米沢 長南の声なき声


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空幕長論文問題(修正加筆版)
2008年12月06日

 田母神航空幕僚長が、民間団体(「アパグループ」―ホテル・チェーンなど展開)が募集した「真の近現代史観」懸賞論文に応募、「我が国が侵略国家だったというのは濡れ衣だ」などと政府見解と異なる論文を公に発表したとして更迭(解任)された。
 その何が問題なのか論評したい。
(1)論文の内容について
①「日本は相手の了承を得ず軍を進めたことはない」と。―事実は、ほとんどが相手の了承なく軍を進めておいて(駐屯部隊の軍事行動、謀略事件を起してそれを相手の仕業にして攻撃、奇襲攻撃も)、戦争にもちこみ、屈服した相手に領土の併合や割譲、権益のあけ渡し、権利譲渡などの条約や協定を結ばせた。日露戦争は旅順港を基地にしていたロシア太平洋艦隊への奇襲攻撃で始まり、満州事変は関東軍と称された現地駐留日本軍の謀略(鉄道を爆破して中国軍の仕業であるとして攻撃)で始まったし、日中戦争は北京郊外(盧溝橋付近)で中国軍に近接して駐屯していた日本軍部隊を増派して大規模な演習を行なったそのあげくに両軍が衝突して始った。太平洋戦争は真珠湾のみならずマレー半島奇襲上陸で始った、等々。
 相手の了承を得て行ったのは北部仏印(フランス領インドシナ北部)進駐のときぐらいのもの(その時はヨーロッパでドイツに降伏したフランスがやむなく了承)。
②「張作霖爆殺事件はコミンテルンの仕業だ」と。―事実は、これも関東軍の仕業であったということは、実行首謀者・関東軍参謀の河本大作大佐が供述しており、「昭和天皇独白録」も含めて戦後公表された多くの証言・史料で明らか。
③清朝政府と締結した「義和団最終議定書」で欧米各国とともに北京駐兵権を獲得し、当初2,600名の兵を置いた。その日本軍は「36年後の盧溝橋事件の時でさえ5,600名にしかなっていない。この時、北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。」「盧溝橋の仕掛け人は中国共産党だ」と。―合法的とはいえ、日本は他国に、その国の軍(国民党軍)の駐屯地の間近に5,600人もの大軍を置いていたのである。そしてその日(事件当日)日本軍はそこで夜間演習を行った。衝突のきっかけとなった発砲は両軍のどちらの兵が先に仕掛けたのか、そのような議論は大した問題ではなく、とにかく間近に両軍駐屯地が対峙し、日本軍の夜間演習が国民党軍との衝突・戦闘を誘発し、4日後には、現地で中国軍の側が休戦を望んで日本側の要求をのんで停戦協定が結ばれたのに、日本政府(近衛内閣)は派兵を決定して増援部隊をくりだし戦闘を再開、終にはそれが100万人にも達し、日中全面戦争に発展したというのが事実なのである。
④「我が国は蒋介石により日中戦争に引き込まれた被害者」「日本はルーズベルトの罠にはまり真珠湾攻撃」と。―事実は次の通り。
 日本は、満州事変から日中戦争、さらには、石油・ゴム・錫などの資源地帯を含むアジア・太平洋地域(「大東亜」と称す)を「生存圏」とし、インドシナ進駐へと軍事戦略を進めてきたが、アメリカはそれに反発し、日米通商条約を廃棄、石油輸出停止などを行い、イギリス・オランダとともに対日経済封鎖体制(ABCD包囲陣)を敷いた。これに対して日本は日米交渉で「満州国」・「中国駐兵」・「南方進出」をアメリカに何とかして認めさせようと(交渉妥結の条件案をもちかけるなど)試みる一方、開戦の覚悟を決め、対米戦争の準備を進めた。
 これに対して、アメリカ側のハル・ノート(田母神氏は「コミンテルンのスパイ」が書いたものだというが)は、日米交渉にさいする日本側の条件提案に対する拒否解答であり、開戦するなら受けて立つというハル国務長官の意思を示したものだった。ところが、それが日本側に示されたその日(11月26日)に、日本の海軍機動部隊は、かねてよりの御前会議における(12月初頭までに日米交渉で日本の要求が貫徹されない場合にはとの)開戦決定に従って、もうハワイに向かって南千島から出発していたのである。そして12月8日未明、真珠湾内に錨を降ろし岸壁につながれたままのアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけたのである。(その死者は民間人を含む2,330人、日本軍の戦死者64人だった。)
 それを「罠にはまったのだ」という、このような論法は、いずれも相手国の領域に乗り込んでいって事を構えた自らの行為(侵略行為)が原因となって始まった戦争を相手のせいにする「卑怯」な言い分けと受け取られよう。
 戦争や「外交戦」に謀略やスパイの暗躍は付き物である。(日本も含めどの国もやっていることで、なにもコミンテルンに限ったことではない。)東大教授の北岡伸一氏は(11月13日の朝日新聞「私の視点―ワイド」に)「国際政治とは、しばしばだましあいでる。自衛隊のリーダーたるもるが、我々はだまされたというのは、まことに恥ずかしい」と書いている。
 
 尚、ジャーナリストの徳本栄一郎氏(「月刊現代09年1月号」掲載「真珠湾攻撃『改竄された米公文書』」)によれば、真珠湾攻撃情報が事前に米国政府(国務省の極東部)にもたらされていたのは事実であったが、それが政府上層部(ルーズベルト大統領やハル国務長官)にはきちんと伝えられていなかったことのようである。
 真珠湾攻撃計画の情報が最初にもたらされたのは開戦11ヶ月前(1941年1月下旬、実際その頃、山本五十六連合艦隊司令長官はハワイ攻撃計画を立てていた)、駐日米国大使ジョセフ・グルーに、ペルーの特命全権公使(リカルド・シュライバー)の口からで、グルー大使は国務省極東部に暗号電報でその情報を伝えていた。
 6月にはFBIが日本海軍軍人をスパイ容疑(米国の港湾や造船施設を探っていたというもの)で逮捕・国外退去させた。
 極東部の若手スタッフで国務省の数少ない日本専門家シューラーは、(同僚の夫人からたまたま聞きつけた話しで)日米交渉に従事していた日本人外交官(寺崎英成)の夫人(グエン)の、日米開戦を示唆する言葉などに、開戦は必至と見ていた。
 ところが、国務省内で、日米開戦は避けられないとするシューラーら若手グループに対して、和平交渉に固執する幹部たち(極東部長ハミルトンら)が対立、「後者は都合の悪い情報(真珠湾攻撃情報など―引用者)を無視し、異論を封殺した。(シューラーは転勤させられる―引用者)その結果、上層部(大統領・国務長官―引用者)へあげられる意見が偏っていた。」
 真珠湾攻撃が実際起きると、その後、国務省幹部は失態を隠すため(大統領に誤った助言をした責任から逃れるため)保管文書(駐日大使グルーの日記も)を改竄し、目障りな部下を追放した、というわけでる。

 田母神氏論文は、張作霖列車爆破事件といい、盧溝橋事件といい、真珠湾奇襲といい、謀略を仕掛けたのが日本軍であるのに、それを逆にして、いずれも相手側が仕掛けた謀略だったのだとし、日本軍の軍事行動は、その「罠にはまって、戦争に引きずり込まれた」やむをえざるものだったとして肯定・正当化しているのである。
 ということは、彼・田母神氏は幕僚長という立場で、(北朝鮮なり、韓国なり、中国なりに対して)、このような(相手の罠にはまって戦争に引きずり込まれたとして)軍事行動を起こす判断をしかねなかったということであり、大変なことになりかねなかったのだ。
⑤「多くのアジア諸国が『大東亜戦争』を肯定的に評価している」―欧米人の植民地支配に苦しんできた東南アジア諸国や太平洋諸島の人々の中には、その欧米に敵対して侵入・進駐した日本軍を歓迎・協力する向きも戦争の初期にはあって、日本軍の援助で独立政府や軍隊組織がつくられたりしたが、その実権は日本軍が握り、その地域にある石油・ゴムなど資源物資・食糧を強制的に取り立て、人々を労務者としてこき使い、事実上支配下に置くようになったことに気が付いて、日本に失望、反日感情が強まって抗日ゲリラ活動も行われた。戦後、結果的に独立を導いた日本の役割を、これらの国の中には肯定的に評価する向きもあろうが、それに批判的な人々が多い、というのが事実である。
⑤「東京裁判は戦争責任をすべて日本に押し付けようとしたものだ。そのマインドコントロールは今なお日本人を惑わせている」と。―東京裁判は日本の戦争責任を裁こうとしたものであるが、それは戦勝国による一方的な裁判であり、アメリカ政府の思惑が働いたことは事実である。しかし、そこには「被告には自らを裁く権利はない」(厳正に追求できるはずはない)という論理があったし、日本政府にも、日本独自の裁判を考えはしたものの、「天皇の名で戦争し、天皇の名で裁くなどということは不可能だ」とか、戦争に反対して抵抗した少数の共産主義者など以外は日本国民のほとんどが多かれ少なかれ戦争に責任を負っていたという負い目もあり、「日本人が日本人を裁けるのかというジレンマがあったことにも一因がある(ジョン・ダワー氏がその著書「敗北を抱きしめて」で指摘)。その結果、アメリカの原爆投下が不問にふされる等の不公正なものとなり、天皇の訴追が回避され岸信介ら多数の戦犯容疑者が中途で釈放されるなど日本の戦争責任に対する追及も不徹底なものとなった。その不徹底さが、日本人の中に自国の戦争に対する罪悪感をむしろ薄める結果になっているとも考えられる。
 マインドコントロールに囚われているとすれば、日本人の一部に、日米関係は親子関係の如しといった観念がしみついて対米従属意識でこり固まってしまっている向きがいることだろう。田母神氏からしてそのように思える。氏は「このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。」と書いていながら、「私は日米同盟を否定しているわけではない。但し、日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。」と書いており、「子供はいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要がある」としながらも、日米関係は親子間家であり続けると思っており、対等な関係であるとは思っていないわけである。

 この論文に対する戦場体験者の批判があるが(朝日新聞の投稿)、それは次のようなものだ。
 中国戦線に従軍した91歳、東京杉並区の方―「実際の戦争を知らない戦後生まれの無知蒙昧の観念論・歴史観」だと。
 中国戦線に「一兵卒として」従軍した86歳、長野県下諏訪町の方―「戦争の実態を知らぬ無知さ加減を暴露」と。
 中国出征・シベリア抑留の憂き目にあった元兵士、94歳、和歌山県みなべ町の方―「村をあらし、村人を手にかけた。あの戦争はまさしく『侵略』だった。日本の占領が『圧政からの解放』などとは、きれいごとに過ぎない。中国人を苦しめた我々の痛みが、空爆長にわかるか」と。
(2)幕僚長の言論の自由、教育の自由とは
 「自衛官にも言論の自由がある」「言論統制なら北朝鮮と同じだ」と。
 言論の自由といっても、嘘をつく自由などあり得ず、客観的事実に反し、事実を曲げ、定説(史料に基づく検証や反証を通じて固まってきたもの)と違うことを、裏付け資料があいまいで根拠が不確かなのに、さもまことしやかに偽装して書きたて教えたりする自由はないわけである。評論家の唐沢俊一氏は、(11月13日朝日「私の視点―ワイド」に北岡氏、志方氏と共に寄港した文「陰謀論にはまる危うさ」で)田母神論文は、「一次史料を参照せず、『誰々の本に書いてある』という二次史料の引用しかない。空幕長であれば、一次情報にアクセスすることもできたはずだが」と指摘しており、北岡氏も「事実の把握において、著しい偏りがある」と批判している。そんな、いい加減な論文だということだ。
 ましてや、公務員には憲法尊重擁護義務(憲法99条)があり、自衛官は自衛隊法53条(憲法遵守宣誓義務)に基づいて「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の職務を自覚し、日本国憲法および法令を遵守し・・・・もって国民の負託に答えることを誓います」(任官のさいに署名・押印)という宣誓を行っており、かつ又、自衛隊は文民統制(シビリアン・コントロール―国民に選ばれた代表から成る国会や政府の決定に服すること)に従わなければならず、自衛隊の幹部たる者が隊員または隊員以外の者に政府方針・政府見解と違うことを説いたり、教えたり教えさせたりしてはならないことになっているのである。
 日本国憲法とはどのようなものかといえば、その前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」とあり、この憲法は、未曽有の戦争の惨禍を招いた政府の行為に対する反省の上に立って書かれた、そういう憲法である。公務員の憲法尊重擁護義務とは、その精神をも尊重しなければならないということだろう。
 また、政府見解といえば、1995年8月15日、時の首相(村山)が述べた次の言葉―
「我が国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によってアジア諸国民に多大の損害と苦痛を与えた」「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。」(いわゆる「村山談話」)
 その見解が、その後代々の首相によって踏襲されてきており、それが国内外に対する我が国政府の公式見解となっている。

 田母神幕僚長が(隊の内外における講話・訓話・論文などで)振りまいた言説は、これらに全く違背するものだった。
 それは国内外の諸国民に警戒感や不信・不安を与え、国際的に我が国の孤立を招きかねない、その意味で国益に反するものとなっている。

 士気を高める隊員教育―田母神幕僚長は幹部学校に「歴史観・国家観」の講義を設け、講師に「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーを招く。それ以外に様々な場で自らも講話や訓話。
 「日本が良い国だと思えなかったら、誰が命がけで国を守れようか」(12月9日放送のNHK「クローズアップ現代」―「なぜ発表?空幕長論文の真相」で記者のインタビューに答えて田母神氏いわく「自分たちの先輩が残虐行為をした、侵略をした、ろくな国ではなかった、というふうなことを教え込まれたんでは、やっぱり国のために頑張るという自衛隊はできませんね」)と。
 元陸将で帝京大学教授の志方俊之氏も「日本は過去にひどいことをやった罪深い国だ―では、若い隊員たちが誇りを持って命を捨てられるだろうか」と11月3日の朝日新聞に書いている。
 肝心なのは今、現在のこの国を外敵から守るということであり、今、この国で共に生きている人々(家族・同胞)の生命と生活基盤を守るということなのであって、必ずしも、今この国が守るに値する「良い国」だから守る、というわけではあるまい。確かに今この国は、昔に比べれば平和国家・民主国家として「良い国」になっているとは考えられるが、それを、戦後の今だけでなく戦中・戦前の昔も、侵略国家でもなければ圧制国家でもない「良い国」だったと思わなければ命がけで守れないとか、隊員教育によって隊員にそう(事実「ひどいこと」「罪深いこと」をやったのに、やってはいないと)思いこませなければ、彼らは命がけで戦ってくれないなどというのはおかしくないだろうか。親は我が子を、悪さ・過ちを犯したことのない「良い子」だと思わなければ守れないと言っているようなものではないか。(親は我が子が「悪い子」「不肖の子」だと思っても、危難にあえば命がけで守るもの。)
 また、なにがなんでも、この国を「良い国」と思いこませて「誇りをもって国のために命を捨て」させるということなるが、それはやはりおかしいだろう。
 幹部教育で肝心なのは、思い込みで実態を見誤ることのないようにすること、とか、間違った命令で隊員が命を落とすことのないようにすること、とか、そういったことだろう。
 12月5日NHK「ニュースウォッチ9」で「最後の海軍大将、自衛隊への遺言」として、井上元海軍大将(日米開戦に反対して左遷、終戦の1年前に軍中央に復帰)の「証言」(インタビュー)を取り上げていた。
 曰く「大義名分の立たない戦いに部下を殺すのは大嫌いだ。そんなこと大嫌いな以上にやるべきじゃない。大義名分は何かというと独立ということ(「大東亜共栄圏の建設」でも「アジア解放」でもない―引用者)。それが脅かされときは、これはもう、どうしてもしようがない。」と。そして、特攻(海軍だけで4,100人の命が失われた)で「前途ある若者たちが死んでいくのを止められなかった悔恨の念を語っている。
 彼は「嘘を重ねて戦争を続ける軍の姿を見ていた。」―天皇への報告で「戦争の遂行に必要な燃料の備蓄量を水増しして報告をしていた」と。
 戦後、設立された防衛大学校の初代校長(民間出身)に「学生には軍事知識に偏らない幅広い教養を身に付けさせるべきだ」と助言した。防衛大学校の教育方針―「広い視野」「科学的思考力」「豊な人間性」―には彼の思いが反映されているという。
 曰く「兵隊というものは偏りがちな癖がある。私は、兵隊を作るんじゃない、『ジェントルマン』を作る。結局、教養を高めるということが一番大事だ」と。教養を含めて偏らない情報をもつことが大事なのだということ。(作戦は客観的な事実情報に基づかなければならないのに、自分の思い込みや自分の都合の好い情報でやったのでは勝てやしないわけである。)
 12月9日NHK「クローズアップ現代」によれば、防衛大学校の初代校長・槙記念室には「服従の誇り」という言葉が掲げられている。それは「国民が決めたことに進んで従うことは立派な誇りになる」という意味で、「文民統制」の理念はこの一言に込められているという。
 防大現校長の五百旗頭氏は、タイの士官学校に留学して帰ってきた学生らと面談し、彼らの一人が「われわれ防大生も国を守ることにもっと誇りをもって生活なり勉強なりをすることが必要と感じました」と述べたのに対して、次のように言っていた。
 「国王を仰いで国防のために誇りをもつというのは戦前の日本の士官学校生もそうなんですね。頼もしいといえば頼もしいんですが、問題は視野狭小になって暴走したりしないかと、そういう問題なんですよ。」(彼ら―防大生―は、あまりにも全力投球しているために、時としてそのことに夢中になって広い視野を見失うことはあり得ることですね。それで突進してはいけないんだよと。もっと広い場において広い認識の土台をもって成長していく必要があるよ、ということも言ってあげなくてはいけないんでしょうね」と。)
(3)「自衛隊員の鬱屈」とは
 志方元陸将は、田母神論文は「隊内の長年の鬱屈を示した」として、「自衛隊員には長年にわたり鬱積しているものがある。」「現行憲法では自衛隊の存在が明確ではない。そんな状態が長く続き、屈曲した気分を作っている。憲法を変えて自衛隊の存在を明記することだ」と書いている。
 憲法については、自衛隊に限らず、そこには警察のことも、消防のことも海上保安庁のことも直接には書かれてはおらず、天皇と三権(国会・内閣・裁判所)以外の公的機関・公職は一切明記されていないわけであり、憲法に明記されていないからといってこれらの署員や隊員その他の公務員に鬱屈があるのかといえば、そんなことはないわけであり、自衛隊員に鬱屈があるとしても、それは必ずしも憲法にその存在が明記されていなからだとは言い切れまい。
 ただ、政府のこれまでの自衛隊に関わる政策が原則を曖昧にしてきた、その点が自衛隊員の鬱屈(不満の鬱積)をもたらしているとは言えるだろう。
 「専守防衛」徹し、国の内外における災害支援などに出動、平和活動に役割を果たし、これまで一人の外国兵も殺さず、一人の自衛隊員も殺されていない。そのことは、アメリカのように、世界のあちこちで戦争し、幾多の外国兵やゲリラ・一般人を殺し、自国兵が殺されている国に比べてけっして恥ではないどころか、誇りだと言えよう。
 しかし、その一方で、不名誉だと思われるのは、アメリカ軍への従属状態におかれていることだろう。
(横田正巳著「変貌する自衛隊と日米同盟」高文研によれば)日米両軍は実質的に統合(日米司令部が一体化)―同じ基地内(キャンプ座間・横田・横須賀)に両軍の司令部が併置、机を並べて共同作戦。分担は、米軍が「決定的に重要な中核的能力」を提供するのに対して、自衛隊は「追加的・補完的能力」を提供―いわば「米軍を保安官とすれば自衛隊は助手」という立場。装備も訓練も米軍の指導と援助を受け、いわば「教師に対する生徒」の如しだ。そして米軍基地の警護、米軍の出撃にさいして後方支援(護衛、補給―空輸・給油など)をさせられているのである。
 「国際貢献」―対外的影響力の拡大―ならば、平和憲法をもち、世界唯一の被爆国に相応しく非軍事平和貢献に徹しても良さそうなものであるが、政府は、アメリカから「ブーツ・オン・ザ・グランド」などとせっつかれることもあって、自衛隊を使っての軍事貢献に傾き、事あるごとに自衛隊派遣にこだわる。そうすると自衛隊の方は、「海外に出すなら外国軍並みの権限を与えてほしい、武器使用も」となるわけであり、それがかなわないとなると、引け目・いらだちを感じることにもなるわけである。
 だからといって、田母神氏が主張するように「集団的自衛権の行使」も攻撃用兵器の保有まで認め、イラク・アフガニスタンへと、どこへでも米兵と肩を並べて共に出撃する。そして戦争の「惨禍」を繰り返す。そんなことに「誇り」を感じたりするのだろうか。
 自衛隊は「専守防衛」に徹し海外には災害救援以外には一切出ない、他国の戦争や紛争には参戦・軍事介入はしない、ということを原則とするのであれば、そういうことで、それをはっきりさせればよいものを、政府が自衛隊にやらせていることはどうも中途半端。そういったことが「鬱屈」の原因になっているのではないだろうか。
(4)やりたいことをやり、言いたいことを言って定年退職?
 志方氏は、田母神空幕長の論文は「自衛隊にとっては、迷惑千万だろうが、一部には、よくぞ言ったという評価もあったのではないか」という。
 一般に、在職中は職務上課せられている法的制度的原則と服務規律をきちんと守って職責を全うし、その上で定年退職する。退職すれば自由人となる。
 田母神氏も退職して自由人となり、これまでのような縛りがなくなって自由にあちこちで自説を振りまいている。たとえそれが政府方針・政府見解と相容れないものであっても退職した今なら文句ない。
しかし、彼は在職中に、そのような(政府見解と相容れない)自説を、その職務権限で、隊員教育(講義・講話など)にさいして講じ、或は自説に近い考えをもった講師(桜井よし子氏、井沢元彦氏、八木秀次「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長ら)を招いて講じさせた。またその自説を隊内誌に書き、隊外(民間企業アパグループ)の懸賞論文にも書いて最高賞に選ばれる(アパ社のホームページに公表、防衛省詰めの報道各社に配布)におよんで一躍注目をあびることとなったのである。
 本来なら懲戒処分になってもおかしくないところを政治状況から幕僚長解任(更迭)―解任理由「政府見解と明らかに異なる意見を公にすることは航空幕僚長として不適切」(浜田防衛大臣の言葉)だから―だけで済まされ、その後間もなく定年(繰上げ)がきて普通に定年退職(退職金はそのまま)。うまくやったものだ。
 防衛大臣それに麻生総理も、田母神氏の論文は「幕僚長として不適切」という言い方をしているが、それは論文を「公」にしたことが不適切だとしているのであって、必ずしも、田母神氏の主張そのものを不適切とは捉えていない。そこに問題があるのだ。
 ジャーナリストの田原総一朗氏は(「月刊現代」09年1月号に)、「自民党議員の大半、そして自衛隊幹部たちは、田母神論文に違和感を覚えておらず、むしろ常識と捉えているようであった」(「自民党の中堅幹部の数人、そして自衛隊幹部たちにも匿名を前提に確かめた」)と書いている。

(5)とんでもないか、もっともか
 1970年11月、三島由紀夫は同志(「盾の会」会員)を率いて、東京の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入り(総監を監禁)、憲法改正のクーデターに自衛隊の決起を呼びかけたが、誰も乗ってこず、「お前らは憲法を守る自衛隊になった」と叫び、空しい失敗に終わって割腹自殺をした。
 田母神氏の今回のことを一種の「言論のクーデター」と評する向きも(田原総一朗氏など)あるが、それに共鳴している人は、隊員その他、はたしてどれだけいるのだろうか。
 田原氏が司会する討論番組「朝まで生テレビ」は11月29日この問題をテーマにやっていた。
 田原氏は、田母神氏の言説に、『とんでもない』という考えの人と『当然だ』と考える人が分かれ、後者はじわじわ増えている、という意味のことを述べていた。
 出演者は西尾幹二―「つくる会」の元会長、水島総―脚本家で映画監督、潮匡人―元防衛庁三等空佐で幹部学校の講師にも、花岡信昭―元産経新聞論説員で今回の懸賞論文審査員、森本―拓大海外事情研究所長、沙音里―元自衛隊陸士長でシンガーソングライター、姜尚中―東大大学院教授、小森陽一―東大大学院教授で9条の会事務局メンバー、田岡俊次―軍事ジャーナリスト、平沢勝栄―自民党国会議員、浅尾―民主党国会議員、井上―共産党国会議員、辻元―社民党国会議員。
 
 番組は深夜、未明まで長時間「激論」が交わされる討論番組。
 その中で、姜氏は「70年代、三島事件をモデルにした、三島のシンパ(同調者)の自衛隊員と上官との話がある。その三島シンパの自衛隊員が「我々は国のため命を捧げるにもかかわらず、なぜ日陰者の身なのか、と。それに対して上官は何と言ったかというと、「日陰者でいいではないか。俺たちは日陰の身を甘んじるところに我々のプライドがあるのだ。自衛隊が日陰の身である時に、はじめて日本は平和だ。それでいいじゃないか、と。・・・・(私は)それでいいと言っているわけではないが。」と。
 これに対して水島氏は「それでは(日陰のままの存在)では、自衛隊員は命がけで国家を守ることはできないと思う。日本という国―よく国民の生命と財産を守るのが軍隊だというが、一番大事なのは国家としての主権・独立―こういったものをきちんと守る。そのためには、やっぱり自衛隊員あるいは私は軍隊と考えたいと思いますけど、こういう、命がけで守ってくれる人たちが、やっぱり尊敬されなければならない。」
 元陸士隊長の沙音里氏は「災害とか、そういうところで助けを求めている人を助ける、そういうことを、もっと下の者は重んじていると思うんですね。」と。
 彼女は、女子アナの「中途半端か、徹底的にやるべきか、という自衛隊の話し、どう思われますか」という質問に対しては、「うーん、そうですね、隊員はもっと単純に国民として国民を守ると考えていると思います」と。

 西尾氏や水島氏・潮氏、花岡氏らの田母神支持・同調論が批判論に対して説得力があったとは全く思えなかったが、番組の最後に見せた視聴者からのアンケート結果は次のようなものだった。
  「田母神発言に共感できるか?」yes 61% 、no 33%
  「自衛隊の存在を憲法に明記すべきか?」yes 80% 、no 18%

 田原氏「だから『分岐点』だと言った。(西尾氏に向かって)満足?」
 西尾氏「満足というよりは当然の結果が出たという感じですね」
 姜氏「世論全般かどうか分からない・・・」

 田母神氏は参議院における参考人招致の場で、「ヤフー・アンケートでは58%が私を支持しております」と胸を張って質問に答えたものだ。
 しかし、週刊文春11月27日号によれば、そのアンケートは「ヤラセだった」という。その記事(「田母神支持『ヤフー・アンケート』はヤラセだった」)には、次のように書かれている。
 まず、田母神氏に近い人物(「友人」)から指示メールが出されて「田母神幕僚長を断固支持し、その輪を全国に広げていかなければならない。」と。それを受けたあるブログ主宰者が「田母神幕僚長の論文についてのアンケートを下記でやっています。・・・・どんどん投票しましょう」とメール(投票先のURLを指定)。それを受けた人は「田母神幕僚長支持アンケートにご協力を」と書き込んで転送。
 ITに詳しいジャーナリスト森健氏によれば「今回はネット上で広く、田母神氏支持へ協力を要請した痕跡があり、偏った意図が窺えます」とのこと。
 「朝まで生テレビ」の上記のアンケートは、どうだろう。
(6)歴史認識の公式見解
 「日本は今、戦後の重大な分岐点にさしかかっている」と田原氏は言う。
 志方氏は、「首相が交代するたびに『村山談話を踏襲します』としか言わないのはだめだ。たとえ踏襲するとしても、改めて自分の歴史観として読み上げたらどうか」と書いている。
 東大准教授の林香里氏は(11月20日朝日新聞「私の視点」に)、政府は、「いまだに政府としての歴史認識を語ることを避けている。」「メディアは・・・・公式見解を出すように首相に迫るべきだ。」(「誤った見解は正しい見解が出されないかぎり修正されない」し、「田母神氏を支持するゆがんだ世論は放置されてしまう。それどころか、『ひょっとすると首相も閣僚も心の中では田母神氏の主張に賛成しているのでは』という疑念も広がりかねない」)と。
 林氏は、「歴史認識は特別な政治的アジェンダ(議題)として政府と国民を共有すべきだ」とも書いている。
 政府も国民も、戦前から戦後・現行憲法制定にいたるまでの歴史の総括をこれまできちんとしてこなかったところを、今あらためて行い、きちんとした歴史認識を共有すべき時だ、ということだろう。

 


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