米沢 長南の声なき声


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自衛権があるからといって軍隊は?
2005年04月01日

 文明社会では、危機に瀕した場合、自力救済(自分の身は自分で守る)か他力救済(お巡りさんから守ってもらう)か、原則はどちらなのかといえば、それは他力救済なのである。勝手に報復したり、勝手に制裁・処罰(リンチ)したりしてはならないのと同じであり、警察・司法機関などの公権力によらなければならないのである。
しかし、それが、公的機関による救済の手が差し伸べられるまで待っていたのでは取り返しのつかない結果を被る恐れがある場合は、例外的に当事者または近くにいる誰かの助けを借りる自力救済が認められる。その際は、腕力・武力の行使その他、本来ならば違法となるような手段にうったえることもできる。それが正当防衛権ともいう自衛権である。

その正当防衛権・自衛権には三つの制約がある。一つは、急迫不正(差し迫った侵害)に対するもので、即時に食い止めなければ取り返しのつかない損失を被る恐れがあるか、または後日公権力の手で救済してもらうよりは、今阻止するほうが、利益が大きいという場合にとどまること。二つめは、他に適当な手段がないこと。三つめは、とられる手段は、侵害を遮止・排除するのに必要な範囲内(必要最小限)にとどまること、である。

個人の正当防衛の場合、暴力攻撃に対して身を守るには、手段を選んでいる暇がなく、警察や司法機関の出動を待っていたのでは取り返しのつかないことになるので、即時、自分の腕力か器物を使ってでも抵抗せざるをえない(「やらなければ、こっちがやられる」)わけである。それにたいして国家の自衛の場合は、他からの武力攻撃に対して軍隊が守るものには、自国の主権(独立)・領土・権益と国民の生命や死活的な生活手段とがあるが、国民の生命を守るといっても、軍隊が応戦(武力行使)をすれば、ミサイル(北朝鮮には日本が射程内にはいるもの200基以上、中国には大陸間弾道ミサイルは20基にその他中距離ミサイル・潜水艦発射ミサイルも)、作戦機(北朝鮮は610機、中国は2400機もつ)、艦艇(北朝鮮は600隻、中国は740隻もつ)など何百発か何百機か何百隻か撃破・撃退はしたとしても、すべてを撃破・撃退し尽すことは不可能であり(小泉首相も、3月15日の議会答弁で、将来導入しようとしているミサイル防衛システムについて、どのような兵器でも百発百中を保証することは難しいと言っている)、一発一機でも撃ちもらせば、それに搭載した大量破壊兵器によって、或は原発や石油化学施設、人口密集地帯が攻撃されれば大惨事となることは免れない。独立も領土も守らなければならないが、それらは、即時武力行使して反撃しなければ取り返しがつかなくなるというものでもない(何らかの他の手段、国連安保理などの措置を待つことができる)。

 したがって、国家は自衛権を有するとしても、それを軍隊によって行使(武力行使)するのは避けるべきなのである。

 尚、個人に正当防衛権があるからといって、我が国では、市民の銃刀の所持は一般には許されていない。ところがアメリカでは、それが西部開拓時代からの伝統で、銃の所持は憲法で認められていて、全米の家庭の半数が銃を所持しているというが、それでアメリカ市民は安全かといえば、さにあらず。殺人事件が人口比では日本の10倍近く起きており、戦火にある国以外では「世界で最も危険な国」ともいわれるのである。

 ところで、1992年ルイジアナ州で留学中の日本人高校生射殺事件があった時のことであるが、彼は訪問先の家を間違え、その家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、その時「もし、相手(その家の人)が銃をもっていなければ、まず言葉をかわしたはず」といわれる。武力をもてば武力にたよってしまい、「問答無用」となりがち、ということである。

 個人に正当防衛権はあっても、一般市民に銃刀の所持を認めるのは、かえって危険だということであるが、それは国家の自衛についても云えることであって、国家に自衛権はあっても軍備は持たないようにした方が、むしろ安全なのだということである。社会の安全と秩序を守るのに警察機関や司法機関が必要ではあっても、個々人に正当防衛権があるからといって銃刀の所持は許されないのと同じように、国際社会にも国際警察機関や国際司法機関が必要ではあっても、国ごとに自衛権があるからといって軍隊(戦力)は必ずしも必要とはされないばかりか、あることの方がかえって危険を招きやすいと云えるのである。

 それにたいして、皆が自衛用の武器・武力を持って抑止し合えばよいものを、それを持たない無防備な者がいるから攻撃を誘う結果になり、侵害や侵略がまかり通ってしまうことになるのだ、という論理がある。しかしそれは、無防備でいる方が悪い、襲われる方が悪い、弱いのが悪いといって、力(腕力・武力)の行使を正当化する「力の論理」であり、侵害行為を正当化する「無法者の論理」とも云えよう。弱い者や無力な者がいれば、強い者や力ある者がすべて無法者に化して彼らを食い物にするのが自然の理なのではなく、無法者がいれば、強い者・力ある者が弱い者・無力な者を守るか、さほど強くはなくとも多数が力を合わせて守ることの方がむしろ道理であろう。それは、「弱きを助け・・・」とか、「義を見てせざるは・・・」などという綺麗ごとでそうするのではなく、そうして無法者に制裁を加えることによって無法を許さず国内・国際社会の法と秩序を維持することが彼らの利益・国益を保障することになるからにほかならない。無法者は孤立し、制裁をこうむる。その制裁は、必ずしも腕力・武力(物理的強制力)によらなくともそれ以外の何らかの形でおこなわれ、無法者は痛手をこうむり、自滅に陥ることにもなるわけである。

 だからといって、無法者の出現に備えて、どの国も独自の力を身につけ強くなる必要も、助けてもらうために予め特定の仲間と手を組む必要もなく、警察・司法機関を設け、或は皆で力を合わせる体制をつくっておけばよいのであって、国際社会では国連の集団安全保障体制がつくられているわけである。

 国連憲章は武力行使の全面的禁止を原則とし、加盟国がどこからか武力攻撃を受けた場合には、例外として、安全保障理事会が措置をとるまでの間、攻撃を受けた国が個別的に、または集団的に自衛の措置をとることができると規定している。そこで個別的自衛権も集団的自衛権も認めてはいるが、そもそもは国連安保理が対処(非軍事的措置あるいは軍事的措置)すべきなのだということである。

 それに、集団的自衛権が認められているとして、武力攻撃をうけた時に、他の国から助けてもらうことはできても(その際、共同防衛のための条約などは必要としない)、それを当てにして予め安保条約などを結んで基地を提供し、外国軍の駐留を認めたりはしなくてもよいのである。(それはかえって、その国と敵対する勢力の攻撃を呼び込むおそれがあるのであって、そんなことはやめた方がよいのである。)

 要するに、個別的・集団的自衛権はあっても、国に軍隊は必要不可欠というわけではなく、日米安保条約など同盟条約が必要不可欠というわけでもないのである。


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