抑止論とは、相手の武力攻撃を予め抑止するために軍備は有効であるとして軍備を(核兵器も)正当化するものである。しかし、その抑止効果は、はたしてどれだけあるのか。すなわち、はたして、それで相手に攻撃を諦めさせられるのか否かである。
その攻撃が、(領土や資源・権利・利益の獲得など)何らかの要求を達成しようとする政治目的に発する場合は、抑止効果はある。ただし、その抑止力は相手の戦力を上まわるか、対等でなければならない。相手が核ミサイルを持つなら、自らもそれを持つか、持っている国の同盟国とならなければならない。そして戦力の均衡(パワーバランス)を維持しなければならず、相手の戦力アップに応じて、たえず戦力アップに努めなければならない。そのための財政支出が際限なくなって、ついには持ちこたえられなくなって自滅する。冷戦でアメリカと核軍拡競争を演じたあげくに崩壊したソ連がその代表例である。後ろ盾(ソ連)を失った北朝鮮はアメリカに対して必死に対抗し核開発を進めているが、自滅に向かっているきらいがあると見られている。
一方その攻撃が、かつて受けた仕打ち或いは現在受けている仕打ちに対する我慢のならない不満の爆発、憎しみ・恨み(復讐心)、絶望・聖戦意識・殉教心などに発する場合は効果は無い。なぜならその場合は、相手はそれを晴らすため「何が何でも」ということで、攻撃自体が目的(自己目的)となり、勝ち目があろうとなかろうと、迎撃・撃破されようが、自爆して果てようが、こちらがどんなに圧倒的な戦力を持っていようともおかまいなしであり、相手は攻撃を諦めず、それは抑止しきれない。かって日本の特攻作戦、アメリカやイスラエルに対するイスラム過激派の戦いがその実例であるが、自滅に向かう北朝鮮も「やぶれかぶれ」になって、それに走る危険性もある。
アメリカは、ソ連に対しては抑止効果によって戦わずして勝ちを制したが、抑止のきかない後者(テロなど)に対して脅えることになる。
軍備は相手に同等の軍備を促し、相手の攻撃を抑止するどころか、逆に攻撃を誘うという逆効果もある。なぜなら、それはけっきょく力に頼りがちとなるため、対話・外交交渉を充分尽くそうとしなくなり、「問答無用だ」といっていきなり、或は「もうこれ以上話し合っても無駄だ」といってさっさと開戦・攻撃開始に踏み切るか、「かかってくるなら、いつでもこい。受けて立つ」といって、逆に相手が仕掛けてくるのを誘い込む結果になりやすい。その意味では、それは攻撃を抑止するというよりは、むしろ誘発する。
圧倒的な抑止力を持つアメリカは、同時多発テロに対していきなりアフガニスタンのタリバンを報復攻撃し、国連の安保理の合意に見切りを付け国連査察委員会の査察継続要求を蹴ってイラク攻撃に走ったし、北朝鮮に対して2国間交渉には頑として応じない。それで事は成功裡にはこんでいるのかといえば、逆である。アメリカなど5大国の「抑止力のため」と称する核保有は、NPT(核拡散防止条約)があるにもかかわらず、諸国家やテロ組織の間に核拡散を促す結果になっている。北朝鮮は「我々の核兵器はあくまで自衛のための核抑止力にとどまる」として核保有を宣言している。
アメリカは、イラクに対しては予防自衛のためと称して先制攻撃を加え、戦争を招いたし、北朝鮮に対してもそれ(先制攻撃)を選択肢に入れている。戦争を抑止するための核軍備と云いながら戦争を招く。抑止論はまさに自己矛盾なのである。
領海・領空侵犯やテロや拉致などに対する抑止力としての警察力は必要であっても、我が国に戦力(軍隊)は必要なのだろうか。政府・防衛庁も、近隣諸国で日本に武力侵攻する能力や意図をもつ国の存在は想定できないとしている。係争地となっている「北方領土」・尖閣諸島・竹島などの島や東シナ海の海底ガス田などの問題があるが、そのために戦争になるかもしれないなどという蓋然性は考えられない。それよりもむしろ、警察力以上の過剰な軍備(自衛隊の軍隊化と「日米防衛協力」体制)を持つことによって、かえって近隣諸国に緊張を強い、刺激して攻撃を誘いかねないという、その方が心配されるのである。