米沢 長南の声なき声


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体罰・いじめ・虐待の根本原因(再加筆版)
2013年02月14日

(1)「体罰」・「いじめ」とは―定義
 「体罰」とは―学校教育法(11条)では―物理的行為(外形力)によって身体に苦痛や傷害を与える懲戒―それは禁止
 例―殴る、蹴るの類
   長時間にわたって正座・直立など特定の姿勢を保持させる―ただし、その場合は教室内か炎天下・寒風下か、時間的環境など種々の条件を考え合わせ、合理的限度を超えない限り機械的一律には禁止されない。
 文部省初等中等教育局教務関係研究会編の「教務関係執務ハンドブック」では―軽く叩くような行為は、教育的配慮に基づくもので、校長や教員が単なる怒りに任せたものではない限り、いわゆる「愛のムチ」として許される、としている。
 児童・生徒に対する懲戒は体罰以外は認められる。ただし、義務教育では授業に出さない(学習権を奪う)などのことは、他の児童・生徒に対する健康上・教育上(授業を妨げるなど)悪い影響を防ぐため以外には許されない。   
 「いじめ」とは―文科省では―①肉体的・精神的・立場的に自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃(暴力、いやがらせ)を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。
 「いじめ」か否かの判断は「いじめられた側の立場に立って行うのが原則。
(2)反省点
①日本では、それがどこの国でも当たり前にやられているスパルタ式教育だとか、日本の伝統的な「修行文化」でもあるかのように思い込んでいる向きがある(石原慎太郎氏のスパルタ教育論や橋下大阪市長の「教育は2万パーセント強制だ」等の言説に迎合する向きがある)が、そのやり方・考え方には錯覚があること。
 スパルタ式教育―軍隊式教育―は親と子、教師と生徒、施設職員と入所者、先輩と後輩、強者と弱者が上下・力関係、権力・服従依存関係になっている。養育・教育は愛と人格の尊重・信頼関係によって成立するのに、それを上下・力関係(権力と服従・依存関係)で成立するものと錯覚―対話・説明ぬきで一方的に指示・命令、思い通りやらないと怒鳴るか、手か足が出る。
 日本ではそれはいつからのことか―政治学者(慶大法学部准教授)の片山杜秀氏によれば―日露戦争以後、軍隊で(欧米列強に対して武器弾薬・装備・工業生産力それに兵士の体格で劣る戦力を精神力(「大和魂」)でカバー。「やる気」を示さぬ者に体罰を加えれば、痛いのが嫌だから必死になり、言うことを聞く等といった効果(効率性)を活用。大正末期からは一般学校でも軍事教練で多用されるようになり、太平洋戦争中の国民学校時代に頂点をきわめた。戦後、軍隊は無くなったが、暴力的指導の伝統が残る。体格で勝る外国人と張り合うスポーツ界でも、体力不足を気力で補い、個人の迫力では劣っても、集団でよく統率されれば勝てる、といったところから根強くの残る(2月19日付朝日「文化」欄)。
体罰は「愛のムチ」か「いじめ」か。それは体罰を受ける側(子ども・生徒・入所者・選手)がどう感じ受け止めるかだ。体罰を加える側(親・教師・施設職員)はとかく「愛のムチ」のつもりでも(全日本女子柔道の辞任した監督も「一方的な信頼関係だった」と)、相手がそう思わなければ単なる「制裁」或いは「いじめ」ということになる(女子柔道日本代表の選手たちの声明文には「前監督の暴力やハラスメントで心身ともに深く傷ついた」「信頼関係が決定的に崩壊していた」と)。
 「愛のムチ」を感じて「よかった、いい先生だった」と思う子どもも中にはいるが、反対に、それで傷つき、自信を失い、大人に不信感を持つようになる子どもが多くなるのも事実だという(精神科医・明橋大二氏―精神医学的には、体罰は一時的な効果はあっても、長期的には、「その時は親の命令に従うが、成長した時『攻撃性が強くなる』『非行など反社会的行動に走る』『精神疾患の発症』などリスクが高い」と―1月24日付朝日『スポーツと体罰』)。
指導法として体罰は「100回説教するより一発で効く」手っ取り早い効率的な方法ではあるが、自ら考えさせ気付かせるプロセスを省く安易な方法(動物の調教と同じ)(体罰をする側も受ける側も思考停止してしまう)。
 指導法の中には、体罰(暴力)・暴言とは言えない叱咤激励や目を覚まさせる軽い叩き(座禅でうつらうつらすると御坊様が「笏杖」で叩くように、或いは「気合を入れる」とか、「ハッパをかける」とか「喝を入れる」とか―「こら!」「バカ野郎!」「いい加減にしろ!」などと怒鳴ることも)やペナルティー(「立たせる」とか、「グランド一周」とか、「腕立て伏せ」・「草むしり」とか)を課することはある。それにも程度には限度があり、あくまでも愛と信頼関係が成立していることが前提―それなしに生徒や子どもに不信・敵対感情があれば、それは反発・反抗をまねき、教師の方が殴られたり暴言をあびるといった結果にもなる―殴り返せばケンカ(「畜生!やりやがったな」、そこにあるの怒りと憎しみ)にすぎないことになる―それで相手がおとなしくなって言うことを聞くようになったとしても、それは力に屈したということであり、動物の調教と同じ、強制と服従。それは教育指導ではない)。
 古賀稔彦氏(バルセロナ五輪柔道金メダリスト、引退後、柔道指導者に)がモットーにしている指導者像―教える相手の「話を聞き、自分を受け入れてくれる」指導者―「話を聞き(言葉のキャッチボールで)、この人なら何でも(悩み・不安をも)話せるという関係を」築き、「選手みずから考え、工夫する自主的な力」を大事にしてサポート―ダメなところ、悪いところがあると言葉で伝える―そうすれば相手をよく観察し、きめ細かく指導できるようになる。殴って指導したら、それができなくなる―と。
④親・教師・施設職員には子ども・生徒・入所者の生命・身体を「いじめ」・体罰・虐待などから守る「安全配慮義務」は最優先義務。なのに「いじめ」体罰・虐待など不祥事が発覚すると学校や教師自身、施設や職員自身の評価が下がることを恐れて隠ぺいし、事なかれ主義になりがち。そのような組織防衛や保身などはあってはならない。
⑤日本社会に根強い体罰肯定の意識―社会全体(指導者・親・子ども・選手・一般人)が体罰否定の意識改革が必要―さもないと自分だけ、或いは一部の人たち(教師たち)だけがその気になっても、周り(生徒や保護者)に「それでは甘い」とか「もっと厳しく体を張って指導に当たるべきだ」などといった体罰肯定の意識があると、体罰を用いない指導者はかえって「不熱心だ」とか「手抜きだ」とか不信感をもたれてしまう。そのような観念は間違っており、教育やしつけに体罰を用いる方が邪道(柔道の山下氏によれば「最低の指導法」、野球の桑田氏によれば「最も安易な方法」、柔道の古賀氏によれば「指導の放棄」)なのだ、という観念に改めるようにしていかなければならない。
(3)対策―①自民党の「いじめ防止対策基本法」案に「何人も児童らをいじめてはならない」とか「通報」義務・「相談」義務とか「懲戒」などの罰則を定めて法により規制、厳罰、管理強化へ。
 尚、厳罰主義には子どもの鬱屈した心をさらに歪め、いじめを陰湿化させるという問題がある。
 「いじめ」行為に関する法律は既にある―「殴る・蹴る」は傷害罪(刑法)
                  「使い走り」は強要罪(刑法)
                  「無視・仲間外れ」は人権侵害(民法上の不法行為)  
   ただし警察は子どもの教育や更生の機関ではないので過度に依存することは適切ではない 
 ②道徳教育の徹底
 ―文科省は「心のノート」の再配布を企図(民主党政権では配布をやめていた)。
  自民党の中曽根弘文参院議員会長は「守るべき徳目を列記した現代版『教育勅語』のようなものを作成すべきだ」と(―忠君愛国教育)。
 安倍政権―「教育再生実行会議」―「道徳」の「教科」化へ―道徳教育は特定の時間のみで行われるものではなく、学校生活の中で、現実生活に即して子ども自身が考える中で育まれるものなのに、道徳を教科にすれば、国が検定する教科書などで、時の国家や政府の特定の価値観(愛国心や忠孝道徳など)が押し付けられることになる。
③スクールカウンセラーの活用、「いじめ専従教員の配置」、「いじめ防止センター」(文科省などからは独立、教育・心理・医学・法律などの専門家で構成)の設立の案も。
④教育委員会制度の改革企図も―首長や国の関与を強めるなど
 しかし、教育委員会が時々の政権や首長から(その意向にいちいち左右されることのないように)政治的独立性・中立性を保持しつつ、その本来の役割をしっかり果たすことこそ肝要。

 これらの表面的対処療法的な対策もしくは法的・道徳主義的な管理対策だけで、根本原因にメスを入れることなくしては真の問題の解決にはなるまい。

(4)根本原因(背景)―日本社会の異常
   競争の激化、格差・貧困の広がり(貧困ライン以下の家庭で暮らす子どもの割合は15%で、先進工業国35ヵ国中9番目の高さ)
   心の貧困化(精神の荒廃、時間的・精神的ゆとりがない)
           子どもも忙しく遊ぶ暇がない
           プレッシャーからイライラ(焦り)が募るストレス社会→「荒れる」
    家庭では子育て・養育に異常  施設では入所者虐待  職場ではパワハラやセクハラ
    学校教育にも異常を来たす―過度な競争教育(国連・子ども権利委員会から日本政府は
                          再三、指摘、改善勧告を受けている)
           国際的な調査では「孤独を感じる」という子どもの割合が日本はダント
             ツに高く、「ありのままの自分がいい」という自己肯定感も低い。
          クラス内にグループ間の力関係による階層・序列が形成―東大大学院生の鈴木翔氏は「スクール・カースト」と称して、その実態を論じている―「『生きる力』・『積極性』などの能力の差で分かれ、上位グループは賑やかで気が強くてクラスに影響力があり、席替えで我ままを通せるなど学校生活を有利に過ごせる一方、『下』の生徒は『上』のグループを恐れ諦めの感情を持つ。いじめとは違う、普通の子がうまく言えない悩みや息苦しさが教室内に」と(2月20日付け朝日「教育」欄)。
          受験競争、合格率で学校間競争・教師間競争
          企業人材教育―競争に耐え我慢強く従順な人材を歓迎      
          部活―勝利至上主義
      社会人スポーツ界でも―柔道界では「金メダル至上主義」(柔道全日本女子の辞任した監督いわく、「焦って急ぎすぎた。急いで強化しなくてはいけないと、たたく方向性になった」と。)
    競争・成果主義―効率優先、短期的成果を追い求める(限られた時間の中で成果を出さなければならない)。
          ―①学校の大規模化(「顔が見える指導」がしにくくなる)
           ②教師の多忙化―受験指導・生徒指導・部活指導や雑務に追われる。
 その結果、子どもも親も教師も歪む―子ども一人ひとりの個性・能力に応じ、じっくり腰を据えて根気強く教え諭す余裕がなくなる。
         (この2点は大津いじめ事件第三者調査委員会の報告書でも指摘)
 今、問題の根本的解決に必要なのは、このような競争・成果主義教育体制からの脱却―欧米のように、入試制度をなくして全入制をめざすこと。学校の大規模化をやめ欧米並みの少人数学級にすること(20人学級、とりあえずは35人学級)。教員を増員し授業や生徒との交流以外の雑務の解消をはかること等であろう。
 根本的には弱肉強食の競争社会から生ずる「いじめ」の風潮をなくし、人間的な連帯のある社会(「いじめ」を止める人間関係)をめざすこと。
 「教育は愛と信頼関係で」などというのはきれいごとだ、といった皮肉な見方をする向きが少なくない日本社会の風潮にこそ問題があるのであって、 「教育は強制と競争」だなどという固定観念の方こそ間違っているのだ。


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