社の「全国の知事・政令市長へのアンケート」では、「教育目標を首長が定める」との規定について、6知事3市長が「賛成」と回答、「反対」は5知事1市長、「どちらともいえない」は22知事10市長、「条例案を自分の自治体で参考にするつもりはありますか」との問には14知事6市長が「既にしている」か「今後検討」と回答。他の自治体にも波及する可能性を示した、と報じている。
 「維新八策」(維新の会の衆院選むけの公約集)には、石原都知事は「絶賛」、「大賛成のところがある」と。政党では「みんなの党」が同調している。
 
 2月9~16日には大阪市役所の全職員に「労使関係に関するアンケート調査」なるものを「市長の業務命令」(記名で、「正確な回答がなされない場合は処分の対象となりえます」、ということは単なるアンケートではなく強制)として実施。
 「組合活動に参加したことがあるか」「職場の関係者から特定の政治家に投票するよう要請されたことがあるか」「要請した人は(誰か)」「特定の政治家を応援する活動(街頭演説を聞いたりする活動も含む)に参加したことがあるか」「自分の意思で参加したか」「誘われて参加した場合は、誘った人は(誰か、密告を促す―筆者)」「誘われた場所・時間帯は?」などと質問。
 「職員が自己の『違反行為』について真実を報告した場合は、懲戒処分の標準的な量定を軽減する」(隠したら容赦しない―筆者)と。
 これは思想調査であり、憲法で保障された思想・信条の自由、政治活動の自由(地方公務員は、公職選挙法により公務員の地位利用による選挙運動が禁止されているほかは、個人としての政治活動は自由)、労働基本権・労働組合活動の自由を侵害するもの。ここまでやるとは・・・・恐ろしや。まるで北朝鮮やかつての日本みたいでは。
 多数民意だといっても、やってはならないことはやってはならないのだ。多数民意なら何でもできるというのは間違い。
 「基本的人権を無視―こういうことをするような首長が教育を主導したら、どんなことになるのか」(朝日ニュースター「パックイン・ジャーナル」で田岡氏)。
 

 戦後スタートした自由と民主主義・民主教育は自民党長期政権下でずうっと逆コース(徐々に後退)の一途をたどってきたが、ここに来て戦前回帰(但し、かつてのような「滅私奉公」の国家主義ではなく、新自由主義という市場競争主義と両立させた国家主義で、多国籍企業や「勝ち組」の私的な利益を国益として守ってくれるものとして国家に最大限重きを置く「新国家主義」)への急展開が始まろうとしている。孫たちが心配だ。


ホームへ戻る