米沢 長南の声なき声


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日々、生命の燃焼(加筆修正版)
2008年07月18日

 先日、三人目の孫が生まれた。オギャー、オギャーとばかりに生命を燃焼させ始めている。新しい生命の誕生、新しい人生のスタートだ。
 「生きる」とは、生命を燃焼させることであり、人生は、日々、生命の燃焼。
(1)目標をもって生きる
 すべての生き物は、生命を燃焼させて生きている。動物は欲求をもち、それが獲物や交尾の相手を求め、子を生み育て、天敵から身を守るなどの行動にかりたてる。すなわち欲求が行動にかりたてる原動力や活力となり、「生命力を発揮」させ「生き生き」とさせ、いわば生命の燃焼に光り輝きを加えるのである。(獲物を狙い追いかけ襲いかかる時の動物は、目は爛々と輝き、躍動感に満ちている。)
 人間の場合は、赤子のうちは動物と同じで本能的・生理的欲求だけにとどまるが、成長するにつれ、その欲求に自己実現欲求や文化的欲求など様々な欲求が付け加わる。
 それに人間は本能的な欲求選択調整力(諸欲求の中から、その時その時で最優先の欲求を選びとり、他は先送りするなどの欲求コントロール能力)をもつだけでなく、「こうすればこうなる」と考える論理的思考能力をもち、いわば目標設定計画力(何か目的・目標をもち、それを目指して作戦・計画たてる能力)をもつ。そして目的・目標を果たそうとして一生懸命になり、必死になったりもする。(うまく果たせれば達成感を味わい、結果は失敗に終わっても、それに取り組んでいる過程で心の充実感を味わう)そこに「生きがい」を感じる。人々が日頃思い描く目標にはだいたい次のようなものがある。
 生きることそれ自体、直面する問題解決、生計、仕事、金儲け、蓄財、昇進、地位獲得、家族の幸せ、愛、子育て、人助け、社会貢献、社会運動、闘い、復讐、創作、鑑賞、学問、スポーツ、試験合格、趣味、ゲーム、ギャンブル、旅行、冒険、お祭り、娯楽。
 これらの欲求と目標が人を行動にかりたて、生命力を発揮させ、生命の燃焼に「より豊かな」光り輝きを加える。(逆に云えば、欲求と目標を無くしてしまったら「生きがい」も無くなってしまい、生命の燃焼に光り輝きが失われる。)

 事例(1月9日、NHK「生活ホット・モーニング」から):末期ガンで寝たきりの患者にリハビリを勧めたところ、患者は「どうせ死ぬんだから」と言って難色を示したが、どうにか説得すると、「それなら、友人が集まる恒例のパーテーに行きたい。その会場は2階だから階段を登れるように」といってリハビリを受けた。その結果、パーテー出席の目標を果たしただけでなく、それまで動かずにいたために損なわれていた機能も回復し、活動範囲が広がって新たな生きがいを呼び起こすことになったという。

 心身とも健康で体力・知力に経済的余裕もあるという人の場合には、どんな目標選択も可能なわけである。
 海洋冒険家の堀江謙一氏は、以前、ヨットに「一人ぼっち」乗って太平洋を横断、その後「単独無寄港世界一周」を2回も果たしたが、今年69歳となって、今度は「波力推進船」でハワイから日本まで踏破して見せるという目標と計画をたてて実行し、それを果たした。7,800キロを、化石エネルギーには頼らず完全に自然エネルギーでというわけだが、波まかせ、徒歩より遅いスピードで110日間かかって、帰ってきて曰く、「精神と肉体を完全に燃焼できました」。そして三桁(100歳代)まで頑張ると冒険への挑戦を宣言した、とのこと。

 常人では思いもよらない壮挙には違いないが、人によっては、それは偉業というよりは、人々の実生活には何の役にも立たない当人の自己満足に過ぎない壮大な愚挙とも思えるだろうが、私などはこのスピード時代に何ともスローな大冒険もあるものだなという感動を覚えた。いずれにせよ、彼の生命は100年間燃焼を続け、燦然たる輝きを見せるということだ。
(2)目標は何だっていいが、これだけは
 欲求選択・目標設定も「世のため、人のため」になるようにものならば、それにこしたことはない。人々から感謝され、共感が得られれば嬉しいし、より満足感が得られるからである。しかし、そのようなものではなくても、(この私が今こうしてやっているような)人様には何の役にも立たない自己満足にすぎないものではあっても、人畜無害で、犯罪など法や人の道に反しないかぎり、目標は何だってよい。

 ところが、置かれている状況やその境遇から、目標を選ぼうにも(仕事にしても何にしても)選べる余地が無く、絶望感に陥っている人が少なくない。
 彼らの中に、やけくそになって(自暴自棄に陥って)自殺にはしったり、ひどいのには死刑になって死にたいと「間接自殺」をはかって無差別殺人にはしったりした者もいるわけである。

 しかし、たとえ自分が、いつまでたっても「使い捨て」派遣社員の身だとか、絶望的な境遇に置かれて目標も夢も希望もすべて失い、生命の燃焼に光り輝きは失っているとしても、或はまた(「フリーター、希望は戦争」と云う赤木智弘氏が論ずるように)フリーターや派遣社員の生活は日々「生きるための戦い」であり準戦時と同じだとは云っても、本当の戦争(それは「死に至る戦い」というべきもの)で武器による殺傷行為によって完全に命が絶たれてしまうのとは異なり、生命そのもの(火種)は保たれ燃焼し続けているかぎり、たとえかすかなりとも光り輝きを取り戻す余地は残されているのだ。
 人は、いかなる事情のもとでも(辛く、苦しく、苦悩・苦痛にさいなまれ、死に瀕している場合でさえも)、生きているかぎりそこには、(享楽や社会的成功とかではなくても)何らかの、たとえどんなに些細でささやかなものであっても、その人にとって生きていればこそ得られる楽しみ(「生きている意味」をなすもの)があるはずなのだ。

 にもかかわらずそれを、「どうせ生きていても無意味だ」などと決め付けて自らの命を絶ってしまうことこそ無意味なのである。
 死は、その人自身にとっては生きていればこそ得られるはずのものが、全く無でしかなくなる(万一苦痛・苦悩や重荷からせっかく解放されたとしても、そのかいも無くなってしまう)からである。

 (それにしても、他の生き物はすべて、それに赤ん坊も、目的・目標など持たなくても、あるがままに、ただひたすら生きている。それは生への本能的欲求があるからである。造物主―神様が生命を与えた生き物には、「死を欲する」欲求は与えられてはいない。)

 精神科医でメンタル・ヘルス国際情報センター所長の小林司氏がその著書(「『生きがい』とは何か」NHKブックス)に、数十年前亡くなった東大教授で宗教学者であった岸本英夫が、あと半年の命と宣告されながら、10年近くもガンと闘い続けて書き残した著書から、彼(岸本)の死に対する考え方を紹介しているが、それは次のようなものである。
 彼は、死後も生命は存続するなどとは信じなかったし、天国や浄土などの理想世界を信じることはできなかった。
 彼が気づいたことは、死というものは実体ではなくて、実体である生命が無くなるということに過ぎないという事実であった。生と死は、ちょうど光と闇のようなものだが、暗闇というのはそれが存在するのではなくて、光が無いというだけのこと。
 人間に実際与えられているのは現実の生命だけだ。人間にとって確実なことは、「今、生きている」ということだけ。その寿命の中の一日一日は、どの一日もすべての人にとって同じように実態としての生命であり、どの一日も同じように尊い。
 いくら死が近づいても、その死に近い一日も、健康な時の一日と同じように尊い。したがってその命が無くなる日まで、人間は生命を大切にしてよく生きなければならない。
 「与えられた人生をどうよく生きるか」ということが問題なのであって、辛くても苦しくても、与えられた生命をよく生きていくより他、人間として生きるべき生き方はない。

 小林氏は、岸本氏のこの考え方のように最後を生きた方(姫路市で理髪業をしていた田中祐三氏)を紹介している。
 彼(田中)は胃ガン手術後、再発の恐怖にさいなまれたが、ある講習会で「悪い方にばかり考えず、物事を別の方角から見て良い方に解釈する」「見方一つで希望をつかめる」と学んだ。暫くたって、ガンは腸に転移して(S字状結腸の4分の3が詰まって便が通らず)激しい痛みに苦しんだ。しかし彼は「ガンの末期であっても楽しく生きられ、見方を変えればガンだって怖くない。日々の命に感謝しよう」ということを、ガンで苦しむ人たちやその家族に訴えたいと決意して、北海道から岡山まで十数ヵ所で講演して歩いた。東京大学では、学生や医師らを前に「私には今しかない。今、今、今です。あとすこしの命だが、今を楽しく生きれば、明日につながる」と訴えて、強い感動を与えた。「ぼくはガンと闘っているつもりはない。死ぬ方向ではなく生きる方向を見つめているだけです」と生きることの素晴らしさを半年間語り続け、多くの人に生きる勇気を与えて、彼は大阪のホスピスで最期を終えたという。

 生命の火種を絶やさず、燃焼させ続けているかぎり、それを光り輝かせることができるのだ、ということだろう。

 フリーターや派遣工で日々その日暮らしの惨めな境遇に置かれ、自分を秋葉原事件のKのように「不細工で学歴がなく金もない。結婚もできずに家庭をつくることもなく、いつホームレスになるかもわからない」と思い込んでいる若者は今の日本には沢山いるだろうが、生命の火種だけは絶やさず燃焼を保ち(すなわち生き続けて)、たとえほんの少しでも光り輝くことを諦めきってはいないというのも現実なのだ。

 しかしながら、命の炎を燃え上がらせるとはいっても、他人の命を脅かすか奪い去る凶行にはしり無差別殺人という暴挙におよぶ者が現れているのも現実だ。「やりたいこと―殺人、夢―ワイドショー独占」という欲求選択・目標設定(携帯サイトに書き込み)をおこない、「誰でもよかった」、「人を殺してみたかった」とばかりに、まるで「試し切り」「生体実験」でも行なうかのように人を斬りつけて殺す。
 生命尊重観念の欠落―すべての人がそれぞれに持つ「かけがえのない命と人生」に対する無頓着・無関心さ。誰も彼も皆、人形か玩具か電子ゲームの標的同然であり、どいつもこいつも生きている価値なんて無く壊しても殺してもどうということはない、といった無価値感・虚無感。無差別殺人は、その者のそういった感覚が為せる業とも考えられる。
 そういった感覚(人それぞれに持つ「かけがえのない命と人生」というものに対する無頓着・無関心、虚無感など)を植えつける家庭環境・教育環境・社会環境の歪みに問題があるのであって、それらを是非とも正さなければならない。そして自殺も殺人も起きないような社会にしなければならないのである。(この国で自殺は、この10年毎年、年間3万人以上、人口当たりの自殺数は先進国中最多であり、アメリカ・イギリスの2~3倍の多さである。「経済大国」「平和国家」などといっても、とても自慢できる状態ではないということだ)
 自殺や殺人が起きるのは、人の命を大切にする心を育てるべき親の教育もしくは学校の教育が不徹底で生命尊重観念がきちんと植え付けられていないせいだとか、マスコミが「スピリッチュアル・ブーム」をつくりだして、肉体は滅びても「霊」は生き続けるなどという観念を植え付けているせいだとか、テレビもDVDやビデオも漫画も至る所でその仮想現実を見せ付けているせいだとか、ゲーム機が擬似的に「殺戮」をやらせているせいだとか、要するに家庭や学校その他、社会の教育環境に問題があることも確かだろう。
 しかし、そのような教育や教育環境の問題だけではなく、社会の構造に問題があることも確かである。
 親や学校やマスコミその他に原因がある場合もあるが、あくまで本人(個人の資質)のせいであることが多いのだ。命の大切さは親からも学校の先生からもそれ以外でも教えられて来ないはずはないのに、また「いじめ」にあったり、みじめな派遣社員だったり、その人と同じ目にあっている人は他にもたくさん居るのに、その人だけ自殺・殺人に走ってしまう、だとすればそれは他の誰のせいでもなく本人のせいだ、と云うしかないかのようである。
 しかし、たとえ、同じ目(境遇)にあっていながらも耐え忍んでいる人がほとんどなのだとしても、現実に、学校では競争・選別・教員統制があり「いじめ」があり、会社・職場では不安定雇用・長時間過密労働・労働疎外があり、経営の行き詰まり・多重債務があり、介護疲れ等々、希望が閉ざされている状況が社会に多々あって、その結果、極度のストレス、疎外感・不安・絶望感に陥っている人がたくさん生じ、その中から、心身症的不調(抑うつ気分)からブレーク・ダウン(人格崩壊、無感情・無関心、妄想、社会不安障害・パニック障害など)の症状に陥った者(そういう人に「命を大切にしなさい」と言って聞かせようとしたところで、効果はない)、彼らが自殺あるいは八つ当たり殺人に走ったのだとすれば、根本原因は、やはり学校や会社のあり方、社会のあり方にあり、結局は社会に問題がある、ということであって、けっして本人(個人の資質や家庭の問題)だけのせいに帰すべきものでもあるまい。
 
 人々の肉体的・精神的苦痛(激痛・高熱・嘔吐・呼吸困難・発作・妄想・幻聴など)を取り除くか和らげる対症療法とともに、苦悩の根源(人を精神疾患・人格障害に陥らせる根本原因―極度のストレス)を取り去る社会環境の改善、家庭・学校・地域社会・職場など社会の構造改善が必要不可欠なのだ。

 とにかく、人々が人生を毎日生きていく上で望ましいのは、生命の燃焼に光り輝きを加える(生命力を発揮させる)のに役立つ目標をもつこと。それ(目標)はどんなものであってもよく、必ずしも「世のため人のため」になるようなものではなく自己満足に過ぎないものであってもよいのだが、「やりたいこと―殺人」だとか「希望は戦争」だとか社会を害し人を害するものだけは、それが正気であろうとなかろうと(精神状態がどうあろうと)、そのような目標を思いついて実行することは断じて許されないということだ。

(3)優先順位一番の選択
 最近、市の健康福祉部高齢福祉課(事業管理係)から「高齢者福祉事業に関する意識調査」の回答依頼があった。
 その設問には
「問6、あなたはどのくらい外出してますか。」
「問8、あなたはインターネットを利用してますか。」
「問16、在宅で生活している方―今後、身体が弱くなったり、判断力が不十分になったとき、どこで生活したいですか。(1)住み慣れた家 (2)高齢者向けのアパート・マンション (3)施設 (4)その他」
「問17、現在の暮らしについて経済的にどう思いますか。(1)大変ゆとりがある (2)ややゆとりがある (3)普通 (4)やや苦しい (5)大変苦しい」
「問22、あなたは何歳以上を高齢者と考えますか。(1)55歳以上(2)60歳以上(3)65歳以上(4)70歳以上(5)75歳以上(6)80歳以上(7)年齢では一概に言えない(8)わからない」
 といったものがあったが、次のような設問もあった。
 「問20、あなたは現在、どのようなことに喜びや生きがいを感じますか。(あてはまるものすべてに○)(1)働くこと (2)学習や教養を高めるための活動 (3)ゲートボールやウォーキング等のスポーツ・レクリエーション (4)園芸・手芸・囲碁・将棋などの趣味の活動 (5)ボランティア活動 (6)老人クラブ活動 (7)町内会・自治会の活動 (8)特技や技術を生かした創作・伝承活動 (9)近所や友だちとの付き合い (10)テレビ・ラジオ・新聞・読書 (11)旅行やレジャー (12)家族との団らん (13)買い物 (14)パソコンやインターネット (15)子や孫の成長を見守ること (16)ペットの世話 (17)恋愛 (18)その他(     ) (19)特にない」

 私が○を付けたのは(14)と(18)で、(18)の( )には「評論」などと記入したものだが、そこで私が考えたのは次のようなことだ。 
 仮にこの身がガンや何かで余命幾ばくもない命であることが判った時、それまでは自分の生きがいにつながる大切なものが幾つかあった中から、もはや「あれもこれも」というわけにはいかなくなって、何か、優先順位の一番を除いて他はすべて諦めなければならなくなったという場合、ただ一つ残る一番大切なものといえば、それは何か。(最後の命をかけなければならないと思うもの、一番心残りに思うものは何か)
 仕事、事業、お金、財産、何かの愛蔵品・愛用品、作品、趣味、冒険、国家、地球環境、憲法、妻子、孫、母親、父親、恋人、友人

 かくいう私の場合は?それはやっぱり・・・・・孫の行く末かな。(憲法が大事なのはこの孫たちのためだ。父も母もとおの昔死んだし、「妻のことは?」だって?それは、妻も孫のことが一番と思っているだろうよ。まさか亭主のことが一番心残りだなんて思ってはいまい。)

 そもそも、私がこの世に生を得たかぎり、この私でないと出来ないこと(この私だからこそ出来ること)をやって死ぬのが本懐というものだろう。
 この私が出来ることは誰でも出来るものばかりで、私にしか出来ないものなどというものは格別ないのだが、ただ一つ、自分の身内(妻子・孫)に対する無償の「世話やき」だけは、夫であり、親であり、爺である私でなければ出来ず、私だからこそ出来るのだ、ということだけは確かだろう。
 だから、何をやめても、これ(身内の世話焼き)だけは最後までやめることはないだろう。・・・・・「オギャーオギャー」。孫が泣きだした。女房はベランダで物干しか。だったら、この私がやるしかない。さぁ子守りだ!(作業は、しばし中断)

(4)結果はダメでも
 (ジャイアンツ元エース・ピッチャーの桑田が入団当初、君の特技は何かねと訊かれて「努力することです」と答えた、ということが何かに書いてあったのが頭にあって)孫には「お前の特技は、何でも(目標に向かって、たとえ結果はダメでも)頑張れることだな(サッカーでも水泳でもバイオリンでも、ピアノでも)」と云っている。
 但し、頑張り過ぎはいけない。『燃え尽き症候群』(何もかもが嫌になるうつ病)に陥ってはまずいから。
 仮に終末期を迎えたとしても、闘病は頑張れるだけ頑張りはするが、これ以上はもう無理だというのに延命措置をいつまでも続けてまで生かされていたくはない。安らかな自然死が一番。
 私自身の生命は寿命がきて燃え尽きても、火種は孫に引き継がれていく。この孫たちの生命が燃焼し続けているかぎり、我が生命は不滅ということになる。
 
 小2の孫が、(氷を入れた大きなコップに牛乳2杯目を注ごうとして)母親である娘から「もうやめなさい!」といわれ、私からも「そうだ、そんなに飲むもんでない」といわれたら、はらはら涙を流して「生まれてこなきゃよかった」とつぶやいた。
 しかし、彼は生まれてきたからこそ(嫌なこと、辛いこともあるが、その後に)喜び楽しみが得られるのであって、生まれてこなければ何も無いのだ。
 それに、彼がそもそもこの世に生まれてきたのは、自分が、喜びや楽しみが得られるからだけではなく、(たとえどんなに辛く、嫌なことばかりあっても)人生の途上で何ごとか(余人をもってしては代わることのできない「使命」)を果たすことが期待されているからである。
 自分の人生に何か(自分の望んだ通りのこと、楽しいこと)を期待しようとするのが間違いなのであって、むしろ逆に、彼の人生のほうが、人々あるいは「神様」から「彼なくしては望めないもの」を期待されているのだということ。そこにこそ、「生まれてきた意味」があるのだ。
 この「じじい」は彼に我が命を引き継いでくれることを期待しているが、親は彼に(親に万一のことがあったら彼の妹・弟の面倒を見てもらわなければとか、バイオリンでも何でも、親が果たせなかった夢を我が子に託すとか、我が子が自分自身の可能性を試し自己実現を果たすことを願うのみだとか)様々なことを期待しているだろうし、妹・弟の兄に対する期待があり、彼をとりまく人々の期待もあるだろう。それに「天」は彼に何がしかの使命を課しているはず。彼にはいったいどんな使命が課され、人々から何を期待されているのだろうか、それを考え、判断するのは彼自身なのだが。

 彼はぷいと部屋を出て1時間余り過ぎるとケロっとして戻ってきて、(「生まれてきた意味」を悟ったから、というわけでは勿論ないが)私の前で嬉々として振舞っていた。嫌なことは直ぐ忘れてしまう。それでよいのだ。

 なにはともあれ、我が生命に寿命がきて最終的に燃え尽きる時が来るまで、それでは今日も一日、(朝起きて、夏場はラジオ体操前に、ウォーキングから始まって・・・ちょっと子守りもして・・・夜、床についてウォークマンで音楽を聴いて寝るまでの日課を)さあ頑張ろう。(と深夜までパソコンに向かい続けていたら、「いつまで起ぎでんなだ!」と妻は口説く。そうだ、頑張り過ぎはいけない。)

 早朝、散歩に出かけて、川沿いの道路から3mほど下を流れる小川を見下ろしながら歩いていると、カルガモの親子を目にした。前にもこの近くで見かけたその時は、子鴨はヒヨコだったが、それが親鳥の半分近い大きさになっている(しかし未だ飛べない)。母鳥1羽に小鴨は9羽。逞しい母鳥。我が孫(3人)の母親(我が娘)に見せたかった。
今朝も居るかな、と思いながら同じコースを繰り返して3日目、同じあたりを親子10羽がやって来るではないか。すかさず、家にカメラを取りに戻って駆けつけると、きびすを返した母鳥を先頭に一列縦隊をなして一散に泳ぎ下る。それを追い抜いて前方からカメラをかまえ、通り過ぎるとまた追いかけて撮り直す。3回かそこらそれを繰り返すと、親子は葦の草むらにたどり着いて、そこに隠れとどまった。空をカーカー烏が飛んでいく。危ない!
 その場所で合流する支流の川上15メーター程のところにどさっとゴミがたまっていて流れを塞ぎ、水が淀んでいる、その上から消毒(殺虫剤散布)をしている人がいる。その汚染水が流れる先の草むらには鴨の親子が身を寄せて隠れ潜んでいるし、さっきの川にはハヨやコブナ、ちょっと下流には鯉も見かけるというのに。鴨の親子を追い込んで危機に追いやったのは私の方だ。カメラを持ってうろついている私はそれで「生命の燃焼に輝き」をみせようとしているつもりが、鴨の親子にしてみればとんだ迷惑。・・・・反省、反省。彼らも日々、生命を燃焼させて生きているのだ。



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