米沢 長南の声なき声


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森友学園問題は「道義国家」の一大事
2017年04月01日

 この問題は、同学園への国有地払下げに関して、政治家或は首相夫人の口利きや関与は明確に有ったとは言えず、法的には違法とは言えないから、と強弁はしても、或はその通りだとして違法ではないとしても、異例の計らいと法外と思われる値引きが行われていることは事実であり、同学園側から政治家や首相夫人に依頼し(助力を頼み、それに直接応じてはもらえなかったとしても)期待があったことは事実であり、それが期待通りの結果に結びついていることも事実なのである。当局(財務省近畿財務局)の学園側とのやりとりを記録した文書は廃棄されて、物的証拠(直接証拠)は残っておらず、忖度の有無など分かりようがないとしても、状況証拠(間接証拠)は認められる(事実の証明としては、直接証拠よりは弱く、立件などには難しい、といったことはあるとしても)。夫人付きの政府職員が、学園理事長の要望(首相夫人の携帯電話に留守電メッセージ)に応じて財務省に照会(問い合わせた)、その結果「現状では希望に沿うことはできない」との同省側の回答を学園理事長に伝えた、そのファックス文書はあるも、首相側は、その内容は「ゼロ回答で、忖度していないのは明らかだと」としている。しかし、そこには首相夫人が介在しているのは動かしがたい事実だろう。学園理事長が建設予定の小学校名誉校長を引き受けた首相夫人から100万円の寄付を受けたという証言に対しては、夫人からの理事長夫人へのメールには「記憶にない」とあり、首相側は全面否定、「ないものないのであって、それは証明しようがない『悪魔の証明』」であり、挙証責任を学園側に着せている。しかし、名誉校長を引き受けていたことは事実であり、「名誉校長たる者、その学園に寄付するのは当たり前であり、それ自体違法なわけでもあるまいし、寄付しないと言う方がおかしい」と思うのが常識だろう。

 この問題は単なる個人のスキャンダル(不祥事・醜聞・恥)の話ではあるまい。国家の一大事だ。
稲田防衛大臣は「教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである」と発言した、その「道義国家」とは事が違うが、現行の日本国憲法が前文に掲げる「我らは、いずれの国家も自国の事のみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」という政治道徳に反する一大事なのだ。なぜなら、「自国の事のみに専念して・・・・はならない」とは、自分の事、或は自分の身内や親しい人・仲間・上司の事のみに専念して、公益・国益・民益(国民の利益)を害してはならない、ということだからである。そして、その道義的責任が問われる問題の根源は、政権与党の体質(忠君愛国的「道義国家」を目指す日本会議の議連に加盟する議員の9割が自民党、首相はじめ閣僚は公明党以外ほとんどが同議連に所属)と官邸主導の官僚(各省庁の幹部)人事という構造的なものからきているのだからである。
 そのような政権と官僚体制の下では、首相・大臣に対する官僚それにマスコミとの間で忖度が働き、官僚もマスコミも或は裁判官も庶民の民意よりも首相や政権与党有力政治家の意向を気にし、権力奉仕に傾き、公益(民益)をないがしろにする傾向を持つようにならざるをえない、それが大問題なのである。

 尚、 核兵器禁止条約に日本政府は反対、交渉にも不参加を決める(これに対して国際NGO[核兵器廃絶国際キャンペーンICANの事務局長いわく「日本は唯一の被爆国として核廃絶の努力を主導する道義的責務がある」と)。
 高浜原発を大津地裁が運転差し止めにしていたのを、大阪高裁が覆して再稼働を認める。
 このような 日本政府や裁判所の判断がまかり通っている限り、この国が真の(普遍的な)「道義国家」と称して恥じない国とは到底言えまい。


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