米沢 長南の声なき声


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抑止力には国民の覚悟
2014年07月07日

 安倍首相は、「集団的自衛権の行使容認は戦争するためではなく抑止力を高めるためなのであって、それによって日本が戦争に巻き込まれることはあり得ない。」「行使できるようになるが、しない」とおっしゃる。ならば大丈夫、安心だとなるのか。
 憲法解釈を変え、法整備をして、米国などとの軍事協力体制を整えることを閣議決定して集団的自衛権も「行使するぞ」という政府の意思を示したことにはなるが、それが本当に相手の「戦争仕掛けようとするたくらみをくじく抑止力として大きな力を持つ」には、国民大多数の「行使してもいい」その結果最悪の場合「戦争になってもしかたない」という同意・覚悟なければならない。国民に戦争の覚悟があってはじめて、そこに本気度が認めれるのであって、それがなければ「張り子の虎」(単なるポーズ)でしかないないと見透かされ、抑止効果は働かない。抑止力が機能するには国民の覚悟が必要不可欠なのであって、戦地で自衛隊員が血を流し、最悪の場合沖縄や日本本土まで攻撃され、かつての大戦の時のような惨禍に再び見舞われることさえも覚悟しなければならないということだ。
(閣議決定したその日の記者会見で、「隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性が高まる点をどう考えるか」「犠牲を伴う可能性に、国民はどういう覚悟を持つのか」という記者の質問に対して、首相は正面から答えなかったという―4日付朝日『集団的自衛権・検証』。)
 それに、その「抑止力」=軍事力に対して、相手はおとなしく引き下がるわけではなく、(自らの軍備を同じように「抑止力」と考え)対抗心から軍事力増強に努めようとし、日本に対して係争問題を抱えて反目し、互いに武力による威嚇から軍事衝突(武力行使)に発展し戦争になってしまうという可能性もあるわけである。つまり抑止のつもりが逆に戦争を招く結果になる。軍事的抑止力にはこのような危険な矛盾がつきまとうのであって、国民にはその覚悟も必要となるのである。
 幼少時代、父の出征と防空壕で心細い思いをし、今は子や孫たちのことが心配なばかりの当方にはそんな覚悟はありません。頼るのは軍事的抑止力ではなく、9条の非戦抑止力だと思うからです。覚悟なら「9条(非戦)死守の覚悟」(経済同友会終身幹事で最近亡くなった品川正治氏の言葉)。
 首相が言う「行使できるようになるが、しない」は国民の抵抗感をかわすためのその場しのぎの言い逃れ(ごまかし)で、本音は「いざという時には行使するぞ」と言えば国民は覚悟を決めて「よし」と応じてくれるものと期待している。だからこそ①脅威と危機を煽り、②愛国心を鼓舞し、(かつての教育勅語にあった)「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(いざの時には国の為に戦う)という愛国教育を推し進めようとしているわけだ。


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