(Ⅰ)法制懇の報告書
(1)憲法解釈の変更の必要性(理由)
①「我が国を取り巻く安全保障環境が(技術の進歩や国境を超える脅威の拡大、国家間のパワーバランスの変化等によって)より一層厳しさを増している」から。
②国際社会全体による対応が必要な事例の増大により、我が国が幅広い分野で一層の役割を担うことが必要となっているから。
問題は主として①の「我が国を取り巻く安全保障環境」が「脅威の拡大」で「一層厳しさを増している」からだ、ということだろう。
その「脅威」とは中国と北朝鮮を指している。これらの国から攻撃を受けるかもしれず、戦争になるかもしれない、という危機感?(或いは庶民のそれを政治的野望に利用しようとして脅威・危機感を煽るなどの思惑?)をもっているということ。
問題は、その戦争の危機は回避できないのか、戦争になったらその結果はどうなるのか、である。法制懇には(安倍首相にも)(どうやら「戦争も辞さず」ということで)必ずしも回避しなくてもよいという意識があるのでは。(靖国参拝などをわざわざ控えてまでケンカを避けなくてもかまわない。尖閣問題は交渉の余地はなく問答無用とばかり突っぱねておいて、「対話の扉はいつでも開いている」としかいわず、むこうが折れてくるのを待っているだけ。)
戦争になったらなったでしかたがない。勝てればいいのだと―楽観主義、安易感―勝っても負けても戦争になったらお終いだという危機感よりも、愛国心(自己愛)とともに中国・北朝鮮に対する対抗心(反中・反朝ナショナリズム)・憎しみ・執念のほうが強烈なのか。
問題は、戦争がもたらす取り返しのつかない結果―負けても勝っても、自国にも相手国にも計り知れない人命・資源・財産を犠牲・無駄にし、人々の心に癒しがたい傷・恨みが残るということ。だからこそ、戦争だけは絶対避けなければ、ということになるのだが、そこまで考え抜かれてはいないきらいがあるということ。(2)法制懇の報告書の結論は―要約すれば
①個別的であると集団的であるとを問わず自衛のための武力行使はできる。
②国連の集団安全保障措置や多国籍軍への参加もできる。
③PKOにおける駆けつけ警護・妨害排除に際する武器使用は自分の身を守る正当防衛だけに限らず認められる(武力行使には当たらない)。
これらにはいずれも「憲法上の制約はない」のだと。
それらのための必要最小限の実力は「戦力」には当たらず、それらのための交戦権(武力行使)も認められる(9条2項で禁止する交戦権とは「別の観念のもの」だと)。要するに、あからさまな侵略戦争(そもそも、そのようにして武力行使を始める国などあり得ない戦争)や「我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力行使」以外なら武力行使も戦争もどんなケースでも(アメリカやかつての日本が「自衛戦争」と称して始めたような戦争も)認められる、という解釈になる。
ただし、集団的自衛権については、「我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」(に限定して)(必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加することができる)という、そのような場合に該当するかについては、「日米同盟の信頼に著しく傷がつく」など我が国への深刻な影響が及びうるかなど諸点を勘案しつつ政府が判断する、ということは必要最小限とはいっても集団的自衛権の行使(自衛隊はどこへでも出かけて行って参戦・武力行使)は政府の判断しだいでできるということ(事前または事後に国会の承認を得る必要はあるものの)。それにアメリカからの要請には断れないし、やるしかないことになる。
このような憲法解釈は事実上9条(「戦争放棄」条項)を骨抜き・有名無実にし、戦争と武力に対する歯止めを取り去ってしまうもの。こうして、あらゆる事態(ケース)に自衛隊を活用し、軍事対応・武力行使ができるようにする、ということだろう。
それを「国民の命を守るため」だというが、自衛隊が出動して、武力を行使して戦争になったら、さらに命は失われる(全面戦争にでもなったら、それこそ大量の命が失われる)ことになるという矛盾がつきまとうのだ。
(3)様々なケースを想定し、戦争までも想定しているとも言えるだろう。どうやったら勝てるか(有利に戦えるか)(そのための装備・作戦・民間の動員・協力・避難対策)まで想定している。
ところが、そこから先、勝っても負けても、戦争によって両国民にもたらされる結果―人的・物的・精神的被害(帰らない数多の命、消えることのない心の傷など)はどれ程のものか―まで想定しているとはどうも思えない。問題はそこにある。(4)報告書は「憲法9条1項が我が国の武力による威嚇または武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国連憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経過から見ても、適切ではない。同項の規定は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇・武力行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じておらず」と。
「不戦条約や国連憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経過から見ても、適切ではない」というが、それは逆なのであって、同条約が締結以後は日本にしてもどの国も武力の行使はいずれも「自存自衛」の名の下に行われたのであって、この憲法制定当初、時の首相吉田は「近年の戦争はおおく自衛の名において戦われた」として自衛権の発動としての戦争を否定していた(その後、憲法解釈の変更によって自衛隊は合憲とされるようになったが)この間の戦争の歴史的事実は吉田の言うとおりであり、彼の当初の憲法解釈は正論であった。
それにアメリカ等のベトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争、ソ連のハンガリーへの軍事介入・チェコ侵攻・アフガン侵攻はいずれも軍事同盟を結んだ相手国側からの「要請」による国連憲章で認められた「集団的自衛権」の行使として行われたのであるが、それらはいずれもよい結果はもたらさず失敗に終わっている。
アメリカのベトナム戦争、ソ連のアフガン侵攻などは、それぞれ親米政権・親ソ政権(事実上の傀儡政権)から要請があったからという形をとり、ベトナム戦争の場合は当時結成されていたSEATO(東南アジア条約機構)の加盟国(韓国・タイ・フィリピン・オーストラリア・ニュージーランド)も参戦させて長期にわたって戦争のあげく空しく撤退している。
我が国はこの憲法規定の「武力の行使」の例外なき禁止解釈で自衛隊はこれらのいずれにも参戦せず武力行使はしてこなかった。このほうが幸いだったのである。法制懇の報告書は「個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点についての論証はなされてこなかった」という。自衛隊のインド洋やイラク派遣は(非戦闘地域・後方支援に限定して行われたが)はたして正当なものだったのか未だ検証がおこなわれていないのは確かだが、上にあげた集団的自衛権の名の下に行われた戦争に自衛隊が戦闘参加しなかったことによって国民の生存も国家の存立も危うくなることなどなかったのも確かなのである。(5)禁止しているのは国際紛争でも「我が国が当事国である国際紛争」だというのであれば、条文にそう書いておくべきでなのであって、そう書かれていないということは、そんな限定などないというこだろう。
それに、このような解釈だと、南シナ海での紛争なら我が国は当事国でないから、そこでは(ベトナムやフィリピンから要請でもあれば)武力行使できるということになるのか。(6)法制懇報告書は国家の存立・安全確保(「侵略されず独立を維持しているという前提条件―外からの攻撃や脅迫を排除する自衛力の保持と行使」)があってこそ国民の生命・財産・平和・安全は守られるというが、軍備・軍事力によって国民の平和・安全が守られというのはむしろきれいごとであり、軍備は、それに対抗する相手側の軍備増強と不信を招き、敵意・攻撃心をかりたて、かえって国民を恐怖にさらし、平和的生存権を危うくするし、戦争になれば、勝っても負けても国民は犠牲を被る。それ故に、国民は国に交戦権も戦力(軍備)も持たせないようにして戦争をさせず、他国と敵対し争うことなく平和友好関係をはかるようにさせることによって平和的生存権を確保する、それこそが現行憲法がめざしているところのものだろう。
(7)法制懇報告書に欠落しているのは肝心の(現行憲法前文にある)「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」という先の大戦に対する反省と決意である。報告書は大戦で自国民(兵士250万人、民間人50万人)、アジア諸国民(2,000万人)ともに未曾有の犠牲と悲惨をもたらした世界にもまれにみる民族的歴史的体験の重さに相応しい決意を踏まえたものとはどうも思われない。
それに「全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」へのこだわりよりも、そこにあるのは自国の国家の安全と「信頼できる国家との関係を強固にし、連携し、抑止力を高めること」そして信頼できない国家に対抗する、という冷戦思考である。
(8)「限定された集団的自衛権」とはいっても、そこで「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」事態が発生したと政府が判断すれば、「地球の裏側でも」どこへでも自衛隊を派遣し、米軍などと肩を並べて集団的自衛権の名のもとに武力を行使できるようにして、国際社会において名誉ある地位を占めようというのが、彼らの言う「積極的平和主義」なのであって、それは現行憲法の平和主義とは全く異質なものである。
(9)集団的自衛権は「固有の権利」などではない―個別的自衛権は個人の正当防衛権と同様に自然権で「固有の権利」といえるが―第一次大戦後、戦争違法化の流れの中で、自衛権の考えが生まれたが、それは自国が攻撃を受けた場合にのみ実力で阻止・排除する「個別的自衛権」を意味するというのが国際法上の常識だった。1944年、国連創設にさいするダンバートン・オークス会議における国連憲章原案にも「集団的自衛権」などという文言はなかった。
ところが45年3月アメリカ主導で開かれた米州諸国会議で軍事同盟(米州機構)を合理化するため、加盟国のいずれか一国に対する攻撃を全加盟国への攻撃とみなすという決議(チャプルテペック決議)がなされ、それを同年6月に採択された国連憲章成案にアメリカが盛り込むことを提案、ソ連が同意して憲章51条に個別的自衛権とともに「集団的自衛権」なるものも「固有の権利」として記されることになった。というわけで、「集団的自衛権」とは「後付け」された概念にすぎないのだ。(Ⅱ)この法制懇の報告書を受けた安倍首相の記者会見
(1)政府の「基本的方向性」
首相は集団的自衛権は容認しても必要最小限という限定を加え、国連の集団安全保障・多国籍軍への参加は控える。つまり湾岸戦争やイラク戦争のような戦争にはいかないと。しかし石破幹事長は「現内閣はやらない」が次の政権も「未来永劫に」それを控えるとは限らず、「日本だけが参加しないというのは、やがて国民の意識が変わるときに、また変わるかもしれない」と。
(2)いわく「国民の命を守る」。朝鮮半島有事に際して日本の避難民を運ぶ米国艦船「船には子供たち、お母さん、多くの日本人が乗っている」それを自衛隊が守れるようにしなければならないのだと。(折からベトナムでの反中暴動で慌てふためきながら帰国する中国人企業関係者。日本企業も間違われて襲われたという。このような時に中国軍が救出に駆けつけたりするのだろうか。そして自衛隊まで。そんなことをしたら再び中越戦争になる。今、海でぶつかり合っているのは海上警察。そこに軍が介入すれば戦争になるわけだ。)
(かつて台湾出兵・義和団事件・シベリア出兵・済南事件・第一次上海事変など日本軍が出兵したきっかけは、この種の邦人保護・救出だった。それらはいずれも侵略戦争につながっている。)
そもそも北朝鮮が本格的に攻めてくるといっても、ある日突然、不意に一斉攻撃をかけてくるなんてあり得ず、必ず近々攻撃があるかもしれないという前ぶれがあるものであり、その状況は予めつかめるので、攻撃が始まる前に民間機で引き揚げて来られるのである。
(湾岸戦争の時は、日本の市民団体が民間機を手配して約3,000人移送した。イラン・イラク戦争中に、テヘランに取り残された日本人200人超がトルコ政府が手配した航空機で脱出した、といったことはあったが、米軍に救出されたという例はそもそもないのだ。)
この先、ほんとうに朝鮮半島で有事(朝鮮戦争再開)ということにでもなれば米軍は自国民を優先し(優先順位は①米国人②米国永住移民③英国人などアングロサクソン人④その他)、日本人は(その他の部類で)後回しされるので、米軍機や米艦を当てにすることはできないし、日本人自身が民間機あるいは自衛隊機で脱出・救出するしかあるまい。しかし、この場合、日本に米軍基地を置いている以上日本は戦争当事国になり、日本全体が巻き込まれることになるので、在韓日本人救出の話だけでは済まないわけだ。「駆けつけ警護」―PKOなどで海外に派遣された自衛隊が、宿営地や自己の管理下にある(自分たちが担当する)区域から離れたところで活動している国連職員やNGOなどの民間人(或いは他国軍人)が武装集団から襲われという時に見殺しにはできない、駆けつけて行って助けられるようにしなければならないのだと。
これまた、きれいごと。そうだ、そうだ、といって賛成するのは現場の自衛官がいるとすれば、「ヒゲの隊長」のような指揮官で隊員に「行け!射て!」と言って命令する立場の幹部クラスが主なのであって、現場に立たされ射ち合って命のやり取りをするのは一般隊員なのだ。
それに、そんなことをやれば、それがその国その地域の紛争に軍事介入し、一方の勢力に加担する結果になり、他方からは攻撃対象にされ紛争当事国になってしまい、現地の自衛隊だけでなく、日本国民全体が敵と見なさる結果になる、というところまで考えなければなるまい。
そもそもNGOのボランティアで人道支援に携わっている方々は中立の立場、とりわけ日本人は9条のおかげで平和的イメージで歓迎されているのに、武装部隊を警護につけたりすれば敵視され、かえって危ない、と当事者(アフガニスタンで医療や灌漑用水路建設にあたっているペシャワール会の中村哲氏や日本国際ボランティアセンター代表理事の谷川博史氏ら)は言っている。
さまざまな有り得べきケースを想定して論じているが、そこまで想定するなら、その先の最悪の事態(戦争)まで想定し、その覚悟のうえで論じて決定すべきだろう。原発を再稼働させるなら再び、否もっとひどい過酷事故が起きるかもしれない、そこまで覚悟したうえで決定すべきなのと同じだ。安全神話にはもう懲りなくては。
(3)集団的自衛権の行使容認は限定されたものだとは言っても、「蟻の一穴」で小さな穴でも一度あけてしまえばやがてそれだけでは済まなくなるのだ。
「国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」と判断される時しか自衛隊は出さない、といっても、そのようなあいまいな判断基準で、しかも判断するのは政府だから、その時々の政権次第でいかようにでも判断(国会の承認を要するとしても、与党その他賛成派が過半数であればなんなく承認される)。
(4)「抑止力」(攻撃抑止、攻撃を思いとどまらせる方法)には次の二つのやり方があろう。
①軍事的抑止力(防衛力)―軍備・軍事(日米同盟、集団的自衛権の行使容認などの法整備も含む)を強化して他国・対立相手国が手を出せなくする、というもの。
首相いわく「日本は再び戦争する国になるといった誤解があるが、そんなことは断じてありえない。むしろ戦争を回避する抑止力につながる」と。しかし、はたしてそうだろうか。
この軍事的抑止力が高まれば「紛争が回避され、我が国が戦争に巻き込まれなくなる」と言い、「戦争をするためのものではなく抑止するためのものだ」とは言うが、それはあくまで武力行使を前提としていて「いざとなったらやるぞ」という覚悟(即ち戦争の覚悟)を前提としたものだ。
軍事的抑止力は刀(軍事力)を振りかざして「寄らば切るぞ」と相手の攻撃を抑止しようとするものだが、「やるならやってみろ、負けはしないぞ」とばかり対抗心を駆りたて、かえって戦争を呼び込む危険をともなう。
そのような軍事的抑止力の強化(自衛隊の装備・日米同盟の深化―集団的自衛権の行使容認も)は他国・近隣国・対立相手国の警戒感・脅威感・対抗心・敵対心を駆り立て軍備増強・軍拡競争を招き、軍事的緊張をつのらせ偶発的衝突の危険を招く。「疑心暗鬼になれば、戦争しようという意思がなくても偶発的に起こり得る」(丹羽宇一郎・前駐中国大使)。それに反米テロとともに日本人もテロの対象にされかねないことになる。
同盟国その他「信頼できる国」との連携・助け合いを図るなどと言って、それ以外の国(中国・北朝鮮など)を「信頼できない国」として敵(「仮想敵国」)に回し、敵か味方か二分(冷戦へ)。
軍事力でこちらが強ければ相手はなにもしてこないし、戦争しても勝てば相手は引っ込みうまくおさまるというわけだが(きれいごとなのでは?)。②非軍事的抑止力―外交努力(対話・交流・平和協力―相互理解・信頼醸成)による戦争抑止(予防)。平和的国際貢献で名誉ある地位を占める。
どの国とも公平につきあい、敵をつくらず脅威をつくらない(というと、きれいごとか?)
軍事戦略ではなく、外交戦略で、地域に平和と安定の枠組みを構築することに努める。ASEAN諸国を中心とする東南アジア友好協力条約(TAC)―戦争放棄と武力行使の放棄を原則にしている―に倣って、北東アジアにも。9条を持つ戦争放棄国の本場日本がそのイニシャチブを。
ASEANは、ベトナム・フィリピンなどが南シナ海領有権で中国による海底油田掘削に反発、対立が激化して危機感を強め、「行動規範」づくりに懸命だが、集団的自衛権など軍事同盟を結ぼうとする気配はないようだ。
①と②とで、どちらが戦争になりやすく、どちらが平和・安全を保ちやすいか。
どちらが戦争のリスクが高いか、
どちらがきれいごとか?
外国人はどちらを評価するか(湾岸戦争やアフガン戦争などでは他の国は軍隊を出して戦ったのに日本は出さないとか、出しても戦わないなどとマイナス評価をする向きもあるが、中東を含めて世界ではむしろ「平和的国民」という日本人イメージが浸透しているといわれる。)(5)「内閣総理大臣である私は、いかなる事態であっても国民の命を守る責任があるはずだ。」「立憲主義にのっとって政治を行うのは当然だ。その上で、人々の生存する権利を守る責任を放棄しろと憲法が政府に要請しているとは私には考えられない」という。
我々国民は(平和的生存権を)安倍首相から安倍流の憲法解釈で守ってもらうのか、それとも我々国民が我々流の憲法解釈で首相・政府に守らせるのか。どっちなのか。
それは後者である。
憲法の制定権者は我々主権者国民であり、その解釈決定権も国民にあるのであって、それが首相や内閣にあって彼らの都合や思惑で意のままにこじ付けて解釈を変更できるような筋合いのものではないのだ。
国民(流)の解釈は条文に忠実な、言葉どおりの素直な解釈である。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し」、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と書いてあるからには、字義の通り、いかなる戦争も放棄し、戦力を持たず、国の交戦権は認めないのである。解釈は学校の国語授業でやるような文意解釈だけでじゅうぶんなのであり、政治的な作為的解釈(自己に都合のいいこじ付け解釈)―「自衛のための必要最小限の実力は戦力ではない」とか「個別的、集団的を問わず自衛のための武力の行使は禁じられない」とか「自国が当事者でない国際紛争なら武力の行使は禁じられない」などといったへ理屈)を弄する必要はないのだ。
主権者としての国民は為政者・政治家による政治的解釈をうのみにしてそれに支持を与えるのではなく、専門家の知見を借りるならむしろ国語学者と憲法学者の解釈を参考にして自ら解釈すべきだろう。その憲法学界では「国家の固有権である自衛権自体は放棄されていないが、憲法9条2項で武力を放棄した結果、「武力によらざる自衛権」のみが認められるだけだ(「自衛権留保説・非武装自衛権説」)というのが通説なのである。
ところが法制懇には憲法学者は一人しか入っていないのだ。
(6)安全保障には為政者(国政担当者)の立場(論理)に立った国家安全保障と主権者国民の立場(論理)に立った国民の権利としての平和的生存権保障とがあるが、我々国民が求める安全保障は勿論後者(平和的生存権保障)なのであって、その観点から解釈すべきだろう。そしてその解釈のうえに立って国民は首相や政府に情勢の推移(「安全保障環境の変化」)に相応した然るべき安全保障政策を求めはするが、けっして武力行使はさせず戦争はさせないという原則はあくまで守らせる、それこそが憲法解釈のあるべき姿だろう。