米沢 長南の声なき声


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安全保障には軍事的方法と非軍事的方法とで、どちらがベターか(加筆版)
2020年08月18日

<定義>
 「平和」とは―お互いに譲歩し、和解して、意思の対立そのものをなくして戦争の不安・恐怖から解放された状態。
 「戦争」とは―国家の意思を他の国家に強制する(意思を押し付ける)目的をもって武力を行使すること。
 「抑止」とは―戦争したいという相手の意欲を抑え込み、相手の力を使わせないようにこと。
 「解決」とは―相手が納得してリベンジする気が起きない状態で、意志の対立(火種)が無くなる状態。
 「国家安全保障」―自国の領土・政治的独立・国民の生命・財産を外敵の攻撃・侵略(とその危険)から守る。
 「人間の安全保障」―個々の人間の生命・生活・財産を守り、恐怖と欠乏からの自由・人権を保障する。
(1) 軍事的安全保障(他国の脅威を軍事的抑止力で抑え込んで安全を保持するやり方)
 折から地上発射型迎撃ミサイル(「イージス・アショア」)の(秋田と山口への)配備を技術的な問題で断念することになったのに際して「防衛に空白があってはならない」として、その空白を埋めるためにと、自民党内(国防部会と安全保障調査会)から敵基地攻撃能力を「相手領域内で弾道ミサイル等の阻止能力」と称して)保持しようという提言が出、安倍首相が安全保障戦略について新しい方向性を打ち出すと表明し、NSC(国家安全保障会議)で議論、9月中にも一定の方向性を示すことにしている。
 それに対して、「専守防衛」の原則を逸脱するものとの異論も出ているが、一方では、かつて1956年、当時の首相(鳩山一郎)が「座して自滅を待つべしというというのが憲法の趣旨とは考えられない。他に手段がないと認められる限り、誘導弾などの基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれる」と(内閣委員会で)答弁し、その後、歴代内閣でその考えが引き継がれ、実際は(日米の役割分担で、日本は守りに徹して、敵基地攻撃は米軍に頼ることとして)自らは保有しないものの憲法上は許されるとしてきた、その経緯から、北朝鮮などの脅威が高まっている今こそ敵基地攻撃能力を持つことを検討すべきだというわけである。
 世論は、NHK8月8~10日の調査では「領域内阻止能力を持つべきか」という問いに「持つべきだ」が50%、「持つべきでない」が27%、「わからない」と無回答合わせて23%。JNNの調査では「敵基地攻撃能力を保有すべきだと思ういますか?」という問いに「保有すべきだ」が43%、「保有する必要ない」が41%、「わからない」と無回答合わせて16%。いずれも「保有すべきだ」というほうが多い。
 敵基地攻撃(その能力を持つこと)が、はたして「自衛の範囲内」なのか、その前にそもそも武力の行使やそれを前提とした武力の保有が憲法(9条)上許されるのかだが、いずれにしろ、弾道ミサイル等を着弾前に撃ち落とすか、さもなければ発射を阻止するために基地を攻撃・破壊することは(数百ヵ所も山中の洞窟に隠し持つミサイル基地やそこから車両で移動する発射台を見つけ出すなど技術的に難しいのだが、それは別として)軍事作戦としてはあり得、軍事的合理性から見れば有効であろう。
 ところが、それは軍事の論理である。(相手の軍事攻撃を阻止・抑止するという軍事目的からすれば、破壊力・威力からいえば核兵器が最も有効なわけだ。又先制攻撃であれ奇襲攻撃であれ、その方が軍事作戦として有利か否かの問題。)軍事とは、対立する相手の国や勢力との間で利益・要求を力ずくで押し通すか、それを阻止するための武力による対決・作戦に際する諸事であり、戦い(そして勝つこと)が目的であり、敵対を前提とする。
 その安全保障は互いに相手を攻撃・警戒・牽制し合う敵として軍事力を備え、その攻撃を阻止・抑止することによって安全を図ろうとするやり方。それによって安全は得られても、たえず戦々恐々として不安と危険が付きまとう。
 抑止力といっても軍事的抑止力は、相手のそれに対して優位か均衡を保つことで効果を持ち、そのために互いに相手に対して負けまいと絶えず軍事力強化・拡充(軍拡競争に邁進)して止まない、その結果互いにかえって安全保障が危うくなり悪化してしまう結果となる(「安全保障のジレンマ」に陥る)。中国や北朝鮮が脅威だからと、それへの備え(軍備)を強化し、敵基地攻撃能力(米国から購入するF35Bステルス戦闘機やそれを艦載する空母化した「いずも」型護衛艦、長距離巡行ミサイルなど)を保有しようとする。それが中国・北朝鮮の脅威に対する「抑止力」のつもりでも、相手にとってそれは脅威となる、つまり、互いに「脅威には脅威で備える」ということになるが、そのような安全保障のやり方で安全・安心が得られるのか、反って不安が募るばかりなのでは。その敵基地攻撃能力の保有には兆単位の軍事費が必要となる。安全保障費として、それで費用対効果が得られるのかだ。
 その抑止力・軍事作戦として、核兵器など「皆殺し兵器」(無差別・大量破壊殺傷兵器)は許されないとしても、そのような殺傷兵器でなく、弾道ミサイルを撃ち落とすか、基地を破壊するだけの非殺傷兵器ならいいが、それだけで済ませることができるか、或いは正当防衛か緊急避難でやむをえず殺傷してしまうとしても相手はミサイル発射や基地に携わる将兵だけで、民間人を巻き込まないで済ませられるかだ。
 
 いずれにしても、それは暴力行為であり、多少とも人間の殺傷を伴うとすれば非道徳・非人道的行為に基づく安全保障、それが軍事的安全保障である。
 
(2) 非軍事的安全保障(諸国に対して不戦方針を貫き軍事を控え平和的方法によって安全を保持するやり方)
 「諸国民との協和による成果と我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることにないようにすることを決意」「恒久の平和を念願し、諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持」「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利を有することを確認」「いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、その法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務」とうたった憲法の前文と、不戦・非軍事を規定した9条は、まさにこの立場に立ったものであり、この非軍事安全保障こそが憲法の趣旨に即したやり方。
 「座して自滅を待つべしというというのが憲法の趣旨とは考えられない」というのはその通りだが、それは、利害対立・見解の対立・係争問題を抱える相手に対して、和解・妥協・譲歩など、あくまで双方納得の上での問題解決のため知恵を尽くし手立てを講じて、根気強い話し合い・交渉を尽くさなければならないということであって、そういった努力を尽くさずに唯ひたすら「抑止力」と称して軍備を強化し整えて、相手の要求や提案は突っぱねて強気で圧力をかけ、相手が切羽詰まって(弾道ミサイル等で)攻撃を仕掛けてくるのを「座して待って」迎え撃つか撃って出るか、などということではあるまい。

 宇宙科学者・名古屋大学名誉教授の池内了氏(『世界』10月号掲載の「戦争を抑止できるのは何か」)は、「国家による軍事的安全保障」(「軍事力による国家安全保障」としてもいいのではと思うが―引用者)即ち「軍事力による戦争の抑止」に対して「人間力による人間の安全保障」即ち「人間力による戦争の抑止」と称している。「人間力による」とは非武装の人間の理性と寛容の精神による平和的行動―国家間で紛争や対立や意見の齟齬があった場合、武力に訴えることなく、あくまで話し合い・説得・交渉・妥協など平和的な外交手段―(を駆使すること―引用者)によって解決を図り、「侵略される」という状況を一切招かないようにする(それが日本国憲法・平和主義の本来の趣旨)、ということであり、「人間の安全保障」とは個々の生命・生活・人権を守ることが最優先ということ

 我が国の政府・安倍政権は専ら(1)の軍事的安全保障の方に傾倒しているが、これら二つのやり方のうち、どちらが合理的で実効性があるのかだ。


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