(1)二分法と世論誘導
「大きな政府か、小さな政府か」とか、「平等社会か、競争社会か」とか、「郵政民営化に賛成か、反対か」即ち「郵政公社か、郵政株式会社か」という二分法で、「どっちがよいか」と問い、優っている理由として自由・活力・効率・緊張感・向上意欲・節約・低負担などの諸点をあげて、結局「小さな政府」「競争社会」「民営化」の方がよいと思わせる世論誘導的な問い方が、自民・民主などの政党とマスコミによって、よく行われる。
「小さな政府」「競争社会」「民営化」は、大企業・財界などにとっては、(政府からはビジネスチャンスを与えてもらい、海外進出や国際競争にさいしてバックアップしてもらう以外には、余計な規制や介入をうけずに自由に企業活動ができ、税負担を軽くしてもらうにこしたことはないわけであり)大いにメリットはあっても、一般庶民にとっては、社会格差の拡大・二極化、自己負担とリスクの増大、不安とストレスの増大、不安定雇用、ニート(無業者)などに見られる就労・就学意欲喪失の蔓延など、デメリットも大きいのである。
一般庶民にとっては、「大きな政府か、小さな政府か」とか、「郵政民営化に賛成か、反対か」とか、そんなことよりも、とにかく安心して、幸福に暮らせればよく、政府には、この国を、安心して幸福に生きられる社会にさえしてもらえればそれでよいのであって、そのために政府は、やるべきことをやり、やるべきでないことはやらないとして、何をやり、何をやるべきでないか、が問題なのである。
(2)新自由主義と「小さな政府」論
かつて(19世紀)は自由放任主義(経済は市場における自由競争に任せておいた方がうまくいくというもの)で、政府の役割を国防と治安など市民社会の秩序維持だけに限定する「安価な政府」(「夜警国家」)をよしとする考え方があった。それに対して、社会主義思想の影響をうけ、失業や貧困などの社会問題にたいする政府の対応が問われるようになり、国家の役割が問い直され、国家は教育・福祉・失業救済に積極的な役割を果たさなければならず、政府が国民の経済活動の諸過程に介入して利害を調整したり、規制を加えたり、公共サービス事業に乗り出すことによって社会の安定につとめなければならないとする「福祉国家」「積極国家」の考え方も登場するようになった。特に1929年世界恐慌で自由放任政策が破綻し、アメリカで、政府が大規模公共事業を盛んにおこない有効需要と雇用を創出・拡大して景気回復をはかるという政策(ニューデール政策)をとるようになって以来、この政策が第二次大戦後に至るまで主流となっていった。
ところが、1970年代中東戦争にともなう石油危機をきっかけにスタグフレーション(インフレなのに不況)という事態が生まれるようになって、先進資本主義諸国とも財政危機に直面し、「福祉国家」路線に対する批判が強まり、自由放任市場主義への回帰路線が勢いを得て盛んに説かれるようになった。それが新自由主義であり、そしてアメリカのレーガン大統領やイギリスのサッチャー首相らが打ち出したのが「小さな政府」―公共部門の民営化と規制緩和路線―なのである。当時日本では、それに呼応して中曽根首相が国鉄と電電公社・たばこ専売公社を民営化したが、それ以来追及されてきたのが、この「小さな政府」路線なのである。
しかし、この路線では、人々は弱肉強食の競争の結果、少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」とに分かれ、社会の二極分解が進む。チャンスは皆に平等にあるとか、選択の自由はすべての人にあるなどというのは、実は錯覚であり、能力や条件において予めハンデイを負った者とハンデイを持たない者とでは平等ではありえず、ハンデイを負った者には選択の範囲は限られ、自由などありえないわけである。(早大理工学部の木村忠正教授によれば、パソコンによるインターネット利用者は、およそ中卒15%・高卒35%・大卒70%・大学院卒100%と、学歴に強い相関関係があるという。パソコンが広く普及して、インターネットに接する機会は平等に与えられ、情報選択の自由はあっても、それを使いこなせる者はいいが、使いこなせない者にとっては、その「機会」は無意味なものであり、「機会の平等」も「選択の自由」もないのと同じなわけである。)
我が国では、ひと頃(高度成長ピーク時に)云われた「国民総中流」は崩れ、「二極化社会」「希望格差社会」に入ったといわれる。
その「小さな政府」と競争主義による自由・活力・向上意欲・低負担の利点は大企業・大資本や強者・富者・エリート・才覚や力のある者にとっての利点であり、企業経営者にとっては従業員を働かせる自由、リストラする自由は拡大しても、大多数の庶民にとっては不自由(パートか契約社員か派遣社員など非正社員しか選択肢がないとか、生活が不安定で、結婚したくてもできない、子供をつくれないなど)、リスクの増大、不安とストレス(うつ病と自殺の増加)、「がんばっても、どうせ無理だ」という無力感、意欲喪失(ニートの増加)、高負担(自己負担分の増加)がもたらされる以外の何ものでもないのである。
(3)ブッシュ政権と小泉政権の「小さな政府」路線
ブッシュ共和党のやり方は「小さな政府」で、政府の役割を国防と治安にだけ力を注ぎ、それ以外は手を抜くというやり方であるが、その市場優先主義と弱肉強食の自由放任主義は、グローバリゼーション(世界の市場経済化)によってアメリカの富裕層・「勝ち組」のために、自国内のみならず、世界に貧困・「負け組」をつくり出し、その貧困層と「負け組」の反発・反乱を「反米ならず者」として取り締まり、鎮圧するために、圧倒的な軍事力を保有し、それを世界に展開させるというやり方になっている。その一方で、地球温暖化防止条約の京都議定書には背を向け、環境防災をおろそかにして、かつてない超大型ハリケーンの襲来に見舞われたニューオーリンズで、その矛盾を露呈したわけである。
わが小泉自民党の政策は、その追随であり、日米同盟に基づき、米軍基地を維持し、自衛隊の海外活動を(インド洋上でアフガン戦争に従事するアメリカ艦船への給油からイラク派遣へ)エスカレートさせている。
自民党のこれまでの財政政策は、防衛費のほかに、ゼネコン(建設・土建業者)による公共事業費に偏り、社会保障費は相対的に低く抑えられてきた。(ヨーロッパ諸国では社会保障費の方が上まわっているが、日本では逆で、公共事業費は国と地方の予算を合わせて50兆円であるのに対して社会保障費は20兆円と下まわっており、福祉・教育など国民生活関連を除いた公共事業費がGDPに占める割合は、日本は欧米諸国の3~12倍と突出している。)この公共事業費と防衛費の多さにこそ無駄と財政赤字の元凶があるのである。
また、「低負担」といっても、それは法人税など大企業にとってであり(日本の企業の税と社会保険料の負担はフランスの2分に1、イタリアの6割、ドイツの8割)、一般庶民にとっては消費税・所得税とも増税と保険料増額すなわち負担増路線を追及している。社会保障はヨーロッパの高福祉高負担型に対してアメリカの低福祉低負担型路線をとっており、ヨーロッパ諸国に比べれば、国民負担率は低いが、庶民にとって、その「低負担」とは、税や社会保険料の負担が少ないだけ、教育費・医療費・老後の生活費・障害者の福祉サービス利用料などの自己負担分が高くなるということにほかならない。(それが「自助努力」「自己責任」というわけである。)
日本では、自民党も民主党も、公務員削減を云っているが、日本の公務員は先進諸国の中では、人数でも、報酬でも低水準(教員もそうであるが、日本ではそれが必要なところに必要なだけ人員確保されていないのが問題。労働基準監督官、保護監察官、食品の安全や航空・鉄道事故を監視するスタッフなどまだまだ少ない。)で、その意味では、日本は既に「小さ過ぎる政府」になっているのだとさえ云われる(東大の醍醐聡教授)。
(4)財政再建
「日本の国と地方の借金700兆円、国民1人あたり600万円の借金」などと云われる。これまで(90年代の10年間にわたって)政府がつぎこんできた公共事業投資(バブル崩壊後の長期不況にさいして景気対策として、またアメリカの要請もあっておこなわれる)と防衛費などのために、この国が抱え込んできた膨大な財政赤字の解消が焦眉の課題といわれる。
この財政再建は大問題だとしても、そのために歳出削減というばあい、どこを削るかである。それは、余計(無駄)なものを削ればよいわけであるが、大型公共事業(ダム・空港・港湾・高速道路などの幾つかの大型プロジェクト)や防衛費(対ソ戦を想定して買い付けた戦車やイージス艦などの兵器を、ソ連崩壊後も買い続けている。「ミサイル防衛」用の新型ミサイルといっても、未だ確実に撃ち落せる保証もない未完成品の整備・開発を計画)など、これまで「聖域」扱いにしてきたものをそれと見なして削減断行に踏み切ることができるか、が問題なのである。(独立採算で成り立っている郵政公社を民営化して郵便局員を公務員でなくしたところで、人件費の節約にはならず、歳出削減にはつながらない話なのである。)
また増税というばあいは、どこを増やすかである。それはとれるところからとり、金を持っている者からとればよいわけである。一般庶民・サラリーマンからの消費税を上げ、所得税を増やす(定率減税を半減もしくは廃止する)か、大企業(バブル期を上回る収益をあげており、金余りで82兆円もの余剰資金を貯めこんでいるといわれる)からの法人税(バブル期、税率40%だったのが30%に下げられて、20兆円から10兆円に減っている)を上げ、大資産家からの所得税を増やす(最高税率を上げる)かである。(朝日新聞社説などは、専ら消費税か所得税かだけで、法人税には触れない。)
財界は法人課税の強化は企業の国際競争力を損なうと云い、小泉首相などは、大企業は「金の卵だ」、それを「追い出すようなことをしては」と云って彼らをかばっている。ところが、日本の企業よりも高い税や社会保険料の事業主負担が課せられているヨーロッパ諸国(ドイツ1.2倍、イタリア1.5、フランス1.8倍)は、それできちんと経営をおこなっており、トヨタなどはフランスで倍の税金を払っていてもしっかり儲かっているという実態があるのでる。企業の海外進出の動機は現地での販売権維持拡大その他(アジア諸国などへの進出は賃金コスト面での有利さ)にあるのであって、税負担のせいではない。
郵政公社(現行のままでも法人税率を上回る国庫納付金を納めることになっていたもの)を民営化して法人税をとるようにしたところで、国庫は増えないのである。
いずれにしても、財政再建のために歳出削減・公務員人件費削減と増税・国民負担増が避けられないことを口実にして、郵政民営化を断行し、消費税など庶民増税と社会保険料の国民負担増を推し進める一方、「小さな政府」「国民の自助努力・自己責任」と称して郵政などを民営化し、何もかも民間市場に丸投げして政府の責任を回避すると同時に、国家や社会を大企業・財界にとって有利な方向にもっていく、それが「構造改革」と称するものの本質にほかならない。それは、庶民にとっては、幸福な生活とは結びつかないばかりか、様々「痛み」を押しつけられ、ますます不幸が拡大する結果になるだろう。(公務員の手による公共サービスは縮減される上に、公務員とともに正社員も減らされ、その賃金水準や労働時間など労働条件・雇用条件は益々悪化するだろう。)
(5)何もかも民間業者に任せればよいのか
「小さな政府」「官から民へ」「民間にできることは民間に」ということは、郵便局も中小企業金融公庫・国民生活金融公庫(自営業など小企業向けに無担保・無保証人で融資)などの政府系金融機関も、何もかも改廃して、民間業者と市場(その評価判断基準は利潤すなわち儲かるか否かにあるというようなところ)に任せておけばよいということであるが、はたしてそれでよいのかである。
「民間にできることは民間に」といって民間はやれても、(NPOならいざしらず)企業のばあい、それは「儲かれば」やるというのであって、その(「儲かれば」という)条件を必要とする。儲かりそうだという見込みがあるか、儲かっているうちは一生懸命やるが、儲からなければ手を引くのである。そこが「官」と違うところなのである。「官」(公務員―国民の「奉仕者」)は、民間企業のように、ただ「やれることはやる」とか「儲かればやる」というのではなく、やるべきことは無条件に、使命として「やらなければならない」のである(従来の郵便局ならば、日本全国どこでも、過疎地でも離島でも、どんな小口利用者でも公平にサービス)。公務員の使命は唯一国民への奉仕にあるが、営利企業の会社員の最大の使命は株主への配当金にために収益(利潤)をあげることにある。
ただし、民間企業は儲け(利潤)を少しでも多めに確保する(最小限のコストで最大限の成果をあげる)ために少しでも効率をよくし、無駄をなくそうと努めるが、「官」には「お役所仕事」などという非効率や無駄がともないがちではある。しかし、そこは、「官」(公務員)自身が意識してそういうことに陥らないように努めると同時に、外部(納税者の立場に立った然るべき機関)の厳重チェックがおこなわれるシステムを確立すればよい話なのである。民間営利企業の効率優先主義・コスト主義には「手抜き」とか、安全無視とか、低賃金・過重労働、下請け単価・仕入れ代金の値切りなど従業員や中小零細企業へのしわ寄せなどの弊害もある。
尚、民間活用をいうならば、企業だけでなく、むしろ使命(奉仕)に徹したNPOを活用すべきなのである。教育なら私立学校(公益法人で、広義のNPOの一つ)に任せればよい(国庫から助成金を出して)のである。NPOではなく、株式会社の学校もあり得るが、それは、塾や予備校のような受験教育や英才教育か、特定の技術・技能を育てる専門学校など(成績など数字に表れ市場で価値評価―売買損得勘定の計算―ができるところ)だけならば可能であろうが、全人教育や倫理教育・人権教育・心情教育(生活指導や人間教育、多様な情操教育など)は株式会社では不可能である。
「民間にできることは民間で」といっても、NPOには任せることができても、営利企業には任せられない分野があるのである。
(6)生存権と幸福追求権
「大きな政府か、小さな政府か」「民営化は是か非か」「社会主義か、資本主義か」などということは、我々庶民にとっては、「女性天皇は是か非か」といったことと同様に、切実な焦眉の問題ではないのである。庶民にとっては、それで日々幸福に暮らすことができさえすれば、どっちでもよいのである。(その商品が安くて品質さえよければ、国産であろうと外国産であろうと、どこのメーカーの物であろうとかまわないし、野球フアンにとっては、ひいきの選手やチームが活躍して好ゲームやファインプレーを見せてくれ、強くて勝ちさえすれば、その球団のオーナー株主や経営者が誰になろうと、そんなことはたいした問題ではないのである。そして郵便・郵貯・簡保ならば、誰にとっても安くて、便利で、確実でさえあれば民営化しようが、すまいが、どっちでもよいことなのである。)
人間誰しも、一番だいじなのは幸福であり、何がどうあれ、幸福に生きられさえすればそれでよいのである。
すべての人は(どんな人であっても)幸福に生きる権利があり、(他人の権利を犯し不幸に陥れて刑罰を科せられた者以外には)人によっては不幸に甘んじ、幸福を諦めなければならないなどという法はないのである。
日本国憲法は13条に「すべての国民は個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」として幸福追求権を国民の権利として定めているのである。
幸福とは、心が安心・満足な状態のことで、主観的なものであり、人によって(それぞれの諸欲求や感じ方、人生観・価値観など考え方によって)まちまちで、各人が自らの手(努力)で得るほかないものである。しかし、その客観的な条件には互いにとって共通する部面もある。まず、健康で安全に、人間らしく(文化的に)生きられること。すなわち生存、それは誰にも必要不可欠な幸福の前提条件である。治安・安全(平和)保障・ライフライン(生活基盤)整備・環境防災・公教育(就学の権利保障)・勤労(就労)の権利保障・社会福祉・社会保障・公衆衛生等々。これらは政府(および自治体)が引き受けて然るべきものである。それは国民(または地域住民)が互いにお金(税金)を出し合って自分たちの政府(または自治体)の手を通じてそれらを保障しあうということである。そこで、日本国憲法には、26条に教育を受ける権利と義務教育の無償、27条に勤労の権利、そして25条に「1、すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2、国はすべての生活部面について、社会福祉・社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定められている。日本国憲法には、このように、すべての国民に、人間らしく生きる生存権を保障し、さらに幸福追求権すなわち誰もが幸福になる権利を保障しているのである。
(7)「最大多数の最大幸福」こそが政府の目的
一口に幸福といっても、その中身は人それぞれに異なり、(その意味では平等ではあり得ない)何に幸福(安心・心の満足・生きがい)を求めるかは人によってまちまちなのであって、人によっては、幸福を富や経済的利得(金儲け)に求めたり、競争に勝つことに求め、それによって幸福感にひたるという者もいる。
それ以外に、ボランティアは勿論のこと、営利事業や報酬を伴った仕事であっても、幸福(生きがい)を事業や仕事そのものに求め、それを通じて、自己満足するだけでなく、人に役立ち社会に貢献して感謝される喜びを得るという人もいるわけである。また、人・文化・自然との触れ合い、学術研究・芸術・音楽・スポーツ・趣味・娯楽などのいずれかに幸福(自己実現欲求の満足、生きがい)を求める人もいるわけである。
それにたいして、政府や自治体が、彼らのために公共施設として産業基盤や生活関連基盤の諸施設とともに文化諸施設(公園・文化センター・公会堂・図書館・博物館・美術館・競技場など)を建設し、公共サービスを提供するということがあって然るべきなのである。
国はすべての国民に、人間らしく幸福に生きる権利を保障し、可能な限りその客観的条件の保障に努めなければならず、そのために必要な財政と措置を講じなければならないのであって、「小さな政府」で国防と治安さえやっておれば、あとは民間に丸投げして、国民は自助努力と自己責任にまかせ、生きるも死ぬも、幸福になろうが不幸になろうがかまわなくてもよいというわけではないのである。近代イギリスの思想家ベンサムは、政府の立法の目的は「最大多数の人々の最大幸福を達成することにある」と述べている。
すべての国民は生存権をもち、しかも(ただ生きるだけでなく)幸福を追い求めて生きる権利をもつ(その意味では平等である)が、その幸福とは、本人の主体的努力なくして他の人や社会から一方的に与えられるものではない。しかし、人間というものは、そもそもが、一人(単独)では生きられない(赤ん坊や寝たきり老人のみならず)、他の人々と連帯・共同して生きる社会的動物であり、他の人々と共にあり、社会の中にあって(共同の産物に依拠して)こそ、はじめて幸福(安心・生きがい)が得られるのであって、その客観的条件を抜きにして幸福などありえない。必要な物は、可能な限り自分で整え確保するのは当然であるが、物によっては(資材・物品・施設・環境・知識・情報など)社会(政府・自治体その他)が引き受けて(提供・支援して)然るべき部面もある。それらを整えサポートするのは、むしろ社会の責任である。
ところで、とかく、幸福福追求権の保証とは幸福になる「機会」が保証されることであって、「結果」が幸福になることを保証したものではないとし、「機会は平等なのに、結果が平等にならないのは個人の努力不足か無能力さらには勤勉・節約・忍耐といった美徳に欠けるせいだ」と見なす考え方がなされる。しかし、本人の努力不足や無能力や美徳が欠けるせいだけではなく、必ずしも本人の責任とは云えない不利な条件(ハンデイ)をかかえる者は、機会は他の者たちと公平に与えられたからといっても、どんなに頑張ってみたところで結果は得られないのである。幸福とは、幸福追求のスタートからゴールまでのプロセスを含んだトータルなものであって、結果だけでとらえられるものでもなければ、結果を抜きにとらえられるものでもない。肝心なのは心に満足が得られた状態すなわち結果であって、「結果はどうでもよい」などと、はじめから結果を度外視して、機会さえ与えられれば、それで充分だなどということはありえないわけである。機会が保障されるだけでなく、努力さえすれば必ず結果が得られるように客観的条件(生活環境・教育・訓練・知識・情報・雇用など)が社会(政府や共同体)によって保障されなければならない。幸福になる「機会」だけが保障されても、あとには不幸な結果が見えているというのでは無意味なわけである(どんなに頑張ってみたところで、どうせ何もならない。頑張っても頑張らなくても同じだということになる)。したがって、政府は国民が幸福を得ることに対して、ただ単に形式的に「機会の公平」だけを保証して、あとは本人の努力しだいだといって済ませ、結果にたいして責任を負わないならば、「最大多数の最大幸福」をめざすべき政府としての役目を放棄しているか、怠慢だと非難されるべきなのである。
だからといって富の機械的な平等分配は不合理であり、論外である。しかし、国民各人の幸福に必要な客観的条件を整えサポートするために政府がお金(国民がそのために税金として出し合ったお金)を出すのは不合理ではないどころか当然のことである。
(8)幸福は市場で買うものか?
人が富を求め、お金を入用とする理由には二つある。一つは、自分が(その扶養者も)生活と幸福を得るのに必要な経費のため、という理由である。それは、すべての人に当てはまるものである。それに対して、もう一つは、(内橋克人氏の言葉を借りれば)「マネー資本主義」の世界で、富やお金を得ること(金儲け・蓄財・利殖)あるいはマネーゲームやギャンブル(投機)に勝つこと自体を生きがいとする人(実業家・投資家・金融業者など、いわばマネー資本家)がそれに自己実現を懸けているから、という理由である。
前者(一般庶民の世界)のばあい、そのお金は、生活や安心や自己実現の活動に必要な一つの手段にすぎない(幸福にとって必要条件ではあるが充分条件ではない)が、後者(マネー資本主義の世界)のばあい、そのお金は、それにありつくこと自体が生きがいであり幸福だということで、自己目的(お金を得ること自体が幸福)になっている。
マネー資本主義の世界では、その金は、金儲けやマネーゲームを生きがいとする者たちがそれぞれ自分自身の努力と自己責任で手にすればよいわけであって、彼らどうしで競争の結果手にする富に不平等が生じ、勝ち組と負け組に分かれたとしても、それは当然のこととして受け容れられる。しかし、一般庶民の世界では、お金は、各人が生活の糧と(金には代えられない)幸福を得るために必要な物やサービスを買うためのお金であり、そのお金は各人が労働によって得る。国民は互いが社会的分業としてそれぞれの労働に携り、各人はその報酬として得たお金を、自分と扶養者(家族)のために直接使うほかに、互いが税金として政府や自治体に出し合って、公共施設・公共サービスを利用し合う。それが各人の幸福に役立つ。働けない者(老人・障害者・失業者など)は、国民が出し合った(税金・保険料)の中から公的扶助や社会保険の給付を受け福祉サービスを受ける。そうしてすべての人が等しく幸福が得られるようにして然るべきなのである。(その意味では「平等社会」であるべきなのである。ところが、障害者自立支援法案―「応益負担」ということで、障害者の所得の多少に関わらず、また重度・軽度に関わらず、一律に費用の1割負担を課するというもの―の国会審議で厚生労働省の担当局長は「サービスは買うものだという法律だ」と発言している。そのような法律では、お金のない者はサービスを受けられないことになる。)
ところが、今や、後者(マネー資本主義の世界)の方に前者が一緒くたにされ、人々の生き方・幸福(生きがい)にたいする考え方がその方に一元化・画一化されて、「お金がすべて」「市場がすべて」「幸福は金しだい」「幸福は金で買うもの、売買取引で得るもの」「売買取引に市場競走は付き物」、「競走に勝者・敗者は付き物」、「競争の結果、ある者は金が儲かって幸福を得、ある者は金を失って不幸に陥ったとしても、その『結果不平等』は仕方のないこと」、「機会は平等なのに、結果が幸福にならないのは本人の努力不足か無能力か美徳に欠けるせいなのであって、自分を恨むか、さもなければ幸運を与えてくれない神さまを恨むしかないのだ」などといった方向に傾いている。それを正当化するのが、万事、民間市場と国民の「自助努力・自己責任」に委ね、政府は国民経済・国民福祉から極力手を引いてしまうという新自由主義・「小さな政府」論なのであり、その路線を推し進めようとするのが、小泉首相の民営化改革・規制緩和政策なのである。郵便局の郵貯や簡保は、従来は庶民のためにお金を預かり、その口座から料金支払いを引き受け、集まったお金を政府に融資してきた(財政投融資)。すなわち、それは庶民と政府向けのものであった。それが、これからは民間の銀行や保険会社と同様に、ハイリスク・ハイリターンの金融商品を扱い、投機に応じるなどして、国内外のマネー資本家をも相手にするようになり、マネー資本主義の世界に足を踏み入れる。それが郵政民営化にほかならない。
(9)経済大国より「幸せ大国」
我が国は「一億総中流」社会からアメリカのような「二極化社会」に化し、「希望格差社会」に入っているなどとも云われ、将来に希望を持てる人にたいして、将来に絶望している人が増えているということ。即ち不幸になる人が増えているということである。
国内総生産(GDP)で世界第2位の経済大国でありながら、「自分が幸せだと思う人」の比率は29位で、ベトナムやフィリピンより下なのである。(2000年、電通総研などによる「世界価値観調査」。ただ「幸せ」と答えたている人は87%と多いが、そのうちの大部分は「やや幸せ」というもので、「非常に幸せ」は28%。それは95年の33%からは相当減っている。)
また、世界一の長寿国でありながら、10人に4人は「長生きしたいとは思わない」と感じている(愛知県大府市の国立長寿医療センターの調査。次のデータとともに「世界11月号」で内橋克人氏が紹介している)。
生活保護世帯は100万世帯で、その受給者の割合はこの10年間で6割以上も増えているのに対して、億万長者(居住目的の不動産を除いた純資産だけで100万ドル以上の富裕層)は134万人(総人口の約1%、世界の億万長者の6人に1人は日本人)なのだそうである。
民主党の党首選に敗れた菅直人氏は、党首選を前にして、「不幸になる人をなるべく少なくする『最少不幸社会』をめざすべきだ」との政治理念を掲げたといわれるが、人は誰しも幸福に生きたいと思っており、「最少不幸社会」をめざすことに異議を差し挟む者はいないだろう。めざすべきは、「平等社会か、競走社会か」などではなく、まさにその「最少不幸社会」であろう。そして、政府はそのためにできることをやり、或は、政府にしかできないことをやらなければならないのであって、問われるべきは、「大きな政府か、小さな政府か」などではなく、「最少不幸社会」をめざして政府はやるべきことをやっているかであり、そのために政府は何をやるべきで何をやるべきでないか、である。
我が国がめざすべきは、経済大国とか「軍事大国」などではなく、「幸せ大国」なのであって(4~5月、朝日新聞に「幸せ大国をめざして」というシリーズがあった)、政府がめざすべきは、「小さな政府」とか「競争社会」(いわば「勝ち組社会」)とかではなく、「最少不幸社会」すなわち「最大多数の最大幸福」であろう。