(1)軍備を合理化・正当化―それをしたがるのは、それで利益が得られる兵器産業・関連業界、「死の商人」、それで利権・既得権益が得られる政治家・防衛官僚・科学技術者、アメリカでは(軍部と軍需産業の)軍産複合体。
(2)軍備で他国からの攻撃を抑止―その不合理性
家庭の戸締りなら、他人を傷つけることはなく、近所に不安や脅威を感じさせることはないが、軍備は隣国その他に脅威を与える。脅威を感じた国々は攻撃に備えて自分も軍備を持ち、対抗して同等以上の軍備を持とうとする。それがまた相手には脅威となり、さらに軍備増強を促す―悪循環(軍拡の応酬)
(アメリカ・日本・韓国・イスラエルに対してロシア・中国・北朝鮮・イラン、インドに対してパキスタンなど)
軍備は防衛(自衛)用だと言っても、そもそも戦力であり攻撃力であり戦争手段なのであって、相手に対しては、その国が戦争しようとする意思を感じさせ脅威を与えるものであり、抑制し、使用は控えようとは思っていても、それを持っているかぎり使わずにはいられなくなり、攻撃を誘発する(兵士たちは武器を持つと、動く者を撃ちまくる)。
軍備を持っていると、それに頼りがちとなり、外交努力・話し合い解決努力が徹底しなくなる(話し合っても無駄、交渉には及ばず、「問答無用」となりがち)(アメリカは同時多発テロを受けて、すかさずアフガニスタン攻撃に走り、イラク攻撃に走った。かつてはベトナムでトンキン湾事件を起して、それを口実に全面戦争に突入した。かつては日本も、柳条湖事件を起して満州事変、盧溝橋事件をきっかけにして日中全面戦争におよんだ)。(3)日米同盟―アメリカの「核の傘」、沖縄の米軍基地、オスプレイ配備、これらは抑止力になるか。
核抑止論―「相互確証破壊」戦略―こちらが核兵器を撃ちこめば、必ず相手も撃ち返し、共に犠牲を被る結果を招くことは確実であるから、互いに先制攻撃を控え、攻撃は抑止されるという理屈。
それは、自国が相手国からの攻撃を回避するためのものであって、他国(同盟国)を守るために核兵器を使い、相手から撃ち返されて自国民が核の犠牲を被ることに甘んじるなんて論理的にあり得ないことだと(元国務長官キッシンジャー)。(例えば、仮に中国の攻撃から日本を守るために、アメリカが上海など中国の都市に核ミサイルを撃ち込めば、シアトルなど米都市が報復攻撃にあって核の犠牲を被ることを覚悟しなければならないが、アメリカは、そのような自国民の犠牲を覚悟してまで日本を核で助けようとは思うまい、ということ。)
それに、相互確定破壊核抑止は、理性的判断ができる相手になら効くが、北朝鮮のような?狂信的・自暴自棄的(破れかぶれ)になって立ち向かってくる相手には効きめがない。
米軍が日本に基地を置き駐兵しているのは日本を守るためではなく、世界戦略のためであり、日本をその戦略拠点の最も重要な一つと位置付けているからにほかならず、沖縄をはじめ基地は海外への出撃基地(アフガニスタンやイラク、かつてはベトナム・朝鮮半島へ出撃)。
普天間に配備された海兵隊のオスプレイも、尖閣など日本の島を守るためのものではない。海兵隊は、そもそも海外での攻撃作戦や救出作戦に際して敵地や現地に真っ先に上陸・占領して攻撃を仕掛ける先鋒隊。(救出作戦にしても、救出するのは一に米国人、二番目にそれ以外で米国に市民権(グリーン・カード)を持つ者、三番目にイギリス人やオーストラリア人などアングロ・サクソン人、四番目にその他の人々、という優先順位で、日本人は四番めのその他の部類。日本人が優先的に助けてもらえるなんてあり得ないということだ。)
ならば、なぜ沖縄など日本に置いているか。それは、その経費を日本政府が(「思いやり予算」も)負担してくれるので、そこに駐留して、そこで訓練させた方が安上がりだからにほかならない。
安保条約は、そもそも日本を守るために締結されたわけではない(吉田首相と交渉に当たった米国特使ダレスは、この条約は米国が日本の防衛義務を負うものではないと言明している)。岸首相がそれを今の形に改定して、米軍に日本防衛義務を負わせるようになったが、それはNATO条約の場合とは違って、米軍は日本が他国から攻撃を受けたら即・自動的に参戦するというものではなく、自国の憲法に従って行わなければならない(つまり米国議会の承認を経なければならない)となっている。だから、尖閣やその他で日本と中国が軍事衝突したら、即・米軍が参戦してくれるというわけではないのだ。
したがって日米同盟―自衛隊、それにアメリカの核の傘、沖縄基地、オスプレイやステルス戦闘機の配備、ミサイル防衛網など―が抑止力になっているから日本は攻撃されないし、されても大丈夫だ考えるのは幻想だということ。
<参考―インターネットのサイト「kinkin.tv」で10月6~12日放映の「パックイン・ニュース」に出演の孫崎亨氏の発言>(4)9条こそ抑止力(隣国や他国の攻撃意志を除去)
いくら「抑止力」と称して軍備や軍事同盟を持つかぎり、それらはあくまで戦争手段(戦力)にほかならず、それを持つこと自体が戦争意思を持っていると思われてしまい、不信感を持たれることになるだろう。軍備や軍事同盟は他国・隣国にとっては脅威となるし、他国・隣国も対抗して同じように軍備を持てば、それが又こちらの脅威となって、たえず戦争や軍事衝突の不安に付きまとわれることになる。
そのような不安のない本当の平和(戦争抑止)を勝ち得る最善の方法は、戦争手段(軍備)を持たず(「戦力不保持」)、どの国に対しても敵意を持ったり仮想敵国と考えたりせず、戦争意思を全く持たないこと(「戦争放棄」)だろう。要するに今の憲法9条を守ることにほかなるまい。
(アフガニスタンで軍閥の武装解除に当たった伊勢崎賢治氏―東京外語大大学院教授で国際NGOに身を置きながら国連から派遣されて現地に―は丸腰で彼らに臨んだ。彼らアフガニスタン軍閥は、伊勢崎氏を「日本人だから信用しよう」と言って武装解除に応じたという。)
武力に訴えず平和裏に解決しようとする姿勢は相手方に殺意を抱かせず、武力行使を抑止する。信用を得ていれば、敵対し合っている双方に対して第三者として調停に入り、戦争を止めることもできる。積極的平和外交・非軍事的国際貢献こそが日本国憲法(前文に「われらは、平和を維持し、・・・・国際社会において名誉ある地位を占めたい」「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」)の9条の精神。
ところが、我が国政府は現在に至るまで、日米同盟・対米協力、自衛隊・派兵など、この9条とはむしろ裏腹のことに専念。「日本人は信用する」が日本政府は信用できないと言われるような状況になっている。(5)無防備は危険?、それにつけこんで簡単に攻めてこられる?
無防備といっても海上保安庁のような警察力(どこの国にもよくある「国土警備隊」とか「国境警備隊」)はある(現在の海保は強大な自衛隊があるために相対的に貧弱なものとなっているが、警備・取締り・侵犯阻止・排除に必要な艦艇や航空機その他必要な装備は持つ)。だから全く無防備というわけではないのであって、他国と戦争をする軍隊・軍備は置かないということ。
領地の争奪戦に明け暮れた戦国時代や植民地・属国の争奪戦に明け暮れた帝国主義時代のように、虎視眈眈と互いに隙あらば攻め込まずにはおかないといった昔ならいざしらず、今は、この国が領土・領海警備隊だけで軍隊・軍備を置いていない無防備な国だからといって、攻め込んだりすれば、世界中から非難され、国連をはじめ国際機関・各国政府から制裁を被り、かえって大損失を被り、自滅さえ招くことにもなる。国連は(未だ不備があるとはいえ)、それを中心に国際法秩序が確立されていて、一方的な軍事侵略・武力行使は禁止されており(国連憲章には「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使をいかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と定められており)、無法行為は国際社会から制裁を被るというコンセンサスがある今の時代に、それ(「無防備」とか「力の空白」をついて攻め入るなど)はあり得ない。
日本以外に憲法で軍隊を置いていない国は、現にコスタリカなどいくつか(192ヵ国中27ヵ国。いずれも小国とはいえ、例外的とは言えない数)あるが、攻め込まれたりはしていないのだ。(コスタリカは地続きの国々とも境を接して日本以上に危ない環境にあるが、1948年憲法で軍隊の保有を禁止、中米紛争も克服、外交的方法に徹して隣国との平和・友好を保っている。1986年、この国のアリアス大統領はノーベル平和賞を受賞している。)(6)領土紛争―仮に日本に自衛隊も日米同盟も無くなったとして、それをいいことに、隣国(軍)が力づくで決着をつけようと武力で(海保の巡視艇を攻撃して島と周辺海域を制圧して)島(の実効支配権)を奪取しようとしてきたら?
中国とは日中平和友好条約で「主権及び領土保全の相互尊重」「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」と定め、武力行使・武力による威嚇を訴えないことを約束している。それを破れば日本から国交断絶されるだけでなく、国連をはじめ諸国からも非難・制裁を被ることになる。だからそれはできないのだ。
紛争を武力で決着をつけることは、今や不可能な時代であり、外交交渉で、ゼロサムゲーム式(一方が100なら、他方は0)の決着ではなく、双方とも同程度の不満が残る五分五分の痛み分け(島や漁場・海底資源の管理・利用・開発・産物分配をそれぞれ共同で行うか、分割するか等)で決着するか、それとも、とりあえず棚上げ(問題の先送り)を続けるか、それしかないのである。
(7)軍備は「抑止力」どころか、かえって戦争を誘発
紛争はあっても、戦争や武力に訴えるやり方は国連憲章・条約・日本国憲法9条によって禁止され(それを犯せば相手国のみならず諸国から非軍事の制裁を被る)、それら法理と懸命な外交努力とによって戦争・武力行使は抑止されるのであって、軍備や軍事同盟などによって抑止されるのではない。
中国は日本に自衛隊という(実質的には)軍隊があり、日米同盟があるから、おっかながって武力や戦争を控えるというわけではあるまい。それは禁じ手だということがわかっているからにほかならない。
強大なアメリカ軍と日米韓同盟があっても、北朝鮮は核やミサイル開発をやめないし、抗戦政策をやめない。
脅威をもって脅威を取り除くことはできないのである。
アメリカは世界最強の軍備があるから、かえってそれを使いたがり武力行使や戦争にはしりがち。あちこちで反米テロを招き、9.11事件があると、すかさず対テロ戦争と称してアフガン戦争ついでイラク戦争にはしった。
つまり、軍備は抑止力どころか、かえって国民を好戦的にし、戦争にはしらせるもの。
かつての日本もアジア最強の軍事大国を誇り、中国にとどまらず米英を相手に戦争にはしった。
軍備は抑止力ではなく、それどころか、かえって武力行使や戦争を誘発するものなのであって、軍事的抑止力論は軍備増強によって利権・既得権益が得られる者たちの「ためにする」合理化論にほかならない。
<この問題については、このH・Pの評論で「過去の分」に「脅威論・抑止論」と「抑止論の矛盾」というのがあるので、参照されたい。>