米沢 長南の声なき声


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中国という国はそもそも(加筆修正版)
2010年10月14日

広大な大陸国家―長い国境線―16ヵ国と国境を接す。
膨大な人口(13億人、世界の5人に1人は中国人)・多民族国家(約50民族)。
 統一の安定・維持は至難(日本のような程よい?大きさの島国とは大分違う)。
長い歴史―小国の割拠から始まり、抗争・統合・統一・分裂・少数民族による支配とそこからの脱却などの繰り返し、近代にはヨーロッパ・日本など列強による分割・侵略も。
 集権的一元的統治システム(統治体制)を築く―諸王朝、今は共産党独裁政権―
国家による厳しい管理体制―人口抑制(1979年以来、放っておけば17億人にもなっていただろうと)―「一人っ子政策」(2人以上出産には罰金)
 開発独裁―経済発展のために政治的安定が必要だとしてトップ・ダウン型の独裁体制をとり、経済発展の成果を国民に分配(戦後日本の高度経済成長は自民党の事実上の一党支配―自民党長期政権下の集権的官僚支配―の下で行われたが、それも似たようなもの)。
 ソ連・東欧のような社会主義政権の崩壊の二の舞になるのを恐れつつ、「社会の安定」「正常な秩序の確保」に腐心。国家がバラバラ空中分解するのを恐れ、国民を共産主義イデオロギーとナショナリズム(今では前者よりも後者のほうにものを言わせる)で引き止め、国民一体化を図ろうとする。
 そのナショナリズム(愛国主義)は広い領域内の諸民族の融合と、住民を一つにまとめる求心力を作るためのもので、必ずしも多民族に対する排除・圧迫や対外拡張主義(大中華主義)を意味しないといわれる(朱建栄「中国2020年への道」日本放送出版協会)。
 大半の中国人は動乱を恐れ(彼らは幹部の腐敗とインフレに反対するが)、知識人活動家・学生の運動を支持せず、安定が必要だとする当局の方針に同意(91年アメリカ議会共同経済委員会の報告書で指摘)。
 
 中国外交の原則―「平和五原則」(1954年、中国首相周恩来とインド首相ネールの共同声明。後、中印国境紛争で形骸化も)―①領土・主権の相互尊重②相互不可侵③内政不干渉④平等互恵⑤平和共存―これらのうち「内政不干渉」にはこだわり続けている。
 1980年代の「改革・開放」以来、中国経済が世界経済に組み込まれ、対外開放・経済交流。
 それにともない、外部の声(関与)も配慮・傾聴しなければならなくなる―国際協調。
 しかし、個人の自由・人権よりも国家の統一・社会の安定を重視。欧米諸国の人権軽視批判には「内政干渉」として反発。
 急速な経済成長―GDP、日本をしのぎ世界第二の経済大国に。但し、1人当たりでは日本国民の10分の1、格差は深刻。

問題点
①中国は、明治以後の日本のように「富国強兵」で軍事大国をもめざし、アメリカのように覇権国家(他国に干渉)めざすのか否か、が問題(自分では軍事覇権はめざさないと言っているが)。
 諸国は中国の軍事力近代化、海軍力増強を(東シナ海、南シナ海などへの海洋権益の追求とともに)警戒。
②中国は今後、現体制(一党制、自由・人権の統制)を維持し続けられるか。
 政府はネット世論(ツイッターやブログなどによる民意)の拡大に抗しきれるか。ネットの書き込みの削除などで市民の怒りを抑え込む。が削除しきれず。(政府は「ネット恐怖症」に陥ってるという。)
 日中両国間で「反中」・「反日」のデモの応酬―東京で反中デモがあると、すかさずネットで伝わり、反日感情に火がつく―「釣魚島は中国のものだ」「日本製品はボイコットしよう」などと―中国共産党政府は制御しきれないことも―デモ制止はかる警官に「権力の犬」とののしる―「学生たちは『反日』という看板を掲げつつ、貧富の格差や就職難という政府への不満を爆発させるのだろう」(朝日)―「反日」から「政府の対日弱腰外交批判」、それが、ひいては「反政府」に転化する可能性(それを中国政府は恐れている)。
 ③無責任な他国からの干渉―これも問題
 自由・人権を尊重せよ、人権軽視をやめよと言って、かの国のやり方や体制を批判するのはいいとしても、それが、その国の国家の統一・社会の秩序安定・維持よりも(それらはどうなっても)自由・人権を優先せよと言って、それを外部から押し付けるとなると、それは内政干渉になる。そうして外国が干渉し、その結果、政権が倒れ、体制が崩壊するようなことになればイラクやアフガニスタンのように(戦乱に)なってしまうことになりかねない。そうなれば、かえって人々の人権は保てず、命さえも保てなくなる。
 中華人民共和国は建国して61年「もたった」というべきか「しかたっていない」というべきかだが(ソ連は一党独裁体制とともに69年で崩壊した)、そろそろ複数政党制に切り替え自由化すべき時なのか否か。それはその国の人民自身が判断して決するべきもので、他国が介入すべきことではあるまい。
 リンカーンといえば「奴隷解放」で名高いが、その奴隷解放と連邦(合衆国)の統一維持とで、どちらを優先と考えていたかと言えば、それは連邦の統一維持のほうだったのだ。
 リンカーンは奴隷制度反対とともに連邦(アメリカ合衆国)の維持を主張して大統領に当選した。すると南部諸州は連邦を脱退して「アメリカ連合国」を建国し、南北戦争
となった。そこでリンカーン大統領は「この戦争における私の至上の目的は連邦を救うことなのであって、奴隷制度を救うことでも滅ぼすことでもありません。もし奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができるならば、私はそうするでしょう。そして、もしすべての奴隷を自由にすることによって連邦を救えるならば、私はそうするでしょう」と演説。
 彼の至上目的は合衆国の統一維持であり、奴隷解放宣言はそのための手段になっていたということだ。この奴隷解放宣言が効を奏してリンカーンは内外世論の支持を得、英仏とも不干渉の態度をとったので戦争に勝利し合衆国の統一回復を果たせたのだ。
 (しかし、この後も、人種差別は根強く続き、解放宣言から100年後キング牧師がノーベル平和賞を受賞したが、それは黒人解放運動の中心的指導者として尽力が認められたからにほかならない。)
④我が国の対中戦略―中国とは対立・対抗関係でいくか、平和・友好関係でいくか。前者(「あしき隣人」「戦略的互恵関係なんてありえない」などと「目の仇」)は「勝つか負けるか」「屈服するか、させるか」の「経済戦争」もしくは軍事力を背景にした「こん棒外交」ひいては戦争の道であり、後者は共に利益を得る戦略的互恵関係―“GIVE AND TAKE”の関係または“WIN WIN”の関係。
 そのどちらでいくか、である。
 メディア(報道機関)も、自国本位に報道し対立を煽るか、自国側の意見だけでなく相手国側の意見をもバランスよく紹介して国民が公正に判断できるような報道の仕方をするかである。
 (昨今の状況は前者の様相。)

中国の反政府活動家(劉氏)へのノーベル平和賞をめぐる問題
 劉氏は天安門事件でハンストなど抗議行動に参加、1年半身柄拘束。その後も2度拘束(投獄・強制労働)。非暴力(言論活動一筋)で活動。インターネット上で、共産党の一党独裁廃止と三権分立・国民主権の新憲法、言論・集会・結社の自由を求める声明(「08憲章」)、賛同・署名を呼びかける。今年2月裁判、「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の判決受け現在服役中。
 ノーベル平和賞委員会―ノルウェー国会で選ばれている、元首相ら元国会議員5人が選考―各国に推薦を求める―劉氏はアメリカの議員らから推薦。
 委員会は授賞理由に、劉氏は「中国の基本的人権の確立のために長期にわたる非暴力の闘いを行った」「中国での人権を求める幅広い闘いの最大の象徴」だとし、中国は「政治的信条の平和的な表現を認める、自らも署名した国際協定にも違反し、言論の自由などをうたった中国憲法にも反している」と。
 中国政府は、劉氏は「犯罪者」であり、授賞は「民族の和睦と各国の友誼を前進させ」るノーベル平和賞の趣旨に反し、内政干渉だと批判。(委員会の授賞理由の文中には、「基本的人権はアルフレッド・ノーベルが彼の遺言に書いた『国家間の友愛』に必須のものである」と。)
 中国以外は各国とも、また我が国でも朝日新聞の社説など委員会のこの選考を歓迎・称賛する向きが多い(朝日の投稿川柳には「平和賞やけに喜ぶ日本人」といったものもある。)
 しかし、日本ペンクラブの浅田次郎氏は、「中国の恫喝に屈せずに劉氏を選んだのは当然のこと」としながらも、「主権国家としての中国が抗議するのも仕方のないこと」とし、ノーベル平和賞のあり方について「この20年くらい、きわめて政治的な色彩を帯びており、問題だ。公平な選考ならいいが、釈然としないケースが続いている。あまりに政治的に傾斜することは、ノーベル賞の値打ちを落とすだけでなく、様々な問題を起こしかねない。」と述べている。
 昨年はプラハ演説で「核なき世界をめざす」と唱えたオバマ大統領に授賞をしたものの、米国内では冷ややかな反応が少なくなく、つい先月には言葉とは裏腹に自国における「未臨界核実験」実施を許可している。
 そのオバマ大統領は中国政府に対して劉氏の釈放を求めたという。我が国の国会(予算委員会)では、自民党議員が菅首相も中国政府に同氏の釈放を求めないのかと迫っ
ていた。首相が「釈放されることが望ましい」と答えると、議員は「釈放を求める」とは言わないのかと迫まるも、首相は「・・・が望ましい」だけで通した。
 たしかに、これは非常に微妙な問題なのであり、簡単に言い切れるような筋合いのものではないのである。
 
 中国はいったいどうなるのか、そして日本はどうなるのか、我々は中国人にどのように対応すればよいのかだ。


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