米沢 長南の声なき声


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戦争に自由も人権もない―命あっての自由
2022年07月08日

 最近の朝日新聞の「声」投稿(『自由よりも平和が大切ですか』)に「『ウクライナに平和を』、『とにかくまず停船を』に違和感」、「どういう平和でも、平和でありさえすればいいのか」、「ウクライナ国民が戦い続けるのは、自由や人権を保障されないような平和なら要らないということではないか」、「自由や人権の保障される国のために戦う、その覚悟があるかと私たちも問われているように思う」とあった。
しかし、戦いを継続しているその間に、それに巻き込まれて犠牲になり、数多の命が失われている。
 生命は各人が有する人間的価値すべての根源を成すものであり、自由も人権も命なくしてあり得ず、平和的生存権の保障なくして自由・人権の保障もないわけである。
戦争は非戦闘員・子供らまでがそれに巻き込まれて犠牲になる。平和とは、そのような戦争がなく、人々の生命の安全が保障され安心して生きていられる状態にほかならない。
だからといって、戦わずに、生命だけ奪われずに済んでも、相手国との戦争回避交渉あるいは停戦交渉で譲歩を強いられて国家主権や自由・人権も損なわれる不利な結果となるかもしれない、その場合は、「そんな平和に甘んじるくらいなら戦って死んだ方がマシだ」、「総動員令で出国禁止もやむなし、犠牲者が出てもしかたない、徹底抗戦あるのみだ」という気持ちになるのも自然の感情であり、心情的には分かる。しかし、それでも国民の生命の平和的生存権さえ保持されれば自由・人権はもとより主権回復の可能性にも希望をつなげることができるわけであり、戦いで犠牲になった数多の人々がその生命とともに有してきた自由・人権など全ての可能性が永遠に断たれてしまうよりはまだマシ。
 我が国は国民に自由や人権が保障される平和国家でなければならないとするが故に、「戦う」のではなく、むしろ「戦わない」覚悟を持つべしと定めたのが日本国憲法なのでは、と思うのだが、如何なものだろうか。


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