(1)朝日新聞の「声」に「平和教育」について二つの投稿があった。①「ロシアによるウクライナ侵略という事態を受け、従来の平和教育に疑問を感じるようになりました。」「戦争は絶対いけない」、「しかしウクライナのように平和を願っていたとしても、他国から一方的な侵略を受けることもあります。降伏しても虐殺される場合もあります。」「戦争はなぜ起きるのか、どうすれば防げるのか。たとえ侵略されても、いかなる場合にも、戦争は否定されるべきか。ウクライナ国民が徹底抗戦することをどう考えたらよいか。」
②「『もしミサイルが落ちたら』『他国が攻めてきたら』その時どうするのか」「武器そのものを否定する『理想的平和』に対して、武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』を唱える声は、いまだ教育界ではタブーに近いような気がします。『戦争=悪』であるけれども、平和を維持するためにはどうすればよいか。」と。
これらは、ウクライナ国民が徹底抗戦する様子を見て、「平和を維持するためには」「武器そのものを否定する『理想的平和』よりも、武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』の方が大事だという考えに傾いてきた、ということなのでは。この投稿者に限らず国民世論もその方に傾いている向きが多くなってきているのだろう。後者(「武器を手に取りつつも平和を」)は要するに「防衛力に依拠した平和」であり「軍事的安全保障政策」「軍事的抑止力による平和」にほかなるまい。
はたして平和維持、恒久平和実現には、どちらが正解(真理)なのだろうか。
「武器そのものを否定する『理想的平和』」というのは、日本国憲法の9条(戦力不保持・交戦権否認)がそもそも求めている平和であり、それに対して「武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』」の方は、歴代政府が採ってきた再軍備・「自衛隊と日米同盟」による安保政策で、その方向を次第に強め、現在岸田政権が、ウクライナ戦争に影響されてというか、それに乗じてというか、さらに一段と強めようとしているのが、その『現実的平和』政策なるものなのでは。「平和」とは、戦争、その危険・脅威・恐怖がなく安心して暮らせる状態。
「理想」とは、理性によって想像できる完全・最上の状態で、空想・夢想とは異なり実現可能性があるもの。「完全・最上の状態」となると、とても至難の業で見果てぬ夢と諦めがちだが、「為せば成る」(やればできる)可能性はあるのであって、追い求めて然るべきもの。
どの国にも勝る無敵な兵器と軍備を保持するとなると至難の業だが、「戦力不保持」「戦争放棄」なんて、ただ軍備を持たない、戦争をしない、というだけのこと。その気になりさえすればたやすくできることなのであって、9条は勇気と覚悟を要する至難の業で「武器そのものを否定する『理想的平和』」だというのかもしれないが、それは不可能でもなんでもないわけである。
「現実」とは、現に存在し展開しているもので、自然現象は自然法則に則って生成・展開している、一方人間の社会現象は基本的に社会法則に則って生成・展開している。それらは人間の理性によって捉えられ、理性によって予め想像・想定できる(その点で、哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と)。現実にはそれ以外に想定外に(思いもよらずに)偶然発生したり、理性によらない感情に動かされ、或いは恣意(気まぐれ)によって行為したりすることから現出する事象も含まれる。
人間には理性・感情とともに自由意志があり、恣意(気まぐれ・わがまま)によって、法則からはずれた不条理な(不合理で、道理からはずれた)現象が人間社会には生じる。
その最たるものは飽くなき欲望による自然環境破壊であり、戦争(殺傷・破壊)による人間社会の破壊である。戦争は、人間が集団と集団(国と国)の対立に際して、武器を作り出し、軍備を持ち合うことによって行われるようになり、双方の支配権力・政権の都合・思惑・思い付きによる作為・措置など既成事実の積み重ねがあり、それに集団の感情(国民感情)が付け加わって敵対し、遂に激突して始まる。憎悪・殺意に駆り立てられながら戦闘・殺傷・破壊を繰り広げるいうち、理性は失われて止めようがなくなり、停戦・和平は困難を極め、休戦はしても講和、平和の完全回復はいつまでたってもできなくなってしまう(ウクライナ戦争は1年経ったが、いつまで続くのか。朝鮮戦争で北朝鮮と米韓の間では休戦状態にはあるものの講和は未だ。それに日本とロシアとの間では第2次大戦後、戦争状態は終結し国交回復はしているが、平和条約は未だに結ばれてはおらず、北方領土返還は未だ)。それが現実なのだ。
つまり「武器を手に取りつつも平和を掲げる『現実的平和』」つまり軍事(抑止力・対処力)に依拠した平和というのには矛盾が伴い合理性に欠け、脅威・恐怖と背中合わせで、決して安心して暮らせる状態つまり平和とはなり得ないということだ。
武器・兵器・軍備・軍事同盟は「抑止力」「力による平和」のためのもの、などといっても、それらは、結局は戦争、或いは武力による威嚇のための手段であり、決して戦争・武力行使に無縁ではあり得ず、それに繋がってしまう可能性が付きまとうのであって、そんなものを持ち合って安全だとか、平和だとか、それで安心できるなんてあり得まい。現にウクライナ戦争、それに台湾有事とか朝鮮半島有事の危険を見れば分かりきったこと。なのに、どの国も日本も武器・兵器・軍備を持ち合い、米欧NATOなどは武器供与・軍事支援はしても、戦争を止めようともせずに長引くままに任せている。
要するに今、現在の世界(現実の世界)―(ウクライナで)戦争が起き(エネルギー危機、穀物・食糧危機などその影響が世界に及んでいる)、或いは戦争が起ころうとしていると(「台湾有事は日本有事」だとか「新しい戦前」だとか)思われていて不安に包まれており、「現実的平和」などというが、それは「かりそめの平和」にすぎず、本当の平和ではない。。「たとえ侵略されても、いかなる場合にも、戦争は否定されるべきか。ウクライナ国民が徹底抗戦することをどう考えたらよいか」とのことだが、自衛戦争・抗戦は肯定されるべきだというのだろうか。日本は「先の大戦」では「鬼畜米英」に対する「聖戦」と称して「一億玉砕」の徹底抗戦にも何の疑問も持たなかったが、そんなのはもう御免だ。戦争は武器・兵器・軍備を持ち合うから起こるのであり、戦争はいかなる場合にも否定されるべきもの。それが日本国憲法9条なのだろう。(1946年6月新憲法草案が議会に上程されて質疑応答が始まった、その中で共産党議員が侵略戦争と自衛戦争を分け、侵略戦争を否定することを主張したのに対して、吉田首相は「国家正当防衛権による戦争は正当なり賭せらるるようであるが、私はかくのごときことを認ることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認ることが偶々<思いがけず>戦争を誘発するゆえんであると思うのであります」と答弁。この答弁は1954年、政府が自衛隊合憲を打ち出すまでは、9条解釈の政府解釈としてひろく一般に受け止められていた。)
日本国憲法は、過去の戦争(アジア太平洋戦争・第2次大戦)における人道に反する未曽有の惨害を二度と諸国民に及ぼすことのないようにとの反省の上に立って、武力・軍備を保持せず、世界に恒久平和を実現すべく、国(政府)に非軍事・不戦を義務付けたものであったが、それは、連合国によって懲罰として押し付けられたなどというものではなく、日本国民自らと世界諸国民の理性によって与えられた憲法{*下記参照}であり、それは現実つまり理性的現実に即したものなのだということである。この平和憲法・9条は、実現不可能・非現実的な「理想的平和」を掲げたなどというものではなく、理性的現実に依拠した実現可能な理想的平和なのだ。平和・安全のために、武器・軍備・軍事力など持たずに、それに代わる何を持てばいいのかって?それは、これまでどの国も手にしたことのない何か格別なものをAIなどによって考案・発明して保持することが必要となるわけではない。何もいらない。ただそれら(軍備)を放棄して何も持たずに、丸腰になればいいだけのことなのであって、その気になりさえすれば、至極簡単、直ぐにでもできる実現可能なものなわけである。しかも、それによって隣国・他国に「安心を供与」できる。
{*GHQ(アメリカを主とする連合国総司令部)総司令官マッカーサー、同民生局員の憲法草案(骨格)作成スタッフ(ベアテ・シロタら)、連合国極東委員会、首相幣原喜重郎、その後を継いだ吉田茂、憲法草案(政府案)確定、鈴木安蔵ら民間の憲法研究会案、戦後初の男女20歳以上の選挙で選ばれた帝国議会議員(審議・修正協議、両院とも圧倒的多数で可決)、世論調査では賛成85%、反対13%、不明1.3%、9条の戦争放棄条項について必要と答えた人70%、必要でない28%、9条に修正を加える必要なしが56%、自衛権を保留するよう修正すべきが14%など。彼らの理性がこの憲法には込められていると考えられる。}また、軍事同盟(日米同盟、NATO或いは準軍事同盟たる日米豪印4国のQUADなど)
を組んで、特定の国を仮想敵国にして包囲したりするから、その国に脅威・不安を与えることになるのであって、そんな軍事同盟を組んだりはしない。国々と関係を結ぶなら、ASEAN地域フォーラムのような東南アジア諸国以外に日韓米中ロに北朝鮮まで加えて、どこかの国を仲間外れにするようなことをせずに包摂する(仲間に加える)、そうすることによってどの国にも「安心を供与」する、そのような仲間づくりをすればよいのだ。
いずれも実現可能な不戦・非軍事の「理想的平和」の方法なのでは。(2)「『平和』だけではなく、『正義』を」(朝日「日曜に思う」2月26日国末憲人)
ウクライナの人々―世論調査から見て―「即座に平和を得るよりも、戦う道を選ぶ」「求めているのは『正義』」「市民の怒りが、生命を賭しても『正義』を望む意識に結びついている」と。
しかし、ロシアの人々の正義は?大統領は「極悪人」でも、国民は別だとでも?
戦時中の日本人は「鬼畜米英」に対して「正義」で、その戦いを「聖戦」と称したが、作家の井伏鱒二は「黒い雨」の主人公の日記に「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く終わりさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい」と綴らせている。
米欧は民主主義国で「正義の味方」、中ロ・北朝鮮は専制主義で「正義の敵」?
ベトナム戦争では米軍はベトナムを共産主義から守る「正義の戦い」を称し、ベトナム人民軍も米軍の侵攻に対する解放戦争―「正義の戦い」と称して米軍撃退を勝ち取ったが、これはいわば「正義」対「正義」の戦い。
戦争し合う(交戦する)どの国も大義を掲げ「正義」を振りかざす。そして自国が保持する武器・兵器も正義のためのものとして軍備を正当化。北朝鮮は核・ミサイルをアメリカの核攻撃に対する「抑止力」として正当化し、それに対してアメリカは自国の核兵器は国連で中ロ英仏とともに5大国に認められているものであって、それ以外の国々の核保有は核不拡散NPT条約に反するとして非難・制裁を加えている。
国々はそうして兵器や軍備を持ち合っているが、国家間で利害対立・紛争があれば、それぞれ自国エゴ(自国優先主義)が働き、「正義」と武器・武力を振りかざして激突すれば戦争になり、敵愾心・憎悪に駆られ殺傷・破壊が展開されて双方とも惨害を被る。ベトナム戦争では、死者は、ベトナム人民軍側は(勝利はしたものの)軍民合わせて100万人台、米兵の戦死者は5万人台。ウクライナ戦争は、これまで、ウクライナ軍の戦死者は(同国政府側からの情報では12月までで)1万3000人台、民間人の死者は(国連高等弁務官の発表で2月までで)8000人台、ロシア軍の戦死者は(イギリス国防省の発表では2月までで)4万~6万人台。
要するに「国々がそれぞれ『正義』を掲げて国民が武器を手に取って戦い、殺傷・破壊し合って生命を犠牲にする」それが戦争なのだ。いわば「国々がそれぞれ自国に『正義』があり、武器・軍備を持ち合っての戦争」。但し国連憲章にあからさまに違反する侵攻など相手国はもとより多数国から「正義」とは認められない違法行為なら許されず、又は交戦法規で禁止されている残虐行為や無差別攻撃などの違法行為なら「戦争犯罪」として許されないが、そうでない限り(その範囲内であれば)自衛・反撃戦争なら個別的にも集団的にも容認され、兵士(戦闘員)なら何万人殺してもかまわない。つまり殺傷・破壊行為とその武器・兵器・軍隊の保有・使用も軍事同盟も容認されている。しかし、それでいいのだろうか。戦争ルールさえ守ってやれば、殺人兵器を持ち合い、殺し合って人命を犠牲にしても、それが容認されるなんて。戦争(殺し合い)すること自体が犯罪なのでは先に仕掛けた方であれ、仕掛けられた方であれ、侵略戦争であれ自衛戦争であれ、戦争はすべて禁止、核兵器など大量破壊兵器や残虐兵器だけでなく兵器・軍備はすべて禁止・全廃すべきなのではないか。
国のリーダー(権力者)が掲げる「正義」というものは、それぞれの自国・自分の立場・都合に応じた相対的なものであり、どの国の誰もが認める絶対的な正義ではない。「正義」というものは、とかく、戦争に際して自国の戦争目的・戦争行為の正当性を国内外にアピールし、自国民或いは同盟国を戦争に駆り立てるための「大義名分」となる便法・口実として活用され、武器や兵器とともに戦争に不可欠な、いわば道具に過ぎない。それに対して平和は生命が犠牲にされることも、生存が脅かされることもなく安心して暮らせること。人間誰しも、どの国の国民も、一人一人にとって一番大切なものはといえば生命であり、生命を全うすること、生きること、つまり生命・生存こそが絶対的最高価値なのでは。そして戦争によって犠牲にされ脅かされることなく安心して暮らせるのが平和。だから平和は生命とともに一番大事なもの。それが、「聖戦」だとか「正義の戦争」だからといって生命を犠牲にしてもはばからないのは本末転倒というものだろう。理性(理屈)だけで考えればそういうことになるのだが。
しかし、人間には感情―プライド・意地・怒り・憎悪、或いは心理―対抗心・闘争心・復讐心・殺意・「攻撃欲動」「死への欲動」といったものあって、その方が理性より先行し、勝ってしまうという場合があるわけである。ウクライナでは「市民の怒りが、生命を賭しても『正義』を望む意識に結びついている」というのもそれだろう。そういったものを掻き立てる、それが戦争なのだ。
だから戦争してはならないのだ。場合によってはやってもいい、自衛戦争ならいいとか「正義の戦争」ならいい、などといった相対的なものではなく、戦争自体が不正義なのである。
(3)それに対して「武器・武力を持たず、戦わず、諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持する平和」。そんなのはユートピア、「お花畑」の世界の話だというが、誰しも危険・恐怖・不安のない平穏・無事・安全・安心を求め、そのためには誰もが(交通ルールで信号を守るものと信じることによって、安心して歩行・運転できるように)ルール(国際法)を守り、約束(条約)を守るものと信じて争わず、自分(自国)もルール・約束を守ることによって安全と生存を保持しようとする、そんなことは当たり前の理屈で、格別のことではなくユートピアでもなんでもあるまい。それに諸国民と信頼関係を結んで敵対せず、安全・安心を確保するということだ。
この憲法を制定する直前まで中国とは15年にわたって、米英とは3年8ヵ月にわたって戦争した最悪の敵対関係にあった。それがアメリカとは「信頼関係」以上のベッタリ親密な関係を続け、そのアメリカが目の敵にし始めた中国それにロシアとは再び関係悪化。ロシアはウクライナとの間に紛争があり、ウクライナが加盟しようとしているNATOの盟主アメリカをはじめとする加盟国の「公正と信義」に対する不信から、話し合い・交渉を断念してウクライナに軍事侵攻を強行した。それに対してウクライナは抗戦、NATOが武器を供与して軍事支援。西側諸国に日本も加わってロシアに対して経済制裁を行っている、というのが現在進行中のウクライナ戦争。また朝鮮戦争以来アメリカに対する脅威から核実験やミサイル発射実験を度々強行して国連安保理の非難・制裁決議を受けている北朝鮮のような国もあるし、中国のようにアメリカに迫る経済・軍事大国にのし上がり、覇権主義が警戒されて、アメリカが主導し日本も加わる「対中包囲網」の軍事的圧力を受けている国もあるわけである。
しかし、だからといって、どの国も信頼がおけないというわけではないだろう。
ただ、国連憲章は現在に至るまで各国の武器・兵器・武力の保持・保有を容認しているので、どの国も軍備を持ち合っている。そのような中で、国によっては公正と信義に不信を抱き、交渉・協議(話し合い)を尽くさず断念して、武器・武力に訴え、力ずくで決着をつけようとして、戦争に走ってしまいがちとなる。(30年前アメリカのルイジアナで起きた日本人留学生射殺事件―ハロウィーンで仮装して訪問した家を間違えて、入ろうとした玄関先でその家主から射殺された。その家に銃など置いてさえいなければ、ろくに訳も聞かずに、いきなり発砲したりはしなかっただろうに)互いが武器・武力さえ持たなければ、武力に訴えたりせずに、あくまで話し合い、徹底対話・交渉の方に専心できたものを、武器・武力があるばかりに戦争を仕掛け、仕掛けられた方は「徹底抗戦」に囚われて、いつ果てるともない戦争になってしまっている。それがウクライナ戦争である。
日本人にとっては、どうなんだろう。いくら「諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持」しようと思っても、信頼のおけない「ならず者国家」がある限り、武力の保持・軍備が必要であり、戦争を仕掛けられたら、徹底抗戦して「正義」のために生命を賭して戦い、戦争ルール(戦時国際法)をしっかり守って「ならず者」の敵兵を殺せるだけ殺して降伏させ、勝利が得られれば、それで万々歳だとか、それで(戦争して殺し合って)「万歳!」などと叫んで喜ぶとすれば、その方が「お花畑」。又、「諸国民の公正と信義に信頼」なんて、そんなことは出来やしない、力(軍事力)こそが安全と平和の拠りどころだなんて、そんな平和に安住していられるんだとすれば、それこそが「お花畑」なのでは。日本国憲法は「日本国民は諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持しようと決意し、戦力を保持せず国の交戦権を認めず、国際紛争解決の手段として戦争・武力による威嚇・武力行使を放棄する」ことを定めた。それは、いわば「危険物(軍備)を持たない、危険なこと(交戦)はせずに安心供与、それだけのこと」なのだ。
「諸国民との公正と信義に信頼」といっても利害の対立・紛争はある。しかし、その解決はあくまで話し合い・交渉に徹し、どうしても折り合いつかない場合は国際司法裁判所などに仲裁・裁決を求める。相手が軍事力で威嚇して押し切ろうとしても、それには応じない。軍事侵攻してきた場合には海上保安庁の警察力で対応し、可能な限り阻止・排除に当たる(それが可能な対応能力の量的・質的な拡充は必要になる)も、応戦・反撃など戦争はしない。違法な侵攻には直面した我が国に対しては、公正と信義に信頼を寄せる諸国民から支援が得られ、侵攻した国は非難・制裁を受け、かえって損失を被ることになる(だから、結果はそうなると分かりきった愚挙を敢えて犯すような国などあり得ないといっても差し支えあるまい)。
国際司法裁判所の裁決に際しては、それに従わせる強制力として常設の国際警察軍も必要となる。現状の国連にはそれが出来ていないが、早急にその創設に取り組まなければならない。
将来的には、これらも含めて(可能な限り我が国が主導して)国連の抜本的改革(国連の現状変更)が必要となる。国連憲章を我が国の憲法9条のように改正して、自衛戦争であれ何であれ、いかなる戦争も禁止し、どの国も「戦力の保持」を禁止し、軍備を全廃する方向に。そうすれば戦争はなくなるし、そうしなければ戦争はなくならない。
現在の国連は、各国が軍隊を持っていることを前提にして、集団安全保障と称して「侵略行為」に対する軍事制裁に際して国連軍に加盟国が兵力を提供、軍隊派遣を要請するとか、個別的・集団的自衛権を認めて自衛戦争を容認するやり方を採っているが、各国に軍備・軍事同盟を許している限り戦争はなくならない。なぜなら、どの国も自国の軍隊と軍事行動を不正な侵略や武力行使のためなんかではなく、あくまで「正義」・「自衛」のための軍隊であり、先制攻撃も、そのためのやむを得ない軍事行動なのだと自認・自己弁護して憚らないからである。
かつて日本が行った満州事変に始まる日中戦争、それに真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争も、アメリカがやってきたベトナム戦争やアフガニスタン・イラク侵攻、そして今やっているロシアのウクライナ戦争など、どれもこれも「正義」と「自衛」の名のもとにやってきたし、やっているのではないか。(4)ところで、国際司法裁判所といえば、本県の山辺町出身の人物で、かつてその裁判所長に就任した安達峰一郎という人物がいる。
{その経歴を見ると、1905年、日露戦争のポーツマス講和会議の全権委員随員
1919年、第1次大戦のパリ講和会議の全権委員随員
1920年、(この年、国際連盟 設立―新渡戸稲造が事務次長の一人に
選ばれ以後7年間在任)
常設国際司法裁判所規程の起草委員
1921年、国際連盟第2回総会から、以後第10回総会まで日本代表
1929年、国際連盟理事会議長
1930年、常設国際司法裁判所判事
1931年、 同 裁判所の所長に就任(この年満州事変勃発)
(1933年、日本が国際連盟から脱退)
1934年、死去 }
当時は常設国際司法裁判所と称され、第1次大戦後に(オランダのハーグに所在)創設されて、その4代目の所長に就任。ところが折悪しく当時日本は満州事変を起こして国際連盟を脱退。3年の任期を務め平判事に戻ったが、連盟脱退問題の悩みから体調を崩し、心臓病を発症し、アムステルダムの病院で亡くなった。その時オランダは国葬の礼をもって国際平和に尽力した功績と栄誉を称えたという。新渡戸稲造は国際連盟の事務次長、安達峰一郎は連盟総会では日本代表として重なる部分があるが、新渡戸の著書『武士道』には、武士道を体現した人物の一人に勝海舟が紹介されているが、その中で、勝海舟は刀を一度も抜いたことがなく(決して抜かないように刀の「つば」と「さや」を紐で結わえていた)、「負けるが勝ち」をモットーとし、西郷隆盛との談判で「無血開城」を決した。刀をむやみに抜くべからず、「戦わずして勝つ」。これこそがサムライだというわけ。
サムライはかくあるべし。日本人の国際貢献は、かくあるべしで、戦争など軍事貢献ではなく、国際平和貢献でなければならない。中村哲氏は紛争中のアフガニスタンで医療活動とともに荒廃した農地の回復のため灌漑用水建設事業に長年携わり、対テロ戦争の最中にもかかわらず現地で動き回り、その途上テロにあって亡くなった。サムライ日本人はかくあるべし、なのでは。(5)いずれにしても「武器を手に取りつつも平和を掲げる現実的平和」などあり得ない、ということだ。武器(殺傷用武器)を手に取ったら戦争(殺し合い)になるではないか。
人を殺したり傷つけたりしない武器なんてあるだろうか、人を殺さない戦争なんてあるだろうか。戦時国際法・交戦法規・国際人道法などがあって、残虐兵器や無差別攻撃の禁止、非戦闘員・文民保護・捕虜・傷病兵の保護規定などがあり、それを守ってやりさえすれば、侵略戦争でない限り、自衛戦争ならやってもいい?民間人・非戦闘員を巻き込まず、民間居住区域・非軍事公共施設のない荒野の戦場だけで戦闘をやるなんてできるの?非戦闘員なら何人殺したっていいの?戦闘員でも不必要に苦痛を与えずに殺すのなら殺してもいいわけ?核兵器でも低エネルギー放射ならいいの?「きれいな戦争」・「フェアな戦争」なら、いくらやってもいいの?
「武器を取りつつも平和」なんてあり得まい。それこそ非現実的平和。矛盾―どんなに優れた「矛」に対してもはね返して防ぎきれる「盾」なんてないし、どんなに優れた「盾」に対しても突き抜くことのできる「矛」なんてあり得まい。
♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)をでたからは 手柄たてずにいられよか・・・・・東洋平和のためならば なんで命が惜しかろう♪
かつてこんな軍歌(古関裕而作曲「露営の歌」)がったが、「平和のための戦争」「平和のための武器・軍備」なんてあり得ないし、恒久平和(持続可能な平和)のためには「戦力不保持・軍備全廃」「不戦・交戦権否認」しかあるまい。