米沢 長南の声なき声


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政治問題は話題にしないのが賢明?
2019年09月02日

 長らく交友関係を結んできた酒飲み友だちの間柄だが、話題が当方にとっては、一番の関心事―このブログにあるような話題は、「政治の話になると酒がまずくなるから話題にしないようにしよう」となって、話題からはずされ、どうも「あたりさわりのない」ような話ばかりになってしまってる。それが、たまたま話のなりゆきから日韓問題に話が及んで、とうとうぶつかってしまい、「ケンカ別れ」。これで絶交になるのか―まるで日韓関係と同然。
 そこで色々考えた。
 思想傾向が右(保守)系か左(リベラル)系か、どっちか同系で気心の知れた人同士なら政治問題を話してもどうということはなく、それどころか(SNSなどで)「そうだ、そうだ」「いいね、いいね」と同調し補強し合って、中には益々強硬・過激になったりしがちだが、左右ごっちゃに入り混じって談話・対話して政治問題に話が及ぶと、とたんに場がシラケたり口論になり、酒席の場では険悪なムードになりケンカになったりする。 
 酒を飲むとこの種の話題(政治談議)は感情が激し、冷静な話ができなくなって、口論になってしまうしまいがち。「酒がまずくなる」。確かにそうかもしれない。
 酒には「悪酔い」とか、かえって心身のストレスを悪化させる弊害がある。しかし、ざっくばらんに(オープンに本音で)語れて、ストレスを発散できるという効用もあるのだが。
 世間(この国?)では、「酒飲みの場で(職場の)仕事の話はしないようにしよう」とか、政治と宗教とプロ野球(対戦)の話は禁物(話題にしないこと)とされる。
 しかし、宗教やプロ野球の話はともかく、政治を話題にしないのは如何なものか。
 時と場合によっては酒席(冠婚葬祭・祝賀会・懇親会など)の場で、開催の趣旨にそぐわず場を壊すような話は控えるのが常道ではあろう。しかし、こと政治に関する限り、社会の全ての人々にとってどんな語らいの場でも自分の思い・考え・意見をオープンに本音で語り合うことは必要であり、大事のことである。
 民主主義はそのためのもの。自分も、その場で対話する相手も、或は交信する不特定多数の相手たち全員が主権者として思想・信条・言論の自由が保障されて参政権を行使しなければならない制度のもとにある限り、政治を話題にすることは必要不可欠なことであって、けっしてそれがはばかられるようなことがあってはならない。
 ところが、この国では、どうもそれ(政治を話題にすること)が敬遠される風潮がある。
それは国民性からくるのか?日本人はナイーブ(神経が繊細―「傷つきやすい」性格―傷つくのを恐れて、そんな話題を避ける)?古来から「村社会」における「和」―同調圧力の意識が強く、「和」を乱し排除されることを恐れて自主規制し互いに忖度し合う気風?だから「和」を乱して自分が傷つくことを恐れて、政治向きの話は極力控えようとするのか?
 いずれにしろ、人との会話で政治を話題にすることを避け、そこから関心をそらすという風潮が国民を支配している、それが問題なのである。それでは民主主義が成り立たない。
 日頃から、しょっちゅう政治を話題にすることによって政治の意識も知識も向上し、実のある主権を行使することができる。さもなければ民主主義などといっても、それは単なる「形式だけの民主主義」になってしまう。「国民的議論を」などと訴え(呼びかけ)ても、なんら実のない空論的かけ声にすぎないことになる。選挙の低投票率(先の参院選は48.8%で、政権与党である自民党の全有権者にしめる絶対得票率は16.7%、公明党票を合わせても23%に過ぎない。そのような政権、その首相を憲政史上最長政権たらしめている、その異常)、それはこの国の民主主義のこのような実態を示している。民主主義はまだまだ成熟しておらず、不徹底で、国民の政治意識・主権者意識・自覚がまだまだ低いと云わざるを得まい。政治の話になると引いてしまうとか、政治のことなど話題にしたがらず、関心が持てない、ということはそういうことなのだろう。
 この国の民主主義を、形式的な「お任せ民主主義」ではなく、もっと実のあるものに向上させなければならないと思うなら、その基礎的動因となる国民の間の政治談議を欧米並みに活発化を図り、市井での政治談議は避けるという悪しき風潮を廃することだろう。
 かくいう当方も、先日の失敗には懲りず諦めずに誰とでも政治談議を心掛けたいものだと思うが、それにつけても、その失敗を繰り返さないためには気を付けなければならない注意・心得・「鉄則」というものがある。それは次のようなことだろう。
 相手に対してリスペクト(尊敬の念)と友愛(寛容)の精神を貫き、けっして敵意を抱くことのないようにすること。アルコールが入ったからといって感情的に激することのないように、なるべく冷静を保ち、相手の意見や指摘・批判に対して逆批判・反論をしても、あくまで事実と論理をもって(それも「ロジハラ」―ロジカル・ハラスメント―相手の感情を無視して「正論」で攻め立てる―ようなことにならないように)し、エキサイトしても苛立って暴言(人格・人間性・プライドを傷つけるようなこと)は口走ることのないようにすること。議論が最後まで歩み寄ることなく平行線で決裂して終わっても、ケンカ別れはせずに、スポーツのゲーム終了時のように礼・握手を交わして分かれる、といったようなことを鉄則とする。
 なかなか難しいことかもしれないが、民主主義には主権者・国民間の政治対話は必要不可欠であり、それらの鉄則は対話・議論には最低限必要不可欠な原則なのではなかろうか。
 先の飲み会での議論で当方は「世代間の相違だろうな」とか「私的レベルの相違だろうな」などという言葉を吐いてしまったが、それらは「それを言っちゃお終いよ」というべき禁句で、相手に「上から目線」と受け取られ、心の中で「何を、えらそうに」と憤慨させる類の言葉だったな、とつくづく反省している。
 それにつけても、政治談議をタブー視する風潮が世の中を支配してしまっては、それこそ「民主主義はお終いよ」というものだろう。
 主権者・国民の間で政治対話・意見交換・意思疎通がなければ、みんな互いの間に自ら設けた「見えない壁」で仕切られた状態で、バラバラ分断状態になる。それは政権にとっては思うつぼで、反対する国民が数多いても、彼らが結束して大規模な反対運動を起こす心配がなく、政権は意のままに統治(支配)できることになる。そのような分断支配を許してはなるまい。
 

 


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